第31話 奇跡の扉
誰かのぬれた靴跡が、階段の五階まで続いていた。白いワゴン車から降りた誰かのものだ。俺たちの靴も、その上へ水を落としていく。踊り場を曲がるたび、胸と背中が痛んだ。昨日、寺田の肩を受けた胸。月曜、鉄の巨人に押しつぶされた背中。せめて一つずつにしてほしい。階段はそういう注文を聞いてくれない。
先を行くセツナが、最後の段の手前で止まった。上から靴底のこすれる音がする。
「二人。戸の両側ッス」
カズヤが通話を終え、俺のスマホを返してきた。
「場所は伝えた。録音、すぐ出せる」
画面には、昨日の貸元の声が保存されている。俺はスマホをポケットへ入れた。
「先に白河さんを出す。録音は、走りながらでも聞かせる」
「分かってる」
カズヤは短い縄を腰へ戻した。セツナの左腕には包帯があり、右手にも傷がある。三人とも、もう傷だらけだ。それでも、全員で帰るつもりだった。
セツナが五階の入口を押し開けた。右の戸の陰から、作業服の男が腕を伸ばす。彼女はその腕より先に踏み込み、自分の右肩を男のひじの下へ入れた。男の体が前へ傾く。半歩ずれたセツナの横で、男は戸枠へぶつかった。
もう一人が、左からカズヤへつかみかかる。
「カズヤ、左!」
俺の声でカズヤが身を引いた。カズヤをつかみ損ねた男の足の前へ、セツナが自分の足を差し入れる。男がつまずいた隙に、俺たちは戸口を抜けた。
作業灯の白い光が、コンクリートの床に伸びていた。奥の窓には、まだガラスがない。雨を含んだ風が、むき出しの電線を揺らしている。
正面の床が、大きく抜けていた。吹き抜けの向こうに、貸元の立つ作業床がある。その縁からこちらへ突き出した鉄の昇降台に、白河さんがいた。
「先輩!」
白河さんが、にぎっていた上着のすそを放した。俺も彼女の名前を呼び、床の穴を避けて左へ走る。作業床へ続く通路には、開いた仕切り戸が一枚。カズヤはその手前の操作パネルへ向かった。
通路の壁際に、空の金網の資材室があった。図面で確かめた場所だ。カズヤは中を見て、俺へうなずく。貸元のいる床まで八メートル。仕切り戸さえ開いていれば、互いの姿が見える。
セツナは右へ走った。三人の客が座る柵の区画へ。そこを出れば、壁沿いの退避通路で、今入ってきた階段の戸へ戻れる。
「話を、しませんか」
貸元が、吹き抜け越しに声を掛けてきた。白河さんのすぐ後ろを離れない。
「帰す話なら、外で聞きます」
俺は答え、左の仕切り戸を抜けた。後ろで、錠が鳴る。
戸倉が戸の脇に立っていた。灰色の上着の胸で、名札が揺れている。右手を錠から離し、追ってきた見張りへ顔を向けた。
「佐倉くんを押さえて。手を、両方」
カズヤは操作盤から身を引いた。壁際の低い台車を押し、見張りとの間へ入れる。荷台には合板と短い金属の切れ端が載っていた。黄色い車輪止めが、外れて床を転がる。男の手は、カズヤの肩まで届かなかった。
右の柵の前には、百合子さんがいた。折れた右腕を固定し、首から布でつっている。空いている左手で柵の戸を引き、セツナの進路を狭めた。
「その子たちの所に、いつまで置いてもらえると思ってるの」
百合子さんの言葉で、セツナの足が一度だけ遅くなった。けれど、止まらなかった。
「今は、この人たちを出すッス」
柵の中で、長谷川さんが椅子から腰を上げかけていた。隣には、薄い青の上着の女性と、白髪の混じる男。白河さんが教えてくれた三人だ。名簿で見た名前と、初めて顔がつながった。
俺は走ったままスマホの再生を押した。
『私の暮らしは、あちらにあります。こちらへ戻る理由はありません』
