第38話 残ったもの
病院の天井は白かった。四角い照明と、空調の吹き出し口。廊下で誰かの靴音がする。それを聞きながら、俺は寝台の上で右の指を曲げた。今度は、ちゃんと病院にいる。
「お名前をお願いします」
「三田翔です」
自分の名前を答えると、看護師は手元の紙と見比べた。血のついたシャツの袖がまくられ、俺の左腕が出る。皮膚には傷がなかった。俺は、腕を持ち上げようとして止まった。
「そこ、まだ痛いです」
看護師の手が止まった。俺はひじの少し下を指した。
「胸とひざも、まだ痛いです」
伝えるたびに、紙へ印が増える。何も書かれずに帰されるより、そのほうがよかった。
*
四人とも診察が済んだころには、外は暗くなっていた。俺は待合の椅子で、背もたれへどこまで体重を預けられるか試していた。横ではカズヤが、右の手のひらに新しく巻かれた包帯を見ている。セツナの両腕にも、白い布が増えていた。白河さんはひざの上に置いた水を、俺へ差し出した。
「ふた、開けましょうか」
「そこまでは、できる」
俺がペットボトルを受け取ると、白河さんは手を引いた。ふたを回す。できた。ただ、二口飲んだところで、腕を下ろしたくなった。
「……置くの、お願いしていい?」
「はい」
白河さんは、今度は笑って受け取った。椅子の横の台へ置いてくれる。さっきまで命がけで守っていた手に、今は飲みかけの水を渡している。そのほうがずっといいと思った。
待合の向こうで、寺田が茶色い書類袋を警察の人へ渡していた。胸をかばい、息を区切って話している。袋の口には、配送伝票が何枚も挟まっていた。
「これも、俺が運んだ。車の部品だけじゃない。見張る場所と、時間を書いた紙も」
寺田はスマホも出した。消したつもりの依頼が、配達先の履歴と一緒に残っているらしい。画面を送って、警察の人に場所を説明していく。最後の紙を渡しても、寺田は椅子へ戻らなかった。
「……相棒の話は、あとでいい。先に、俺がやったことを聞いてくれ」
カズヤも立ち、貸元が残した保管庫の鍵を出した。警察の人に、保管庫の場所と、中に原本があることを伝える。包帯を巻いた右手から、鍵が離れた。
俺たちも録音や写真を渡した。白河さんは長谷川さんたち三人の名前を伝え、腕の輪が消えたことや、それまでの傷を説明する。三人は別の診察室にいた。傷が消えても、血のついた服は残っている。自分の体に何が起きたのか、確かめる時間が必要だった。
帰ってきたからといって、すぐに全部は片づかなかった。聞かれても思い出せないことがある。怖かった場面を話そうとして、俺は途中で息を止めた。カズヤが隣へ戻ってきた。
「急がなくていい」
俺たちは、帰れた。帰ってからすることは、まだ残っていた。
*
翌日の夕方、家の食卓に三人分の茶碗が並んだ。俺は少しだけ食べ、箸を置いた。胸の痛みは昨日より弱かったが、まだ椅子に深く座れない。母さんが食器を下げようとして、俺の前で止まった。
「もういい?」
「……もう少し、ここにいてほしい」
母さんは茶碗を置き直した。父さんも、流しへ運びかけていたコップを持って戻ってくる。二人の椅子が床を鳴らした。俺は茶碗の中を見たまま、口を開いた。
「向こうに、母さんと父さんがいたんだ。……こっちの二人を、忘れてたわけじゃない」
時計の秒針が聞こえた。俺は顔を上げられない。傷のことだけじゃなく、向こうにも帰りたい家があると伝えたかった。なのに、最初の一言からうまくいかない。
「うん」
母さんの返事は短かった。先へ進んでいいのか分からず、俺は指で茶碗の縁をなぞった。
「リタっていう人。父親は、ダン。俺、そこで赤ん坊から、十五歳まで育った。家が鍛冶屋で、朝になると、隣から鉄を叩く音がして」
父さんは、コップを食卓へ置いた。
「十五年、そこで?」
「うん。最初は帰り方ばっかり考えてた。でも、そのうち、家になった。リタの作るスープが好きで。ダンの仕事、手伝って。……戻ってきて、もう会えないかもしれないって思ったら、寂しくて」
