第10話 白い天井
天井に、梁がなかった。白い板。その継ぎ目に沿って伸びる明かり。丸い火災報知器。名前は出てくる。十五年、一度も見なかった物の名前が。どこかで金属の触れ合う音がした。ダンが炉に火を入れるには、もう明るすぎる。寝過ごした、と思って体を起こしかけた。
胸の奥を、細い針でまとめて刺された。
「っ……」
腕にも痛みが来た。右手が途中で止まる。白い布の上に落ちたのは、俺の知っている手より少し大きな手だった。
「翔?」
椅子にいた人が立ち上がった。黒い髪と、頬に残った袖の縫い目の跡。リタ、と呼びかけた口が止まる。違う。母さんだ。十七年、一緒に暮らしていた母さんが、そこにいた。
「……母さん」
呼び直すと、母さんはベッドの手すりを両手でにぎった。その指に力が入って、関節が白くなる。
「うん。ここにいる。分かる?」
「分かるよ」
声が低かった。俺の声なのに、最後に聞いた自分の声と違う。母さんが枕元のボタンを押した。足元にいた父さんが、椅子から腰を上げる。眼鏡の奥で俺を一度見て、それから廊下へ顔を出した。
「目を覚ましました」
そんなに普通の言葉で、済んでしまうことらしかった。
名前を聞かれた。学校と、年齢も聞かれた。名前のところで一度、のどが動かなかった。テオ、と答えるための息が、まだ残っていたからだ。
「三田翔です。高校二年で、十七です」
医師はうなずき、今度は痛む場所を確かめた。胸。右腕。肩。そこから先は、うまく分けられなかった。馬車が来た。アイリの腕いっぱいにあった花が、散った。その前にはトラックが来た。青い、大きな車体だった。
俺はどっちの体で、どっちの痛みを覚えているんだろう。
「事故のことは、覚えていますか」
「……女の子が、車の前に」
「急がなくていいですよ。息が苦しくなったら、すぐ呼んでください」
医師の言葉にうなずいた。今、全部話したら、検査がいくつ増えるか分からない。
母さんが予備のメガネを持ってきていた。事故のときにかけていたほうは、片方のつるが折れてしまったらしい。受け取って鼻に載せると、窓の外の建物の輪郭が急にはっきりした。
俺は、目が悪かった。そんなことまで、忘れていた。
「何か言いかけた? さっき、起きたとき」
母さんが聞いた。リタの名前の、最初の音。俺は唇をなめた。
「のどが、乾いてて」
母さんはすぐコップを取った。のどが渇いたのは、半分だけ本当だ。飲むあいだ、底を支えてくれた指から石鹸のにおいがした。リタの手は、朝なら薪のにおいがした。
会いたかった母さんが、目の前にいる。それなのに、別の人の手まで思い出す。比べたいわけじゃないのに。
飲み終えると、母さんが口元をふこうとした。
「それは自分でできる」
「できるのは、分かってる」
言われて、黙った。俺の口元ではなく、コップを持つ手を見ていた。
父さんが戻ってきて、椅子をベッドへ寄せた。座る前に、曲がってもいない手すりをにぎり直した。
「大丈夫か」
うん、大丈夫、と答えた。いつもの返事は、すぐ出た。父さんは何も言わなかった。椅子に座ってからも、しばらく俺を見ていた。大丈夫じゃないところを、待たれている気がした。
「……痛いけど。しゃべれる」
「そうか」
ようやく父さんの肩が、少し下がった。
朝だった。カーテンの隙間から差す光が、床の上に細く伸びていた。廊下で誰かが台車を押している。窓の外では、車が走っていた。全部、戻ってきていた。この世界の物だけが、何もなかった顔で。
「今日、何日?」
母さんがスマホの画面を見せてくれた。六月。木曜日。その日付を見て、俺はもう一度だけ、眼鏡の位置を直した。
「俺が事故に遭ったのは?」
「昨日の夕方。学校から帰る途中で」
「……昨日」
昨日、カズヤと話した。昨日、赤ん坊になった。その「昨日」の中で、歯が抜け、字を覚え、炉に火を入れられるようになり、十五歳になった。短すぎる。母さんがスマホを下げかけたので、まだ見ていたくて、指を添えた。
十五年だった。まとめて長い夢を見たのではない。眠った日も、眠れなかった日もあった。雨で仕事ができず、ダンと一日中道具の手入れをしたこともあった。明日になれば忘れていそうな日を、一つずつ過ごした。それが全部、昨日の中に入っていた。
「疲れた?」
母さんが聞いた。
「……うん」
今度は、すぐ本当のことを言えた。消えた画面に、俺の顔が映る。見た目チー牛。十五年ぶりでも、名前にぴったりだった。笑おうとして、胸が痛んだ。
父さんが看護師に呼ばれ、母さんも廊下へ出た。開いた扉の向こうを、黒いジャケットの男が横切った。左手にバイクのヘルメットを提げていた。一度、目が合った。男は立ち止まらず、そのまま行った。
俺はベッドの上で、自分の手をひっくり返した。金槌の柄が当たっていたところを、親指で押す。柔らかかった。
ダンに似てきたと思った、あの厚い皮がない。十七歳の手は、十五歳のテオの手よりも、ずっと柔らかかった。
アイリの手をにぎったのは、この手じゃない。でも、あの指の細さを、俺は覚えている。花は、どうなったんだろう。あの子はもう立ち上がっただろうか。リタは俺を探しているだろうか。ダンは広場へ来ただろうか。
俺がここで一晩眠るあいだに、向こうで何年も過ぎていたら。考えたくなくて、手をにぎった。手のひらが痛かった。
枕元に、透明な袋が置かれていた。俺のスマホが入っていた。画面の端にひびがあるが、電源は入った。指が、勝手に動いた。番号は思い出せないと思っていた。なのに、押し始めれば指が順番を知っている。最後の数字を押すと、見慣れた画面が開いた。
忘れていなかった。それが、少し悲しかった。カズヤの名前が並んでいた。
『どこ』
『先入ってるぞ』
昨日の夕方の連絡だった。そのあとに、しばらく間が空いていた。
『お前んちに聞いた。返事いらねえから』
俺は、その一行を二度読んだ。文字を打とうとすると、右腕が痛んだ。左手だけでスマホを支え直す。
『起きた』
それだけ打つのに、ずいぶんかかった。送ってから、もう一つ書いた。
『待たせて悪い』
何年待たせたつもりで謝ったのか、自分でも分からなかった。教室はまだ授業前らしかった。すぐに既読がつき、返事が来た。
『今それ謝る?』
少し遅れて、次が来た。
『放課後行く。食えるもんある?』
俺は、返事を書きかけて止まった。食いたい物の名前が、出てこなかった。リタのスープなら、思い出せるのに。
朝の処置で、右手首の包帯が外された。看護師が、一度、手を止めた。外したガーゼに、乾いた血がついている。俺の皮膚には、その血が出たはずの傷がなかった。看護師は手首の向きを変え、光の下でもう一度確かめた。
「ここ、まだ痛みますか」
「……はい」
目の前には、きれいな手首があった。俺には、傷のなくなった場所が分かった。そこがまだ、痛かったからだ。




