第3話 動けない
天井が、木だった。黒く煤けた梁が一本、視界を横切っている。その下に藁が敷かれていて、埃が光の筋の中をゆっくり落ちていく。病院じゃない。家でもない。起き上がろうとした。起き上がれなかった。首が、持ち上がらない。腕を動かそうとすると、視界の端に何かが入ってくる。小さい手だ。指が五本ある。ちゃんと五本ある。でも、俺の手の四分の一もない。
握ろうとした。握れなかった。指がばらばらに動いて、それきりだった。声を出そうとした。出たのは、泣き声だった。自分の喉から出ているのに、自分のものだと思えない音。やめようと思ってもやめられない。息が続かなくなるまで泣いて、泣きながら、頭の隅だけがやけに冷静に状況を整理していた。
俺は、赤ん坊になっている。
まあ、いいか。
――とは、思えなかった。
たぶん、生まれて初めてだった。
足音がして、女の人が覗き込んできた。若い。二十歳そこそこに見える。栗色の髪を後ろで無造作に束ねていて、目の下に濃い隈がある。手が荒れていた。指の関節が赤くなっていて、爪が短く切り揃えられている。その人が、俺を抱き上げた。何か言った。
意味は分からない。でも、音の響きが優しいことだけは分かった。それから乳を飲まされた。これについては書かないことにする。人間、死ぬほど腹が減っていると、恥ずかしさという機能は普通に停止する。
*
最初の一年は、ほとんど眠っていた。意識がはっきりしている時間が、一日に何時間もない。眠って、起きて、泣いて、飲んで、また眠る。その繰り返しの中に、ときどき「俺」が浮かんでくる。そして、浮かんでいるあいだに考えることは、だいたい同じだった。
あの子は、助かったんだろうか。トラックの前に出た、名前も知らない一年生。肩でぶつかった感触は、まだ残っている。あの重さ。意外と細かった腕。助かっていてほしい。そう思うたびに、それを確かめる方法がこの世のどこにもないことを思い出して、また眠った。
*
怖かったのは、忘れていくことだった。最初に消えたのは、電話番号だった。二百件以上あったはずの連絡先が、一つも出てこない。そもそもスマホのロック画面の壁紙が何だったか、もう思い出せない。
次に、匂いが消えた。教室の匂い。購買のパンの袋の匂い。夏の午後のアスファルトの匂い。どれも「そういうものがあった」という知識だけになって、鼻の奥が何も再生しなくなる。
顔は、意外と残った。母さんの顔。父さんの顔。カズヤの顔。カズヤは、笑ってる顔しか思い出せなかった。十年以上も一緒にいたのに、他の表情を一つも持っていない。
――そういえば、あいつが小三で一学期まるごと休んだとき、どんな顔で戻ってきたんだっけ。
思い出せなかった。見ていなかったのかもしれない。
*
言葉が分かるようになったのは、二歳になるかならないかの頃だった。正確に言うと、ある日いきなり分かった、という感じではない。じわじわと、霧が晴れるみたいに、音の塊が意味に変わっていった。たぶん、赤ん坊というのはそういうものなんだろう。俺の場合は中に十七年分の人間が入っていたから、普通より少しだけ早かった。それだけだ。
そして、いくつかのことが分かった。あの若い女の人は、リタという。俺の母親だ。夫はダンという。この村の鍛冶屋だ。朝から晩まで金属を叩いている音が、家の裏からずっと聞こえてくる。だから俺は、生まれてからずっと、あの音を子守唄にして眠っていたことになる。
村の名前はリンデ。そして。
「テオ」
それが、俺の名前らしかった。リタが俺を呼ぶとき、必ずその音が出てくる。ダンが俺を見るときも同じだ。近所のばあさんも、水を汲みに来る女たちも、みんな俺をそう呼ぶ。テオ。悪くない名前だと思う。呼びやすいし、響きも柔らかい。ただ、返事をするたびに、半分だけ返事をしている気がした。
俺は三田翔で、テオではない。でも、この世界で俺を三田翔と呼ぶ人間は一人もいない。結局、あだ名みたいなもんだな。そう思うことにした。見た目チー牛も、テオも、大差ない。人から見えている分だけが名前になる。そういうものだ。
*
三歳の春、初めて村の通りを端まで連れていってもらった。石畳の道があった。両側に石と木でできた家が並んでいて、屋根から煙が出ている。水を汲む女がいて、荷車を引く男がいて、その脇を犬が走っていく。腰に剣を吊った男が、俺の横を通り過ぎた。
道の向こうから、ローブを着た年寄りが歩いてきた。手に持った杖の先に、埋め込まれた石が薄く光っていた。俺は、リタの腕の中から、それをじっと見ていた。剣。魔術。石畳。馬。そういう世界だ。ああ、と思った。白い空間で聞いた言葉の意味は、いまだに一つも分かっていない。狭間。扉。時空に刻まれた意味。何一つ分からない。でも、これだけは分かった。
俺は、この世界で生きるしかないらしい。




