第32話 返る先にいる人
貸元は、白河さんを見ていなかった。白の奥の石畳へ顔を向け、何かをつぶやく。誰の名前だったのかは、機械のきしむ音に消えた。
右腕が、白へ入った。手首からひじへ、袖の形がゆがむ。風のせいではなかった。布の下の腕が、内側から引き延ばされている。貸元の肩が跳ね、白いシャツに血がにじんだ。
俺は背後から、白の外に残る貸元の左肩をつかんだ。にぎるのは、上着だけ。
「出ろ!」
俺が上着を引くと、貸元の体が後ろへ傾いた。それでも、白に入れた右腕を抜こうとはしない。
「長谷川様」
貸元の声に、右から短い悲鳴が重なった。長谷川さんが右腕を抱えている。指の間から、血が落ちた。貸元の袖では、赤い染みが広がるのをやめていた。
「長谷川さんの右腕に、傷が!」
白河さんが知らせてくれた。椅子の前にしゃがみ、落ちかけた長谷川さんの腕を支えている。さっきまで、その腕は動いていた。包帯があったのは、左の手首だ。
貸元の右足も、白へ入った。ズボンのすそが引きつり、ひざが落ちかける。そのひざが伸びた瞬間、客の区画で女性が椅子へ倒れ込んだ。
「岸本さん、座ったままで!」
薄い青の上着の女性が、右のすねを押さえた。ズボンの前が赤くなっていく。貸元は、もう一歩進もうとしていた。
俺は貸元の上着の肩を、両手でにぎった。紙には『見込み』と書いてあった傷が、今、三人の客の体にできている。
「傷を移すのを、やめろ!」
「手を、お放しください」
貸元の左手が、俺の左手首へ掛かった。爪が食い込む。熱い痛みが走り、できた傷はすぐ閉じた。同じ傷が貸元の左手首を裂く。その傷まで、次の瞬間には消えていた。
「藤沢さんの左手首にも!」
白河さんが叫んだ。白髪の男が、自分の手首を押さえている。三人目だ。
貸元を殴れば、関係のない人が傷つく。放せば、もっと奥へ進んでしまう。俺は服をにぎったまま、両足を床に踏ん張った。
「この戸を出れば、まっすぐ階段ッス!」
セツナが柵の戸を押さえ、白河さんたちを退避通路へ促していた。白河さんは長谷川さんの傷のない左ひじへ、自分の肩を寄せる。
「つかまってください。右腕は、引きませんから」
長谷川さんがゆっくり立った。藤沢さんは左手首を上着で押さえ、右手で岸本さんの椅子を戸口へ向ける。白河さんは三人の様子を見ながら、外へ急がせた。自分だけなら走って帰れる。それでも、三人を置いていかなかった。
百合子さんが、柵の戸を引き戻した。左の指で金具がつぶれる。セツナは戸を引く手の動きを先に見て、百合子さんの左ひじへ右手を添えた。ひじを持ち上げ、引く向きをずらす。戸が斜めになり、枠へつかえた。
藤沢さんが、空いた椅子を隙間へ押し込んだ。椅子の背がきしむ。その隙に、白河さんが長谷川さんを外へ出した。
「百合子さん、この人たちまで閉じ込めるんですか!」
白河さんの声で、百合子さんが血のついた袖を見た。左の指が緩む。けれど、また戸へ掛かった。
「あたしの店も、働いてる子も、この人に助けてもらったの。ここで全部、駄目にできないのよ」
百合子さんは言い切り、つった右腕を胸へ押さえた。息が一度、途切れる。
「寺田。その子を戻して」
寺田が俺の背後から離れ、右の退避通路へ走った。途中で胸を押さえ、足が鈍る。それでも階段への道に先回りした。
白河さんは、長谷川さんを自分の後ろへ入れた。
「今、目の前で傷ついたんです。通してください」
寺田の目が、長谷川さんの赤い袖へ落ちた。通すために一歩引きかけ、止まる。低くなった声で、白河さんへ言った。
「……分かってる。でも、相棒を戻せるなら。ここまで来て、やめられねえ」
寺田は誰の腕もつかまなかった。ただ、階段の前から動かなかった。
左で、仕切り戸が滑った。戸倉が戸へ肩を当てて押している。
「カズヤ!」
細くなる隙間の向こうで、カズヤが台車を引いた。見張りの手を避け、荷台を二人の間へ戻す。彼の顔を戸が隠した。最後に錠の掛かる音がした。
カズヤは閉まった戸の向こうだ。このままでは、貸元に触れられない。俺が戸を開けに戻れば、貸元が白へ進んでしまう。
「佐倉様には、お待ちいただきます」
貸元が言い、白の奥へ右腕を伸ばした。袖が内側から引かれる。右の退避通路で、長谷川さんがうめいた。
俺は後ろへ体重を掛けた。靴が滑り、ひざを床へぶつける。傷は消えた。痛みは消えなかった。力なら俺のほうがある。それでも、服を引く指が震えていた。
下で、鉄のぶつかる音がした。大橋が鋼材と台車の骨組みを組み、四本脚の台で沈んだ足場を押し上げている。
「順に渡れ! 三人同時には支えられん!」
作業員たちが足場を渡り始めた。大橋は操作器をにぎり、最後の一人まで目で追った。貸元を見上げることさえしなかった。
右では、白河さんたちが全員、柵の外へ出た。百合子さんは戸に挟まった椅子を引き抜こうとし、右腕の痛みに顔をしかめる。寺田はまだ、階段側をふさいでいた。
「セツナさん、先輩のほうへ! ここは、わたしが見ます!」
白河さんが呼んだ。セツナは三人が手すり沿いにいるのを確かめ、作業床を横切ってきた。俺の後ろを通り、左の仕切り戸へ向かう。
「カズヤ氏、戸へ寄って! こっちから開けるッス!」
戸倉が錠へ手を伸ばした。セツナはその手首を右手で押さえる。戸倉が身を引いた陰から、入口にいたもう一人の見張りが飛び出した。
「セツナさん、左!」
白河さんの声で、セツナが振り向く。男のひじへ右手を差し込み、曲がるほうへ押した。男の肩が下がり、戸倉の前へ出る。二人が同時に彼女へ手を伸ばせなくなった。
セツナは戸の内側のつまみを回した。錠が外れる。すぐ、戸倉の指がひねられた。錠が掛かり直す。
「佐倉様を、こちらへ近づけないように」
貸元が命じた。俺は返事をせず、男の肩から背中へ、服をにぎる場所を替えた。




