第33話 俺だけじゃ、無理だ
貸元の上着に、俺の指の形が残っていた。背中の布を両手でにぎり直す。肌へ触れず、殴らず、白の外へ引き戻す。言葉にすれば、それだけだった。
腰を落とすと、背中が痛んだ。床へぶつけたひざも震える。傷は治ったのに、痛みだけがしつこい。
貸元の左手が、また俺の手首へ伸びた。俺は上着をねじり、その腕を布ごと男の背中へ寄せる。貸元が、俺へ顔を向けた。
「お客様」
「それ、もういい」
貸元の呼び方を、俺はさえぎった。向こうに家族がいる。帰りたい。それが分かっても、長谷川さんの血は止まらない。
俺にもリタがいる。ダンがいる。会いたい顔なら、いくらでも思い出せる。だからこそ、手を離す理由にはしたくなかった。
「カズヤ氏、次で開けるッス!」
「分かった!」
セツナが仕切り戸のつまみを回した。錠が外れる。向こうから戸が押され、細い隙間ができた。
カズヤが台車の先を押し込む。戸倉が閉めようとしても、荷台の合板がつかえて止まった。セツナは戸を引き、人一人が通れる幅まで広げる。
戸倉の前で身を起こした見張りが、台車の金属片を拾った。
「どけ!」
折れた先が、作業灯をはね返した。セツナの足が止まる。男の右手を見ていた。退けば戸口を守れない。踏み込めば、その金属片が来る。
彼女は右ひじを体へ寄せ、男の懐へ入った。金属片が右の袖を裂く。腕の外側に、赤い線が走った。それでも、刃先を深く入れさせなかった。包帯のある左手を男のひじへ一瞬だけ添え、体ごと回る。
男は戸枠へつまずいた。金属片が落ちる。カズヤが、その横を抜けてきた。
「セツナ、腕!」
「浅いッス。貸元氏の所へ!」
セツナは答え、右手で戸を押さえ直した。腕が痛くても、カズヤの通り道を開けていた。
俺は貸元の背へ肩を寄せた。腕の力だけでは足りない。痛むひざを曲げ、体重を後ろへ掛ける。
貸元の右足が、白から抜けた。右腕も引き戻される。二つの靴底が、コンクリートをこすった。
俺もよろけた。片足だけを、どうにか床へ残す。貸元の体は全部、現代側にあった。右袖はゆがんだままだったが、それ以上に引きつる動きは止まった。
「新しい傷、止まりました!」
白河さんの声がした。新しい傷は止まったが、できた傷は残っている。長谷川さんの袖は赤く、岸本さんは通路に座って右脚を抱えていた。
貸元を殴って終わらせることも、三人の傷を代わりに引き受けることも、俺にはできない。カズヤが、手の届く所へ来た。その顔を見て、俺は言った。
「カズヤ、頼む」
思ったより小さな声になった。それでも、彼の目が俺へ向いた。
「任せろ」
カズヤは自分の右手で、貸元の左手首へ触れた。
貸元が腕を引いた。遅かった。手首の内側に、薄い茶色の印が浮かんでいる。カズヤの右の手のひらにも、同じ印があった。
「戸を閉めなさい!」
貸元が叫んだ。戸倉が仕切り戸を押す。見張りも起き上がろうとしていた。
カズヤは貸元を見たまま下がった。戸口へ着くと、台車を壁際へ押しのける。交換したあと、自分が戻る道だ。
セツナは起きかけた見張りの手首を押さえ、その腕を戸の進む側へ向けた。戸倉が押す力を緩める。カズヤが床の車輪止めを戸口へ蹴り、セツナがそれを戸の下へ差し込んだ。
黄色いゴムが、戸と床の間に詰まった。戸倉が押しても、それ以上は閉じない。
「カズヤ氏、今!」
二人が仕切り戸を抜け、金網の資材室へ向かった。俺は貸元の服をつかんだまま、開いた戸を見た。
貸元が横へ逃げようとする。俺は布を引き、白へ戻る向きをふさいだ。
「まだ、行かせない」
「あなたは、残れる方でしょう」
貸元が俺を見た。ここに残れるからこそ、同じ世界で生きる人を傷つけて、向こうへ行きたくない。俺は足を踏ん張り直した。貸元を転ばせて頭でも打たせれば、その傷まで客に移る。立たせたまま、逃がさない。
カズヤが、空の資材室へ入った。俺と貸元のいる床まで八メートル。開いた仕切り戸を通して、カズヤの顔が見える。
セツナが金網の戸を閉め、持ってきた錠を留め金へ掛けた。
カズヤを閉じ込める音が、した。