寂しい、で済むのかは分からない。朝、目を開けるたび、炉の音を探した。うまく飲めない日には、リタならコップをどう持ってくれたかを思い出した。そのたびに、目の前の母さんへ悪いことをしている気がした。
「ここへ帰れて、よかったんだ。でも、向こうへ帰りたいとも思う。……両方なんだ」
母さんが俺の茶碗を見た。少し残ったごはんを見てから、俺の顔へ視線を戻す。
「そのスープ、何が入ってたの」
「え?」
「好きだったんでしょう」
「丸い野菜で、土を落とすと薄い黄色になるんだ。それと豆。肉が少し入る日もあって、ダンは鍋の底まで、すくってた」
こっちの野菜とは名前が違う。知っている味や大きさで、一つずつ説明した。母さんは何度か聞き返し、小さいころの俺が豆をよけていたのを思い出したらしい。
「向こうでは、食べたんだ」
「よけると、リタに見つかった」
「こっちでも見つけてたけどね」
俺は笑った。胸が痛んで、浅く息を吸い直す。父さんが手を出しかけたので、俺は少し待って、と伝えた。待ってくれた。
「ダンさんは、どんな人だった」
父さんが聞いた。俺は、炉の火を確かめる背中を思い出した。太い指の、治らない細い傷。酒を飲んだ夜には仕事の話が長くなって、リタに止められる人だった。
「俺が見てると、うまいところを見せようとする」
「そうか」
父さんは少しだけ口元を曲げた。その返事で、ようやく俺も顔を上げられた。二人に十五年を全部伝えるには、一晩では足りない。俺にも、どこから話せばいいのか分からない。それでも、二人は食卓から立たなかった。
「また、話してもいい?」
俺が聞くと、母さんはうなずいた。
「少しずつ聞かせて」
茶碗はまだ、俺の前にあった。冷めたごはんを、もう一口食べた。
*
その週は、学校へ行くより休む時間のほうが長かった。病院や、事情を説明するための面会にも行った。カズヤは休んだ日のプリントを持ってきてくれた。問題の答えは空欄だった。
「ここも埋めておいてくれればよかったのに」
「お前の成長を信じてる」
そこだけ急に立派になるな。
面会先の廊下で、大橋を見たのは水曜だった。ジャージのひざに、工場と同じ油の跡がある。ひざの上へ置いたスマホに向かい、いつもの数値を並べようとして、言葉を切った。スピーカーから、女の人の声が聞こえた。
「兄さん、それ、いつ決まったの」
大橋が俺に気づき、スマホを伏せかけた。俺は少し離れた椅子へ座り、書類を出していたカズヤに小声で伝えた。
「ここで待つ」
大橋の話を、邪魔する用事はなかった。
大橋はもう一度、画面へ顔を向けた。
「……すまん。私が決めれば、早いと思っていた。金も、治療も。お前に、いいと言わせれば済むと」
「嫌だって言うと、困った顔するから」
声が途切れた。大橋の肩も動かなくなる。やがて彼は、スマホを両手で持ち直した。
「聞かせてくれ。次に先生と話すとき、何を聞きたい」
「まず、私も一緒に話したい。兄さんが聞いてきたことを、あとから教わるんじゃなくて」
大橋はうなずき、紙へ何かを書き留めた。通話が終わり、俺が面会室へ呼ばれて立ったところで、声がかかる。
「三田くん」
俺は止まった。スマホの画面は暗くなっていた。
「妹に使う金が要る。だからといって、君たちにしたことが消えるわけではない。警察にも、全部話す。……そのあとで、小さな修理の仕事でもできないか、考えるつもりだ」
俺は、ひび割れた巨人の拳を思い出した。俺を押し潰した物を作った人だ。立派な人になったとは、まだ思えなかった。
「妹さんの話、今度は最後まで聞いてください」
俺が言うと、大橋は、ああ、とだけ答えた。
帰り際、セツナが戸倉と話していた。セツナの足元には小さな旅行かばんと、上着の入った紙袋がある。戸倉が管理していた部屋から出せずにいた物を、持ってきてもらったのだという。
「荷物、受け取ったッス。部屋の鍵、返すッス」
セツナは自分のかばんから鍵を出し、戸倉へ渡した。戸倉は受け取ったあと、足元の旅行かばんを見た。
「次は、どこへ――」
戸倉が言いかけて、やめた。セツナは黙って待っている。行き先を教えてもらえて当然だと思っているのか。そんな間があった。
