第37話 白が閉じるまで
落ちたボルトが、退避通路の床を跳ねた。
「白河氏、階段の戸へ!」
セツナが白河さんの前へ腕を出した。白河さんが退くと、さっきまで立っていた所へ金属片が落ちる。一秒先に見えていた危険を、セツナが避けさせたのだ。
長谷川さんたちは、戸の前まで来ていた。寺田がその背を支え、戸倉は出口を開けたまま押さえている。全員が抜けるまで、まだ少し掛かる。
頭上の梁が、吹き抜けへ垂れ下がった。右端の金具だけが、通路の支柱につながっている。梁の重さに引かれ、支柱も傾いていた。倒れれば、階段への道がふさがる。
その金具を切れば、梁だけを穴へ落とせる。
俺は退避通路へ走った。背後で、貸元の息が詰まる。
白の中で、貸元がひざをついていた。右袖が裂け、血が伝っている。肩が広がり、上着の背中が張った。男は左足を引き寄せ、腰を境目へ入れた。
なでつけていた髪が、赤みを帯びて浮き上がる。毛先がうねり、額へ落ちた。知らない男の横顔だった。なのに、口を結ぶ形を、俺は知っていた。木のさじを持つ左手だけが、まだこちらに残っている。その指が柄をにぎり直した。
「ミタチー!」
カズヤの声で、俺は前を向いた。彼も退避通路へ走ってくる。貸元から解いた縄を、両手でにぎっていた。
「柱と梁を、切り離す!」
俺は、柱と梁をつなぐ金具を指した。工場でも、巨人の拳から受けた傷が返って、赤い板が曲がり、手首の軸が折れた。巨人は自分の重さで崩れた。今も、つなぎ目だけを壊せばいい。
梁の下へは行かなかった。手すり沿いに進み、支柱の階段側で止まる。梁に引かれた金具の端が、顔の高さまでめくれ下がっていた。
カズヤが俺の両脇の下へ縄を回した。胸の前を通し、俺の背後で両端をにぎる。
「階段のほうへ引く。受けたら、すぐ腕を戻せよ」
俺はうなずいた。セツナも階段側へ回り、金具を見上げる。右袖から血が一滴、落ちた。
下で、大橋が叫んでいる。俺は吹き抜けへ声を落とした。
「中央へ落とします! 人は!」
「いない! 全員、退けた!」
大橋の返事が届いた。俺は両足を通路へ残し、上半身だけを手すりの外へ出す。
「先輩、後ろ空いてます!」
白河さんが、岸本さんの座っていた椅子を壁際へ引いていた。カズヤが俺を引く道が空く。彼女は戸のそばで、こちらを見た。
俺一人で前へ出て、耐えればいいと思っていた。今は、カズヤが縄で支えてくれる。セツナは危険を見て、白河さんは帰る道を空けてくれた。それでも、怖かった。
「痛いの、嫌なんだけど」
俺の口から出た。
「知ってる。すぐ引く」
カズヤは笑わなかった。だから俺も余計なことを言わず、左腕を上げた。
「今ッス!」
セツナの声。俺は金具のとがった端へ左の前腕を差し出した。梁が下がり、鋭い鉄が腕へ食い込む。
骨の奥に、音がした。曲げたひじが胸へ押しつけられ、シャツに血が広がる。のどを開いたのに、声が出なかった。
金具の触れた所にも、同じ深さの裂け目が走った。残った鉄を、梁の重さが引きちぎる。支柱から、梁の端が離れた。
「引くぞ!」
カズヤの声。俺は左腕を胸へ引き戻した。裂けた皮膚は、もうつながっている。でも、足が動かない。
胸の縄が張った。右の脇へセツナの肩が入る。二人に引かれ、俺の靴が床をこすった。背中が、階段側へ戻る。
梁は通路を外れ、吹き抜けへ落ちた。下で、床を突き上げる音がした。粉が舞い、俺はせき込みながらひざをついた。
支柱は、それ以上傾かなかった。俺たちの足元には床があり、同じ通路の先で、戸倉が階段の戸を押さえている。まだ、帰れる。
