第9話 祭りと、馬車
三日、眠っていたらしい。起きたら、家の天井だった。黒く煤けた梁。藁の匂い。十五年見てきた景色。枕元にリタがいて、俺が目を開けた瞬間に、声も出さずに泣いた。ダンは何も言わずに部屋を出ていって、しばらくしてから戻ってきて、また何も言わずに座った。
アイリは、部屋の隅で膝を抱えていた。食事と着替えのとき以外は、三日間そこにいたのだと、後で聞いた。
「怒ってる?」
俺が訊くと、リタは頷いた。頷いてから、首を横に振った。リタは俺の頬に手を当てた。確かめるみたいに、もう一度当てた。
「起きたら、うんと叱ってやろうと思ってたんだよ。三日も目を覚まさないんだもの。……でも、よかった」
「……ごめん」
「うん。……でも、あんた、傷はないのに苦しそうで。何をしてやればいいか、分からないんだよ」
俺は、いつもの返事を飲み込んだ。
「水がほしい。あと、起こして。まだ、一人だと無理」
ダンが背中に手を入れた。リタが椀を持ってきた。一口飲むあいだ、二人とも、そこにいた。
*
それから、村での俺の扱いが変わった。神童ではなくなった。英雄になった。外に出ると、村の誰かが必ず頭を下げる。子どもが遠巻きに見てくる。薬師のばあさんは、俺の顔を見てから、手を取った。
「まだ、痛むかい」
「うん。傷はもうないんだけど」
ばあさんは、俺の顔から目をそらさなかった。
「前に、何もないって帰しちまったね。あたしに見えなかっただけなのに。……座りな。どこがいちばんつらい?」
ばあさんは椅子を引いた。うまく場所を言えずにいる俺を、薬草の仕分けにも戻らずに待っていた。
*
村長が、あの抉れ跡を「テオの傷跡」と呼び始めて、それが一週間で定着した。居心地が悪かった。神童と呼ばれていたときと、同じ種類の居心地の悪さだった。俺は何も偉いことをしていない。ただ、痛いのが治る体で、そこに立っていただけだ。
「これで、山が鳴っても安心だな」
村長がそう言って、俺の肩に手を置いた。笑って頷きかけた。けれど、置かれた手の重さだけで、背中がびくりとした。
「次もできるかは、分からない。今度は、起きられないかもしれない」
声が、思ったより小さくなった。村長の手が離れた。気まずかった。村を救った翌週には、もう期待を外している。でも、村長は俺を叱らなかった。斜面を見上げて、しばらく黙っていた。
「……沢の見回りを、決め直すか」
広場に戻ると、村長は祝いの飾りを書きかけていた板を裏返した。そこに家の名前を、一軒ずつ書き始めた。
*
ギオが来たのは、その見回りが始まってからだ。空の背負い籠を抱えて、鍛冶場の戸口で立ち止まった。
「薪を運ぶやつが足りねえって」
「ああ。助かる」
ギオは籠の縁を握り直して、床に目を落とした。
「あとさ、昔、殴って悪かった。お前ばっかり褒められて、腹が立ったんだ」
「……痛かったよ、あれ」
「ああ。もう、あんなことしねえ」
少し黙って、俺たちは同時に息を吐いた。ギオは籠を背負った。今度は、大人が見ているかを確かめなかった。
*
ダンは、しばらく俺に炉の前を任せなかった。代わりに、寝床の横へ椅子を持ってきて、金槌の柄を削っていた。ある晩、木屑を払う手を止めずに、ダンが言った。
「あのときは、怖かった。お前を連れ戻すことしか、考えられなくてな」
「でも、みんなを逃がしたじゃん」
ダンは頷いて、出来上がった柄を俺に見せた。受け取ろうとすると、その目が俺の指先で止まった。
「お前に継いでもらうことばかり考えてたがな。鍛冶屋になるかどうかは、お前が決めろ。ほかにやりたいことができたら、言えよ」
「……ダンは? 街の鍛冶屋、見に行かないの?」
「そうだな。俺も、一度は見に行ってみるか。一日くらい仕事を休んでも、いいだろ」
笑い方が、少し下手だった。
その夜、リタがまた椅子で眠りかけると、ダンが肩を叩いた。リタは俺を見た。
「お父さんに代わってもらうね。何かあったら、呼んでおくれ」
「うん」
リタは寝床へ行った。行きかけて一度振り返ったけれど、戻ってはこなかった。
*
夏の終わり、自警団の男に、足の置き方を習い直した。剣は使わない。地面に引いた線の外へ、半歩ずれるだけだ。それだけで俺は何度も足をもつれさせた。男は折れた枝で、線を引き直した。
「剣は要らんと言ったが、避け方くらいは教えとくべきだったな」
「今さら?」
「今さらだ」
俺は半歩、足を引いた。今度は転ばなかった。
*
その年の秋、また収穫祭が来た。広場に櫓が組まれた。今年も俺は縄を縛る係で、アイリは花を運ぶ係だった。去年と同じだ。去年と同じことが、今年もできる。それが、村が無事だったということの意味なんだと思った。ただ、今年のアイリは、途中で花籠を地面に置いた。