「……いや。荷物に足りない物があったら、連絡して」
戸倉は預かっていたセツナ宛ての郵便も返した。ほかの入居者の荷物も返し始め、開け閉めを制限していた部屋の記録は、面会の担当者へ渡したそうだ。セツナは旅行かばんの持ち手へ右手を添え、痛んだのか、にぎり直した。
「持つか?」
カズヤが聞いた。セツナはかばんを見てから、カズヤの右手を見た。
「カズヤ氏も、そっちの手、まだ痛いッスよね」
「左で持つ。重くなけりゃいける」
「じゃ、旅行かばん、お願いするッス。自分は袋を持つッス」
二人で荷物を分けた。セツナが戸倉に新しい行き先を言うことは、なかった。
白河さんから、百合子さんの話を聞いた。事情の確認に来ていたとき、店の子が着替えを持ってきていたのだという。そこで、その子は店を辞めたいと伝えた。百合子さんは左手でその腕をつかもうとして、途中で止めたらしい。
「百合子さんが、途中まで送るって言ったんです。でも、その人は、一人で帰りたいって」
「百合子さんは?」
「追いかけませんでした。右の腕を押さえたまま、見送ってました」
白河さんは、自分のひざの上へ視線を落とした。
「わたし、その人が外まで歩いていくのを、一緒に見てました」
店を移ったのか、家へ帰ったのかは知らない。白河さんも聞かなかったそうだ。誰にも行き先を教えず、自分で歩いていける。それも、俺たちが守りたかったことだった。
鍵を探す依頼は止まった。配達や監視の記録が調べられ、貸元の保管庫にあった原本も、証拠として預けられた。狙われていた人たちには危険を知らせ、必要な連絡をつないでいるという。名前の一覧は、外へ広めなかった。
貸元の財産を調べ、被害を受けた人への補償に使う手続きも始まった。いくら、いつ払われるのかは、まだ分からない。長谷川さんたちは通院を続け、百合子さんの骨折も、寺田の胸の傷も残っている。傷の契約が消えたからといって、何もかも元には戻らなかった。
それでも、次の事故を注文する連絡は、来なくなっていた。奇跡を待つために同じ部屋へ集まっていた人たちは、それぞれの場所へ戻っていった。
*
金曜、机に一枚のコピーを広げた。原本を整理する担当者が届けてくれた控えだ。帰還者の名前や連絡先は隠してある。俺は前にも、山の絵のある記録を見て、控えが欲しいと頼んだ。それを伝えると、同じ紙を見つけてくれた。
山の絵と、その両側へ伸びる二本の線。貸元の店で、一度見た紙だった。山が、腕を広げた子どもの姿に見える。二本の沢が村を避けるように流れている。俺は、受付の日付を指で押さえた。最初にこっちへ戻った週の、金曜日。俺が村を離れたあとに届いた話だ。
この話をした帰還者は、向こうで村の言い伝えを聞いたのだという。山の麓の村、とだけある。リンデという名前も、リタもダンも、アイリの名前もない。向こうで何年たっていたのかも、これでは分からなかった。
俺が止めた沢かもしれない。似た形の山と、別の子どもの話かもしれない。紙を明かりへ近づけても、分かることは増えなかった。俺はそれを机へ戻し、両腕を広げた山を、もう一度見た。
あそこには、帰る家があった。今も家があればいい。リタが鍋の火を弱め、ダンが手を洗い、アイリが戸を叩く。その様子を、しばらく思い浮かべた。この紙に書かれた事実ではない。ただ、そうであってほしいと、思っていた。
スマホに、白河さんから連絡が来た。控えをもらえた、と送った返事だった。
『体が落ち着いたら、一緒に読んでもいいですか』
俺は机に片ひじをつきかけ、まだ痛む左腕を引っ込めた。右手で返事を書く。
『うん。俺、山の絵ばっかり見ちゃうんだよね』
『じゃあ、わたしは文章を読みます』
『助かる』
笑った顔の返事がついた。そのあと、写真も届いた。窓のそばの四人掛けテーブルと、皿に載った焼き菓子。人を探す資料でも、逃げ道の写真でもない。遊びに行く店の写真だった。
『ここ、行ってみませんか。カズヤ先輩とセツナさんも誘いたいです』
写真を広げた。バター味、と書かれた札が見えた。俺は少し考え、今度は好きな物の名前を、そのまま返事へ入れた。




