第8話 山を殴り返す
最初に落ちてきたのは、茶色い水だった。斜面の上のほうから、木の間を縫って流れ落ちてくる。それを追いかけるように、木が一本、根ごと滑ってきた。山が、崩れている。誰かが叫んだ。広場にいた連中が一斉に南へ走り出す。荷車を引っ張り出す者。子どもを担ぎ上げる者。何も持たずに走る者。
俺は井戸の脇に立って、山を見ていた。斜面の上半分が、ゆっくりと、こちらへ傾いてきていた。
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リンデ村は、山の裾に張りついている。北側が斜面で、南側が畑。東西は森。斜面と村のあいだには硬い岩の背があり、その両脇を古い沢が通っている。大雨の水は、いつもそこから村の東西へ逃げていた。だが、先に流れた岩と倒木が、二本の沢の入口に引っかかっていた。泥がそこに積もり、盛り上がる。このままでは岩の背を越えて、村へ落ちてくる。
俺は南を見た。逃げるなら、あっちだ。畑を越えた先に高台がある。けれど、遠い。土砂が村へ届くまでに、あそこまで行けるか。
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距離を目で測った。迫ってくる土砂の速さも。村の南端まで、走って二百歩。高台は、さらにその先だ。薬師のばあさんは、二百歩だって走れない。間に合わない。全員は、間に合わない。
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ダンが俺の腕を掴んだ。
「テオ、逃げるぞ!」
俺はその手を振りほどいた。振りほどいてから、自分でも驚いた。この十五年、俺はダンに逆らったことが一度もない。
ダンがもう一度手を伸ばしてきた。俺は首を横に振って、たぶん人生で一番大きな声を出した。
「先に、みんなを逃がしてくれ! 俺は後から行く!」
ダンの目が見開かれた。嘘だった。俺は、後から行く気がなかった。
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薬師の家の前で、ギオがしゃがんでいた。
「ばあさん、乗れ。早く!」
「薬が、棚に」
「あとでいい!」
ギオの背にばあさんがしがみつく。立ち上がりかけた足が、泥で滑った。アイリが俺のほうへ一歩出た。けれど、ギオがまたよろけると、唇を噛んで引き返した。ばあさんの片足を支える。いつも葉っぱを並べていた手で。
ダンの手が、俺の肩のすぐ手前にあった。歯を食いしばった顔が見えた。次の瞬間、その手は隣の家の戸を叩いていた。
「まだ中にいるか! 返事しろ!」
俺は北へ走った。人の流れと、正反対に。
「テオ!」
アイリの声が聞こえた。振り返らなかった。振り返ったら、たぶん走れなくなる。岩の背の上まで駆け上がり、沢を塞いでいる倒木の前に立った。両側の岩を、一本の太い幹がつないでいる。ここが外れれば、水の逃げ道が戻る。見上げた。空が、茶色かった。
木も、岩も、土も、全部まとめて一枚の壁になって、こっちに倒れてきていた。
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このスキルは、傷を負わずには撃てない。返す先も選べない。でも、一つだけ、俺にできることがある。何に殴らせるかを、立っている場所で決められる。
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俺は、両腕を広げた。目を閉じなかった。
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最初の岩が、俺の左肩を潰した。音は聞こえなかった。痛みのほうが先に来た。骨が砕けるというのは、こんなに具体的な感触なんだと思った。中で何かが粉になって、その粉が肉に刺さる。叫ぼうとしたが、二つ目の岩が胸に入って、息が全部出ていった。
俺の肩が、元に戻る。同時に、肩に食い込んでいた岩が欠けた。俺の肩を砕いた角が、肩の傷ほど欠けて転がる。頭上の山は、まだ落ちてくる。胸に当たった二つ目の岩にも亀裂が走り、水がその隙間へ入り込んだ。そこに三つ目が来た。
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そこからは、数えられない。土が来た。木が来た。岩が来た。俺は潰されて、治って、潰されて、治った。肋骨が折れる。治る。折れる。治る。腕が変な方向を向く。戻る。また曲がる。視界が赤くなって、黒くなって、また赤くなる。そして、そのたびに、俺に触れているものが欠けた。
