エピローグ:お花見の誘いと英雄の旅立ち
いつの間にか天守閣には、柔らかな月の光が静かに差し込んでいた。
激しい戦いの残り香も、夜風が優しく吹き流していく。
「今夜は満月ですね、お月見と洒落込みましょうか?」
と玲姫が柔らかく笑った。彼女の視線は、遠くの街並みからゆっくりとファズへと向けられる。
「ここから見える桜も気に入っております。今は葉桜の季節ですが……次はお花見もいいですね」
ファズはただ、夜空に浮かぶ月を見上げるしかなかった。
玲姫は自身の装束の袖をぎゅっと強く握りしめ、わずかに潤んだその声を震わせながらも、微笑みを浮かべた。
「……先ほど、ファズ様がおっしゃってくださったこと。『ネコが幸せな国』……私、とても、良いと思います」
一呼吸置き、彼女はまっすぐにファズを見据える。
「……ファズ様。どうか、これからも。
この若津という国を、そして未熟な私を、どうか手伝っていただけないでしょうか」
それは、一国の主となる姫としての公的な要請であると同時に、過酷な運命を駆け抜けてきた一人の少女としての、あまりにも切実で真っ直ぐな願いでもあった。
玲姫とともに新たな国の復興に携わり、困っている人々を救う日々。
あるいは、玄信と並んで穏やかに釣り糸を垂れるような、そんな静かで温かな未来。
ふと足元を見下ろすと、黒猫がハチミツ色の瞳を細めてファズを見上げていた。
まるで、「それがお前が望んだヒーローの姿か?」と、問いかけるかのように。
ファズはいつものようにからりと快活に笑い飛ばすと、スッと親指を立ててみせた。
「困ったことがあったらさ、いつでも飛んで来るよ。
それが、俺の目指すヒーローだからな!……じゃあ、みんな、元気でな!!」
彼の言葉を合図にするかのように、ファズの足元に眩い黄金の幾何学模様
――空間を繋ぐ「神足通」の光の陣が鮮やかに展開される。
やがて眩い光が一点へと収束し、静寂が再び戻ってきた天守閣。
玄信は、ファズが消え去ったからっぽの空間をしばらくじっと見つめていたが、やがてやれやれと大げさに肩をすくめて見せた。
「……ふむ。『逃した魚は大きい』とはよく言ったものですが、
あのような得難い男を釣り上げる方法までは、姫様に指南してやれなかったようです」
「もう、ゲンさんっ!変なことを言わないでください、からかわないでっ!」
その言葉に、玲姫は一瞬で耳まで真っ赤に染め上げ、恥ずかしそうに抗議の声を上げる。
その初々しく年相応な少女らしい姿を見て、広間の隅で武王の豪快な笑い声が腹の底から響き渡った。
「わっはっは!案ずるな、玲。どうしても手に入らぬというのなら、力尽くで奪い取れば良いではないか。
どうだ、余の軍勢を貸してやろうか?」
「ご先祖様まで何を言っているんですか!そんな脳筋すぎる解決策、これっぽっちも求めてませんから!」
恥ずかしさと呆れが入り混じった玲姫の必死の叫びが、長い戦いを経てようやく平和を取り戻した若津の空へ向けて、いつまでも明るく響き渡っていくのだった。
閑話:『一つ目』
玄信が街の様子を探るべく、淡海の酒場に出向いた。
兵士が酒を飲みならが語っているのが聞こえてくる。
「玲姫様たちが地下迷宮脱出しただろ?……見たんだよ、俺」
周囲の客たちが息を呑む中、彼は震える手で盃を煽る。
「暗闇の中でから出てくる、緑色に光る一つ目の妖がいたんだよ」
町民が怯えたように言った。
「妖怪を従えた玲姫様……あのお方は、本物の巫女姫なんだな」
玄信は、思わず口元を緩めた。 脳裏に浮かぶのは、あのお人好しな青年の顔だ。




