第34話 八年ぶんの話
「カズヤ氏」
金網の向こうのセツナが、俺を呼んだ。鍵の掛かる音は、思ったより小さかった。俺は右の手のひらの印を確かめ、八メートル先の貸元を見た。ミタチーが、まだあの男の服をつかんでいる。
セツナの右の袖に血がにじんでいる。俺はうなずいた。言葉にすると、のどが裏返りそうだった。
閉じ込めてくれと頼んだのは、俺だ。印はある。貸元も見える。できるはずだ。もし使えなかったら、俺もこの中から出られない。手のひらが汗ばんだ。
向こうで、ミタチーのひざが一度、がくっと揺れた。あいつが痛みに強いなんて、思ったことはない。だから、早くしろよ、俺。
雨の匂いが金網を抜けてきた。川の近くにあった、向こうの家も同じ匂いがした。床板の下で魚が跳ねる。父親の足音が、夜明けより先にする。俺は八年、それを聞いて暮らした。こっちへ戻ったら、病院だった。
手足が動かなくても、のどが痛くても、みんなに話したかった。病院で寝ていた間に、俺は別の世界で八年、生きていたんだ。親も先生も、最後まで聞いてくれた。でも、聞くたびに顔が曇った。俺の話が心配をかけている。それは、子どもの俺にも分かった。
話すのをやめると、みんな少しずつ笑うようになった。それから、こっちでも八年。教室へ戻り、中学へ行き、高校に入った。向こうで生きた八年を、誰にも話さなくなった。でも、消えたわけじゃない。あっちにも、俺はいた。
何も持って帰れなかったと思っていた間も。
セツナが、仕切り戸へ戻り始めた。交換した俺が逃げる、その戸口を守るために。その横顔を見て、彼女の声を思い出した。
『ちゃんと出口があったッス』
あのとき、セツナは俺が決めた出口から帰ってきた。今度も、俺が決める。役に立つかどうか、誰かに決めてもらうのは、もういい。
貸元が、仕切り戸の枠の陰へ動こうとした。ミタチーは白の前をふさいでいる。その横へ、男がすり抜ける。
「カズヤ先輩、左です!」
退避通路から、白河さんの声が飛んだ。俺は右へ半歩ずれた。戸枠の向こうに、三つ揃いの袖が戻る。左手首の印も見えた。
声だけで使える力じゃない。俺の目で、貸元を見た。右手を胸の高さへ上げる。ミタチーが気づいた。一度息を吐き、貸元の服から両手を離す。そのまま自分の体を、白への道へ入れた。
長くは止められない。俺は自分の左手を上げた。右の手のひらには、すりむいた跡がある。傷も怖さも、持ったまま行く。台車は壁際へ寄せた。仕切り戸は開いている。そこに、セツナがいる。
閉じ込める場所だけを決めたわけじゃない。俺が帰る道まで、もう確かめた。
『消しゴム貸して』
ふいに、小さかったミタチーの声を思い出した。二学期の教室。何を話していいか迷っていた俺に、あいつは消しゴムを借りに来た。返すときの雑な礼も覚えている。俺が普通の友達に戻れた日のことだ。本人は、ほとんど覚えていなかったけど。
今日のことは、覚えてろよ。俺も、話したいことがあるんだわ。
俺は自分の左の手のひらを、自分の右の手のひらへ重ねた。
目の前にあった金網が、八メートル先へ遠ざかった。貸元と場所を替えて、俺が外へ出たのだ。
ミタチーの顔が、すぐ目の前にある。俺の右手から印が消えた。
「走れ!」
ミタチーが叫んだ。俺は左の仕切り戸へ走った。戸口の見張りが腕を伸ばす。腰を落とすと、背中のすぐ上を袖がこすった。
セツナの右手が、男のひじを外へ払う。その腕の下を、俺は抜けた。壁際へ寄せた台車の横を通り、資材室のある側へ出る。
セツナも続き、俺の横で足を止めた。
「出たッス!」
「見りゃ、分かるわ!」
思わず返してから、息が足りなくなった。セツナは俺が立っているのを見て、ほんの少しだけ目を細める。俺も笑う余裕はなかった。
帰れたら、セツナと何でもない日を過ごしたい。菓子屋の前で、どれを買うか迷うとか。彼女が見る一秒先に、俺がやらかす姿ばかり映るのは困る。こんなときに、わりとはっきり思った。
金網が震えた。俺は資材室へ振り向いた。中で、貸元が戸を引いている。左右へ整えていた髪が崩れ、左手首にはもう印がない。戸は開かなかった。割符がしたのは、ここまでだ。
俺は腰の縄をほどき、貸元へ歩いた。今度は、あんたが聞く番だ。




