第36話 一歩の手前
資材室を出た貸元と一緒に、俺は仕切り戸を通って作業床へ戻った。俺が前に立つと、貸元は俺の肩越しに白を見た。奥の石畳まで、ほんの数歩だ。貸元の右袖には、長谷川さんから引き取った傷の血がにじんでいる。岸本さんに移していた傷も戻り、右脚をかばっていた。左手首も、長谷川さんと藤沢さんから引き取った傷で赤い。
あの男が自分で負うはずだったものが、今は本人の体にあった。それでも、足は白へ向いていた。
「ここに残れば、手当てを受けられます。救急車も、呼んであります」
俺が言うと、貸元は息を乱したまま、こちらを見た。あの録音を外へ持ち出せば、貸元は今までどおりには暮らせない。それでも、生きて責任を取る道は残っている。
貸元が、白へ顔を戻す。俺は彼の前から動かなかった。
「死ぬかもしれないぞ」
俺は貸元へ言った。
「承知しています。戻ってきた日から」
貸元はすぐに答えた。でも、語尾が震えていた。唇を強く結び、右の靴を少し動かす。それだけで、顔がゆがむ。危険は分かっていても、怖いのだ。
貸元が上着の内側へ左手を入れた。俺は指先を見た。出てきたのは、昨日、画面越しに見せられた木のさじだ。帰ってきてから、娘が使っていた形を思い出して削ったという。太さのそろわない柄に、血のついた指が巻きついた。
貸元の左手は、震えていた。誰かの手へ傷を預けようとは、しなかった。今度は右手で、上着の内ポケットを探る。小さな鍵を取り出すのに、一度、指が滑った。
「店の保管庫の鍵です。原本と、私の資産の記録があります」
貸元は俺たちへ告げ、床へ鍵を置いた。腰を曲げたところで右ひざが揺れ、空いた指を床へついて支える。
カズヤが、俺の横へ来た。鍵を拾い、何も言わずにポケットへ入れた。
百合子さんの折れた腕は、それだけでは治らない。白河さんがここに閉じ込められた時間も戻らない。それでも、取り戻せるものはある。貸元はもう『皆様のため』と言わなかった。
「貸元」
退避通路から、白河さんが呼んだ。彼女は手すりの向こうにいた。長谷川さんたちは、階段の戸へ向かっている。セツナは金網の戸を離れ、作業床を横切ってその列の後ろへ回った。中央へ戻ってくる人がいないか、見ていた。白河さんも、貸元へ近づかなかった。
「許したわけではありません。もう誰も使わないでください」
白河さんが言った。貸元は彼女を見た。今も、扉を開くための鍵だと思っているのか。俺には、その顔から読み取れなかった。
貸元は頭を下げた。白河さんは、うなずいて返さなかった。
俺は半歩、横へずれた。誰も貸元を押さなかった。貸元は俺の前を通り、白の手前で止まる。口を開きかけたが、何も言わない。足も動かなかった。さじをにぎった左手を胸へ寄せ、空いた右手だけを白へ伸ばした。
指が入る。手首。袖の下で、腕の形が変わった。貸元は息を止めた。白いシャツへ、新しい血がにじんだ。さっき引き取った赤い染みと重なり、袖口から落ちる。
「長谷――」
貸元の声が、途切れた。退避通路で、長谷川さんが振り向いた。その人の腕に、新しい傷はなかった。もう、契約はない。貸元はそちらへ顔を向けず、白い空間の中にある自分の腕を見ていた。
「……いいえ。これは、私の傷です」
貸元が言い直した。歯が鳴り、右肩が小さく震える。引き返せば、体の変化は止まる。戻れる床は、まだ後ろにあった。
俺はその床に立って、男の背中を見ていた。貸元が、右足を上げた。白へ入る。ひざが、折れた。踏み出した先で体が沈み、それでも右手を奥へ伸ばす。現代の床に残った左足が、靴底を鳴らした。さじを落とさないように、左手が固く閉じる。その背中で、上着の縫い目が張った。
肩の幅が、布の下から変わっていた。退避通路の上で、乾いた音がした。俺は振り向いた。天井の梁から、ボルトが一本落ちてきた。




