第2話 白い空間
商店街の入り口に、大きな交差点がある。片側二車線。歩道橋はない。信号は妙に長い。ゲーセンはその向こう側で、この交差点を渡らないと辿り着けない。だから俺は、月に何回もそこを渡っている。数えたことはないが、百回では利かないはずだ。
六月の夕方。空はまだ明るくて、アスファルトが昼間の熱をゆっくり吐き出していた。信号待ちの列は五、六人。塾のバッグを抱えた小学生。スマホを見ている会社員。買い物袋を提げたおばさん。そして、女の子が一人。うちの高校の制服だった。一年の学年色のリボン。名前は知らない。見覚えもない。ただ――立っている位置が、少しおかしかった。
歩道の内側じゃない。縁石の、車道側。つま先が半分はみ出している。俺はそれを、なんとなく見ていた。なんとなく、としか言いようがない。危ないな、とすら思っていない。ただ視界に入っていた。
向かいの歩道に、スーツの男が立っていた。三つ揃い。夕方の商店街に、一人だけ季節の違う服を着ていた。それも、なんとなく見ていた。信号が、青になる。
――いや。
なっていない。女の子が、歩き出した。顔を上げないまま。信号を見ないまま。誰かに呼ばれたみたいに、まっすぐ。
「え」
誰かが言った。俺かもしれない。左からトラックが来ていた。青い車体の、大きなトラック。エンジンの音が近づいてくる。速度は落ちない。まだ、落ちない。それだけのことが、やけにゆっくり見えた。考えていない。本当に、何も考えていなかった。
俺の体は、勝手に前に出た。手を伸ばして掴む、じゃない。腕を引く、でもない。そんな余裕はどこにもなかったから。肩から、思い切りぶつかった。体当たり。自分でも笑えるくらい、雑な助け方だった。女の子の体が横に吹き飛ぶ。制服のスカートが翻る。彼女が歩道に転がるのが、視界の端に見えた。
よかった。そう思った。
世界が、横に飛んだ。
*
白かった。上も下もない。床の感触がない。自分の手が見えているのかどうかも、よく分からない。ただ、白い。
『――届いた』
声ではなかった。耳を使っていない。音が鳴っていない。意味が、いきなりそこにある。
「日本語、通じるんですか?」
そう言ったのは、俺だった。訊くべきことは、他にいくらでもあったはずだ。ここはどこなのか。俺はどうなったのか。あの子は助かったのか。なのに、最初に口から出たのは、それだった。
『言葉ではない。おまえに分かる形で、意味を渡している』
「ここは……?」
『世界の狭間』
「どうして俺が、そんなところに?」
『時空に刻まれた意味を具現化し、扉を開いた』
「扉……? 俺は、どうなるんですか?」
返事はなかった。いや、正確には、返ってきていたのかもしれない。俺の側が、受け取れなくなっていた。白が、遠のいていく。体当たりのときの、肩の感触だけが、妙にはっきり残っていた。あの重さ。あの、意外と細かった腕。あの子は、助かったんだろうか。
誰かに、それを訊きたかった。もう一度呼びかけようとしたが、声が出なかった。これが、死というものなのか。そう思ったのが、最後だった。
*
気がつくと、俺は赤ん坊になっていた。




