第29話 返事の向こう
白河さんへ、もう一度かけた。呼び出しの音は鳴った。鳴ったまま、誰も出なかった。俺たちは岡部さんの車を離れ、後ろから来ていた協力者の車へ移った。けが人の救護と警察への説明は、岡部さんたちが引き受けてくれていた。白いワゴン車の番号と、戸倉の名前も伝えた。
カズヤが黄色い作業車の写真を小松さんへ送った。工場へ来る車なら、知っている人がいるかもしれない。でも、それですぐ居場所が分かるわけじゃない。近くの事務所を借りてからも、俺は白河さんの名前を見ていた。
かけ直そうとした瞬間、貸元から着信が来た。映像通話だった。カズヤが俺の隣へ座った。自分のスマホを横に置き、録音を始める。セツナは戸の横へ立ち、廊下を確かめてから、俺たちの向かいへ戻った。
俺は、通話を受けた。
『落ち着いてお話しできますか』
貸元の背後には、何も掛かっていない灰色の壁があった。
「白河さんは」
『別の部屋におります。車では、怖い思いをさせてしまいました』
「今、顔を見せてください」
貸元は少し黙った。画面が動いた。白河さんが、椅子に座っていた。ひざの上で自分の手を重ねている。顔を上げ、画面へ身を寄せた。
『先輩。わたし――』
貸元がカメラを自分へ戻した。
「話をさせて」
『あとで、ご本人の電話をお返しします。先に、私の話を』
俺は机の端をつかんだ。カズヤが、俺の顔を見ている。うなずくまでに、少しかかった。
俺は、かばんから一枚の紙を出した。工場で撮った、古い手帳の頁だった。
「これを読んだ」
カメラへ向けた。貸元の視線が、紙へ下がった。
『小松さんからですね』
「最初に戻ったときから、知ってたんですね。もう一度渡ったら、体が傷つくって」
『ええ』
「それなのに、何で」
貸元は、すぐには答えなかった。胸の内側へ手を入れ、小さな木のさじを出した。飾りはない。柄の片側に、削り直した跡があった。
『娘が向こうで使っていたさじをまねて、こちらで作ったものです。形だけでも、忘れないようにと』
貸元の親指が、削った跡をなぞった。
『何度直しても、少し違う気がするのです』
「娘さんの顔も、忘れそうになるんですか」
口にしてから、俺は唇を噛んだ。貸元はさじへ目を落としたまま、首を横に振った。
『忘れません。ただ、こちらには確かめる相手がいないのです。娘は、食事のたびにあのさじを床へ落とすので、妻は柄の太いものへ替えたがっていました。ですが、娘はこれでなければ嫌だと』
画面の中で、貸元が小さく息を吐いた。笑いかけたのかもしれない。途中で、顔が戻った。
『娘を助けたあと、私は白い場所にいました。何が起きたかを知って、尋ねたのです。家族のいる世界へ、もう一度戻れるかと』
工場の資料には、その最初の一言がなかった。家族のいる世界。それが、貸元の問いだった。
『あの頁は、その返事です』
紙を下ろした。テオ、と呼ぶ声を思い出す。まだ、返事をしていない。祭りのあとで話したかったことも、言えないままだ。画面の中では、木のさじを持った手が止まっていた。
「四十三年、待ってるかどうかも、分からないのに」
『待っていてくれるかどうかを確かめるにも、私は戻らなければなりません』
貸元は言った。
『あなたは、大切な方へ、最後に何と言いましたか』
答えられなかった。言うはずだった言葉ばかりがあった。カズヤが、机の下で俺の腕に触れた。
白河さんを忘れないように、という意味だと、俺は受け取った。
「帰りたいのは、分かります」
俺は言った。そこを分からないふりは、できなかった。
「あんたが向こうへ帰って、こっちの人たちにも鍵を探すのをやめさせる。それなら、もう誰も襲われずに済むんじゃないですか」
俺は、画面の中の貸元へ言った。貸元の目が、俺へ戻った。