下で、機械の音が止まった。吹き抜けの四階に大橋がいる。ジャージの袖から伸びた手が、操作器をにぎっていた。
「三田翔。その続きは」
大橋へスマホを向ける。録音の中で、カズヤが尋ねた。
『じゃあ、あの人たちとの約束は』
返事のないまま、録音が終わった。大橋は俺ではなく、貸元を見上げた。
「向こうで金を得て、妹の治療費を払う。ドクター・オーバーキルには、その話だったはずだ」
「まず道を確かめます。そのお約束は変わっておりません」
貸元の返事は、すぐだった。大橋の指が操作器から離れかけ、また戻る。
「帰ってくる手順は、あとで聞く」
機械がうなった。貸元が妹の治療費を払ってきた記録は、俺も見た。録音一つで大橋が貸元を見限るとは思っていない。それでも、機械が動き出す音に胸が重くなった。
仕切り戸から作業床へ出れば、白河さんはすぐそこだった。あと二歩。その足元の鉄板へ渡ろうとしたとき、俺と彼女の間に柵がせり上がった。
鉄の棒の向こうで、白河さんが腕を伸ばしている。反射で壊した破片を、彼女へ飛ばすわけにはいかない。俺はまだ低い柵へ片足を掛けた。
右の退避通路から、寺田が飛び出してきた。片手で胸を押さえ、俺の目の前へ回り込む。肩はぶつけてこなかった。踏み出しかけた俺の靴の前へ、自分の靴を置く。
「上がるな」
「白河さんを帰せ!」
足の行き場がなくなり、俺の体が傾いた。寺田は俺の肌へ触れず、上着のすそを引く。昨日と同じぶつかり方は、選ばなかった。
「止まれ!」
カズヤの声と同時に、機械のうなりが切れた。彼は台車で見張りを押し戻し、操作盤の停止ボタンをたたいていた。昇降台の下で、銀色の筒が止まる。
「白河さん、今!」
俺は上着を脱いだ。片腕ずつ袖を抜き、寺田の手に服だけを残す。柵をまたいで、白河さんへ手を伸ばした。
届く前に、彼女の足元が傾いた。
止まった機械とは別に、鉄板の支えが外れていた。貸元の足元に、倒された短いレバーが見えた。白河さんの靴が滑る。俺から遠い、鉄板の奥へ。
「白河さん!」
貸元が手すりへ腰を当て、両手で彼女の右腕をつかんだ。彼女が落ちる側へ、初めから立っていたのだ。俺は柵の端を回って走る。貸元は後ろへ体重を掛けた。白河さんも左手を床の縁へ掛け、自分の胸を引き上げる。
落ちた鉄板が、四階の機械へぶつかった。火花が散り、大橋の横の足場が沈む。
「戻るな! 手すりをつかめ!」
大橋が作業員へ怒鳴った。機械ではなく、取り残された男へ手を伸ばしていた。
頭上でも、鉄がきしんだ。吹き抜けを横切る梁が傾き、右の退避通路の支柱を引っ張っている。まだ折れてはいない。俺はすぐ、白河さんへ目を戻した。
彼女の両ひざが、作業床へ載った。貸元の手が離れる。白河さんは床に手をつき、せき込んだ。
「先輩」
ぬれた目が、俺を見た。生きていた。それを、貸元の成功だとは思いたくなかった。
「セツナの所へ行って!」
俺は右の柵を指した。セツナが百合子さんの左手首を押さえ、戸口からずらしている。百合子さんはつった右腕を抱え、息を詰めていた。
「白河氏、こっちッス!」
白河さんが立った。一歩目でひざが揺れる。手すりをつかみ、二歩目を自分で出した。俺の所ではなく、安全なほうへ。
貸元の背後に、白い線が走った。左右へ開く。壁も、床もない白。その奥に、朝の色をした石畳が見えた。
こちらでは雨が降っていた。白河さんはセツナの所へ着き、振り返って俺を呼んだ。彼女が離れても、白は閉じなかった。貸元だけの扉が、開いていた。




