第35話 取り立て
「ミタチー、こっちだ」
資材室の前で、セツナと並ぶカズヤが俺を呼んだ。貸元は金網の中にいる。俺はようやく両手を下ろし、退避通路の白河さんへうなずいた。カズヤは捕まらなかった。貸元は、白の前からいなくなった。
まだ、終わってはいない。俺も左の仕切り戸を抜け、二人に合流した。
貸元が金網の戸を引いている。四隅を鉄骨へ留めた囲いは動かなかった。錠へ指を伸ばそうとしても、網目に腕がつかえる。
セツナが金網の外から、貸元の左手首を右手で押さえた。カズヤが縄を回し、手首を格子に縛る。貸元が空いた右手を上げると、セツナはそのひじを右手で押して外へ向けた。男の指がこちらに届かないうちに、カズヤが右手首も格子へ縛った。
結び目は外側にあった。貸元が縄を引いても、ほどけなかった。セツナは男のひじから手を離し、自分の裂けた右袖を一度押さえた。
「取り立て、始めようぜ。三人の傷を引き取れ。それから、契約を全部解け」
カズヤが貸元へ言った。右の手のひらには、もう印がない。俺も金網の戸を指した。
「全部、確認するまで開けません。ここに残れば手当てを受けられます。外には連絡してあります」
貸元は俺から目を外し、開いた仕切り戸の向こうを見た。中央の白が、少しずつ狭くなっていた。
「戸倉様。開けてください」
貸元が命じた。戸倉は仕切り戸の脇から、こちらへ一歩来る。セツナが新しい錠の前に立った。戸倉の手が止まった。まだ、触っていない錠だ。
戸倉は、いつもの柔らかい声で尋ねた。
「向こうへ先に行って、僕らの居場所を用意してくれる。その話でしたよね。戻って、案内してくれるんですよね」
貸元は答えず、右の退避通路へ顔を向けた。
「百合子様。この戸を」
百合子さんが左の指をにぎった。金網をつぶすことなら、できる手だった。彼女は一歩踏み出す。足元で、岸本さんが右脚を抱え、息を詰めた。
百合子さんが止まった。傷を負った女性と、金網の中の貸元を見比べる。
「店も、働いてる子の居場所も、誰にも奪われないようにするって。あたしには、そう言ったわよね。あたしらの願いのために、道を確かめに行くんでしょう?」
「皆様のために、私は――」
「戻るのか。今は、それだけ答えろ」
四階から、大橋がさえぎった。沈んだ足場を支える機械だけが、下でうなっている。
貸元の唇が動いた。誰も、錠へ手を出さなかった。白が、また細くなる。
「……戻りません」
大橋の手から、作業床を動かす操作器が下がった。
「では、妹の治療費を得る道は。向こうで金を得られると、確かめたのか」
寺田も貸元を見た。長谷川さんの前をふさいだまま、胸を押さえている。
「相棒を生き返らせる方法は、あるのか」
貸元が目を伏せた。縄に縛られた手を引くが、動かせない。その手を見つめて、答えた。
「皆様の願いをかなえられると、お約束する根拠はありません。向こうに、私の家族がいます。私が、帰りたかったのです」
今度は、誰かのためだとは言わなかった。
下で機械が一つ止まった。大橋が、操作器を床へ置いていた。
「上の見張り、手を出すな。早く下へ戻れ! 足場がもたん!」
見張りたちは貸元を見たが、返事を待たずに入口へ下がった。大橋は足場を支える機械を動かし続ける。最後の一人が渡るまで、止めるつもりはないようだった。
「あの金で、妹は治療を受けられた。だから、次も信じた。この足場は支える。だが、あなたの扉のためには、もう動かさない」
大橋は声を落とし、貸元に告げた。貸元が百合子さんを見る。彼女は白河さんへ顔を向け、にぎっていた左手を開いた。
「その戸は、壊さない。あたしも、店の子のためだって言って。この子の帰る道をふさいだのね」
返事を待たず、岸本さんの横へしゃがむ。つった右腕が揺れ、顔がゆがんだ。それでも左腕を、岸本さんの肩へ差し入れた。
「こっちの腕につかまりな。ゆっくりでいいから」
寺田が、階段への道から足を引いた。長谷川さんの血のついた袖を見て、背中へ手を回す。
「相棒のために、こいつまで死なせてたまるか」
長谷川さんの体が傾くと、寺田は胸をかばいながら支えた。速くは動けなかった。一歩ずつ、手すりの先へ寄せる。
戸倉は金網の錠から手を引いた。胸元の名札をにぎりかけ、やめる。
「僕の部屋を失いたくなくて、君たちを出さなかった」
戸倉がセツナへ言った。彼女は金網の錠を守り続けたが、戸倉はもう開けようとしなかった。入口へ戻り、階段の戸の錠に触れて、つまみを回す。仕切り戸を閉め直す錠の音も、もうしなかった。
戸倉は開けた戸を、自分の手で押さえた。
「階段へ出られます」
戸倉は、俺たちの行き先を決めようとはしなかった。貸元が口を開いても、四人はもう命令に従わなかった。
俺たちは金網の前で待った。三人の傷も契約も残っている。このまま貸元を出すわけにはいかない。
「先に、傷を戻してくれ」
カズヤが言うと、貸元は退避通路へ顔を向けた。
「長谷川様。岸本様。藤沢様」
白河さんは、呼ばれた三人の顔を順に見た。
貸元の右袖が赤くなった。にじんだ血が袖口まで広がる。長谷川さんが右腕から指を離した。白河さんはその腕を見て、左手首の包帯も緩めてもらう。あの日に移された爪の傷も、閉じていた。貸元の左手首に、血が浮いた。
続いて、貸元の右ひざが折れた。手首の縄が張る。セツナが格子越しに男の右ひじを支え、ひざを床へつかせた。反対側で、岸本さんが右足を床へ置く。ズボンに血は残っていたが、足はもう、体を支えた。
貸元の左手首が、さらに裂けた。俺から返り、藤沢さんへ送られた傷だ。藤沢さんが上着をほどき、傷のあった所を白河さんへ見せた。
白河さんはそこを確かめ、次に藤沢さんの右手首を見た。
「傷は消えました。でも、輪が残っています」
黒い輪。離れても、貸元から傷を送られる契約の印だ。
貸元はひざをついたまま、息を吸った。
「三件とも、終了します」
長谷川さんが左手首を差し出す。岸本さんも右の袖をまくった。白河さんは一人ずつ、手首の裏まで見た。
「長谷川さん、消えました。岸本さんも。藤沢さん、右手を返してください」
藤沢さんが手のひらを上へ向けた。白河さんは、契約の残っていた三人全員を確かめた。
「三人とも、消えています」
その声が届いてから、セツナが縄を緩め、ポケットの鍵で金網の錠を外した。カズヤが戸を開く。
貸元は自分で立った。右腕を左手で押さえ、右脚を引きずる。服へにじむ血は、そのままだった。
俺は貸元の前へ出た。彼の行こうとする先で、白はまだ開いていた。