『ようやく、同じお話ができそうですね』
「だから白河さんを落としていい、とは言ってません」
俺は、机の上の紙を押さえた。
「今、扉はない。開けるために、また彼女を危ない所へ置くつもりでしょう。あの三人にも、傷を代わってもらうつもりだ。それを、やめてほしい」
『では、どうやって帰ればよろしいのでしょう』
すぐに答えを出せる問いではなかった。安全に扉を開ける方法なんて、俺は知らない。俺が横にいれば大丈夫、とも、もう言えない。
「分からない。けど、知らないまま、人を使って確かめていいことにはならない」
貸元がさじを、胸の内側へしまった。
『生きて着かなければ、家族には会えません。そのために準備してきたのです』
声は静かだった。怒鳴らなくても、貸元がその準備を捨てる気のないことは伝わった。
「扉の中の傷まで移せるって、まだ試してないんですよね」
『通常の傷では、何度も行っています』
「それが、扉の中でも同じかどうかは、分からない」
『ええ。最後まで保証されているとは申しません』
貸元は否定しなかった。紙に書かれていた『見込み』を、思い出した。
「分からないぶんを、長谷川さんたちに背負わせるんですか」
『ご本人が、望んで引き受けた契約です』
「断ったら、住む所がなくなるって言ったじゃないですか」
『私がお支えしている生活には、約束があります』
部屋を失うか、傷を受け持つか。それを自分で選んだ約束だという。貸元の声は変わらなかった。俺がやめてほしいと言ったやり方を、丁寧に説明していた。
カズヤが俺へ目で合図し、画面に映る位置へ椅子を寄せた。
「一つ、聞いていいですか」
『佐倉様。お怪我は』
「帰ったあと、どうするんですか」
貸元の挨拶へ、カズヤは答えなかった。
「向こうの家族に会えたとして。そのあと、こっちへ迎えに来るんですよね。大橋さんたちも、それを信じてる」
『皆様には、私が先に通る理由をご説明しています』
「理由じゃなくて、そのあとの話です」
貸元が、画面から少し目を外した。背後の戸も、窓も見えない。そこに誰がいるのかは、分からない。声は聞こえなかった。
『私の暮らしは、あちらにあります。こちらへ戻る理由はありません』
セツナの指が、ひざの上で止まった。カズヤが、さらに前へ身を寄せる。
「じゃあ、あの人たちとの約束は」
『佐倉様。今、無関係な話へ広げないでいただけますか』
「関係あるでしょう。あの人たちは、その約束で動いてるんだ」
貸元は何も言わなかった。カズヤのスマホの画面に、録音の時間だけが増えていく。
「帰ってきて、全員の願いをかなえるつもりがあるんですか」
返事はなかった。映像が消えた。
俺は、真っ暗になった画面を見ていた。カズヤが録音を止め、ファイルを保存した。
「言いかけただけ、で逃げられるかもしれない。でも、聞かせられる」
セツナはうなずかなかった。机に置かれた自分の手を見ていた。
「部屋、ずっと使っていいって、言ってたッス」
俺は彼女を見た。
「それも、向こうへ行ったあとのことまで、ちゃんと聞いたことなかったッス」
貸元の約束を信じて、今の暮らしを任せた人たちがいる。その相手は、戻ってこない。木のさじをなぞる手を思い出した。家族に会いたい。その気持ちは分かる。でも、白河さんはそのために、今どこかの部屋へ閉じ込められている。
長谷川さんは、傷を引き受けるために待たされている。そこを抜かして貸元の話を聞くことは、もうできなかった。スマホが鳴った。今度は、白河さんの名前だった。俺は両手で持ち直して、通話を受けた。
『……先輩。聞こえますか』
泣いてはいなかった。泣いていないことだけで大丈夫だと思いかけて、やめた。
「聞こえる。白河さんの声、聞こえてる」
今度は、すぐに返事をした。