カズヤが俺から縄を外した。右の手のひらに、赤い線が増えている。セツナも傷のある右腕を押さえた。俺を支えた左腕には、まだ包帯が巻かれていた。俺だけに任せず、二人も痛みに耐えてくれたのだ。
白い光が、薄くなった。俺は肩越しに、中央の奥を見た。貸元は、まだそこにいた。現代の床には、もう両足とも残っていない。白い境目の中で、変わってしまった体を前へ運ぼうとしていた。髪は赤みを帯びて波打ち、広い肩に、見覚えのある上着が食い込んでいる。背中の縫い目は裂け、右袖は血を含んで垂れていた。
あの三つ揃いの服がなければ、同じ人だとは分からなかったと思う。左手が、白の奥へ出た。指に挟まれた小さなさじが、朝の色をした。貸元は空いている右手を、向こうの石畳へ置いた。腕が震え、いったんひじが落ちる。石へ指を掛け直した。
上体が、少しだけ前へ進む。遅れて、片脚。もう片方の靴の先が、白から抜けた。貸元は石畳の上へ崩れた。動かない。
俺は息を止めた。広くなった肩が、かすかに上がった。顔が持ち上がる。男の口から、細く息が出た。
生きて、着いた。
貸元の右腕から落ちた血が、石の継ぎ目を赤くした。傷は残っている。向こうへ着いても、誰にも肩代わりさせていなかった。白河さんが長谷川さんたちを確かめる。三人は階段の戸の向こうから振り返っていた。服は血で汚れているが、腕も脚も傷はなかった。
貸元は、こちらを振り向かなかった。向こうで顔を上げ、何かを見ようとしていた。家族なのか、帰る道なのか、俺には見えなかった。誰かが迎えに来る姿も、なかった。白い入口が、両側から狭くなる。最後まで見えていたのは、石畳についた左手だった。
さじの柄を、まだにぎっていた。細い光が、消えた。
作業灯の光だけが、床に残った。さっき貸元がいた所には、何もなかった。戸倉が、出口の戸をもう少し開いた。
百合子さんはつった腕を抱え直し、貸元がいた所から目をそらした。寺田は長谷川さんに、先へ進むよう手で示す。もう、貸元の帰りを待つ人はいなかった。下では、大橋がみんなを外へ急がせている。
俺も、立とうとした。左腕に体重を掛けかけて、やめる。見た目は元どおりでも、痛みはまるで元へ戻っていなかった。
白河さんが、戸の前からこちらを見た。
「先輩、立てますか」
俺はうなずきかけた。口だけなら、簡単だった。
「……痛い。少し待って」
言うと、白河さんはすぐには手を伸ばさなかった。俺の左腕を見て、反対側へ回る。
「右の肩なら、支えていいですか」
「うん。そっち、お願い」
俺は答え、白河さんの肩へ右手を置いた。全部の重さを預けないようにしていたら、左からカズヤも腕を回してくれた。痛む左腕へ触れず、腰を支えてくれる。
「二人いるんだから、使えって」
カズヤが俺の腰を支え直した。
「……助かる」
俺が答えると、カズヤが短く「おう」と返した。立ち上がると、目の前が一度暗くなった。その間、誰も歩き出さなかった。
セツナが、自分の左腕を胸へ寄せていた。
「カズヤ氏。空いてるほうの肩、貸してほしいッス」
カズヤが、俺を支えている側と、反対の肩を見比べた。
「貸すけど、俺の足は二本だかんな」
カズヤがセツナへ言った。
「知ってるッス。歩幅、合わせるッス」
セツナが答え、少しだけ、俺の息が笑いになった。セツナはカズヤの空いた肩へ手を添えた。にぎり込む指に力が入らず、いったん手を置き直す。
俺も白河さんの歩幅を見た。まだ急がなきゃいけない。だから、動ける速さで帰る。傷が治っても、すぐには歩けない。そのことを、ここにいるみんなは分かってくれた。
白河さんが、俺へ顔を向けた。
「待ちますから、一緒に帰りましょう」