倒木が腹を押し潰す。幹に傷が返る。背を岩に押しつけられ、今度はその岩が欠ける。一本の幹を、何度も。支えている岩を、何度も。一度に返せるのは、俺一人ぶんだ。だから、何度でも潰された。傷が重なったところへ、水が食い込んだ。倒木が折れる。左の岩が外れる。せき止められていた泥が、空いた沢へ噴き出した。引きずられる幹が右の岩も動かし、もう一本の流れが開いた。
こじ開けた隙間へ、山が流れ込んでいく。
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痛かった。これは、書いておかないといけないと思う。治るから平気だと思われるのは、心外だ。傷は一秒で塞がる。でも痛みは、一秒分まるごと入ってくる。骨が折れる痛みが、折れた回数だけ、正規の分量で。血は、失った端から戻った。けれど意識まで守られるわけじゃない。痛むたびに遠のいて、次の衝撃で無理やり引き戻された。
途中の記憶は、ところどころ抜けている。抜けたところまで、痛みだけは残っていた。
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途中で、何度か死ぬと思った。三度か、四度。はっきり、ああ死ぬな、と思った。
――そのたびに、白い空間を思い出した。
あの白。上も下もない場所。『届いた』という、声じゃない声。また、あそこに行くのか。行くなら行けよ。
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でも、白い空間は来なかった。一度も。何度死にかけても、俺はずっと、土砂の中にいた。おかしいな、と思った。あのときは、一回で行ったのに。
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まあ、いいか。
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土が、止まった。俺は仰向けに倒れていて、口の中が土だらけで、目に何かが入っていて、指一本動かせなかった。でも、音がしなくなっていた。ずっと聞こえていた地鳴りが、消えていた。俺は首だけを動かした。斜面を、見た。土砂の流れが、左右に分かれていた。
村へ落ちてくるはずだった泥は、開いた沢を通って東西の森へ抜けていた。水が引いた斜面には、岩の背まで続く一本の深い跡と、そこから両側へ伸びる二本の跡が残っている。両腕を広げた人間が、山に張りついているみたいだった。折れた幹が、沢の途中で横たわっていた。そこから先へ、泥に洗われた石が白く続いている。
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村は、無事だった。一軒も潰れていなかった。
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遠くで、誰かが叫んでいる。泥の上を走る足音が、いくつも近づいてくる。いちばん先に着いたのが誰だったかは、はっきり覚えている。アイリだった。泥だらけで、裸足で、膝から血を流して、息が切れていて、俺の横に膝から落ちるみたいに座り込んだ。
そして、俺を見て、固まった。当然だと思う。俺の体には、傷が一つもなかった。服はぼろぼろで、泥まみれで、血もついているのに、その下の体は全部、綺麗に治っていた。
「テオ……痛くないの?」
アイリの声が、震えていた。俺は、笑おうとした。うまく笑えなかった。痛かった。人生で一番、痛かった。でも、口から出たのは、こうだった。
「……痛いけど。まあ、いいか」
アイリは唇を噛んだ。俺の手に触れかけて、止まる。
「よくない。……どこなら、触っていい?」
平気だ。心配しなくていい。そう言おうとしたのに、声が出なかった。伸ばしかけられた指を見て、やっと言えた。
「……手、握ってて」
アイリの指が、そっと入ってきた。
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意識が落ちる直前に、一つだけ思ったことがある。俺のスキルは、役に立つのか分からない。傷を負わずには撃てない。返す相手も選べない。痛みは全部自分持ちで、増えもしない。この力に気づいてから七年、ずっとそう思ってきた。でも。
誰かを守るときだけは、俺は、たぶん強い。
でも、その手を離していいとは、言えなかった。