「午後は、ばあさんのところに行く」
「花は?」
「残り、頼んでもいい?」
「いいけど」
「薬草を教えてくれるって。私から、お願いしたの」
アイリは籠の取っ手から、ゆっくり手を離した。
「へえ。ついに弟子入りか」
「まだ、名前を覚えるだけ」
「でも、やりたかったんだろ」
アイリは、大きく頷いた。そのまま立ち去るかと思ったが、アイリは俺を見上げた。
「テオも、どこかに行きたくなったら、教えて」
俺は縄を持ったまま、手を止めた。
「どうして、俺がどこかに行くと思ったんだ?」
去年、訊けなかったことだった。アイリは少し考えた。
「名前を呼ぶと、ときどき、よその人みたいな顔をするから。……でも、行かないって、すぐ言わなくていい」
「……分かった」
「私も、そのときどうしたいか、考える」
アイリはそう言って、一度だけ取っ手に戻しかけた指を、引っ込めた。俺は籠を受け取った。花を落とさないように、両手で持った。
*
櫓の縄を縛りながら、俺は妙なことを考えていた。
十五年。
この世界で十五年、生きた。前の世界で生きたのが十七年だから、もうすぐ追いつく。リタの顔は、毎日見ている。ダンの背中も、炉の音も、全部覚えている。でも、俺はまだ、自分が「リンデ村のテオ」になれたのかどうか、分からなかった。英雄と呼ばれても、神童と呼ばれても、名前を呼ばれるたびに、半分だけ返事をしている感じが消えない。
どこかで、まだ返事をしていない自分がいる。リタにもダンにも、まだ話していないことがある。アイリにも、よその人みたいな顔になる理由を、答えられていない。
――まあ、いいか。
そう片付けるには、受け取った花籠が、すぐそばにあった。俺は一度、縄を緩めた。祭りが終わったら、もう少し話そうと思った。何から話せばいいかは、まだ分からなかった。
*
昼過ぎだった。行商人の荷車が村に入ってきて、広場の手前で止まった。今年は馬を二頭連れていて、一頭は若い馬だった。祭りの音に耳を動かして、落ち着かない。
「先に店を出したらどうだ」
誰かが言った。行商人は首を振った。
「先に馬を外す。こいつ、人混みに慣れてなくてな」
「売り時を逃すぞ」
「来年も売りに来たいんでね」
男は客に背を向け、車輪に留め木を噛ませた。手綱を短く持ち、若い馬を車につなぐ革帯へ手を伸ばした。俺はそれを櫓の下から見ていた。
アイリが、広場を横切っていた。ばあさんのところへ行く前に、最後の一抱えを運んできたらしい。両腕いっぱいに野花を抱えて、足元が見えていない。顔を上げていない。その目の前に、荷車の進路があった。
――どこかで、見た。
*
若い馬が、何かに驚いた。何に驚いたのかは分からない。虫かもしれないし、影かもしれない。馬が跳ねた。もう一頭が引かれ、車輪が留め木を乗り越えた。
「どけっ!」
行商人が手綱にしがみついた。店先へ飛び散った荷物を見もせず、踵を石畳に擦りつけて踏ん張った。間に合わない。車輪が回り出した。石畳の上を、加速しながら。
*
考えていない。本当に、何も考えていなかった。俺の体は、勝手に前に出た。
*
手を伸ばして掴む、じゃない。腕を引く、でもない。そんな余裕はどこにもなかったから。肩から、思い切りぶつかった。
*
体当たり。自分でも笑えるくらい、雑な助け方だった。アイリの体が横に吹き飛ぶ。抱えていた花が、全部空に散った。彼女が石畳に転がるのが、視界の端に見えた。よかった。そう思った。
*
世界が、横に飛んだ。
*
白かった。
*
え。俺は、周りを見た。上も下もない。床の感触がない。見覚えがある。十五年ぶりの、白。
「……ここ」
言いかけて、やめた。いや、待て。治るはずだ。俺は轢かれても治る。山を一つ受け止めても治った。馬車ごときで、どうして。
『特定のシチュエーションに一致した』
声じゃない声が、いきなりそこにあった。
「今度は、どこに行くんだ?」
『死にかけた元の体に戻る』
意味が分からなかった。元の体。元の。初めて、この白い場所で、俺は必死に声を張り上げた。
「待ってくれ、まだ――」
まだ、リタに何も言っていない。ダンに何も言っていない。アイリには、行かないって言ったのに。去年の秋、松明の下で「テオは絶対どっか行っちゃう気がする」と言われたとき、俺は笑って「行かない」と答えた。どうしてそう思うのか、訊けたのは今日だった。
行きたくなったら教えて、と言われた。違う。行きたくなったんじゃない。その一言を、まだ、あの子に返せていない。
*
白が、濃くなっていく。遠くで、聞こえた気がした。石畳の上から、誰かが叫んでいる。
「テオ!」
*
半分だけだと思っていた名前だった。今は、その声のするほうへ、帰りたかった。




