第27話 古い日付
水曜日の朝、机の上から食器が片づけられた。代わりに、工場で撮った資料の画像が並んだ。印刷した紙を指で押さえ、カズヤが言った。
「貸元に近づいて、ぶん殴って終わり、は無理だ」
「殴られるほうでも、無理ッス」
セツナが答えた。病院で巻き直された左腕の包帯は、昨日より少し薄くなっていた。傷が治ったわけではなく、濡らさないようにと言われている。
「でも、契約を終わらせることはできる」
俺は、相談の部屋にいた片桐さんを思い出した。貸元が傷を引き取り、黒い輪を消した。あれを、長谷川さんにもやらせればいい。
「まず、誰と契約してるか、全部探そう」
カズヤが紙を四つに分けた。
「ミタチーは事故と救助。俺は日付と金の動き。白河さんは指示書の名前を頼む。セツナは、業者と施設の宛先を見てくれ」
原本は月曜に警察へ渡してある。今あるのは、その前に撮った写真と、小松さんがあとから説明してくれた資料だ。
目が滑ったら休む。頭が痛くなったら言う。それも先に決めた。
「休むの、誰からッスか」
「疲れたやつから」
カズヤが答えた。
「自分、まだ平気ッス」
「じゃあ十分後、もう一回聞くわ」
セツナは何か言い返そうとして、やめた。
「……了解ッス」
最初に気になる一枚を見つけたのは、白河さんだった。
「この日付、ずっと古いです」
準備資料の表紙には、『通行時の負傷対策』とあった。次の頁に、古い手帳の複写が貼りつけてある。日付は、四十三年前だった。手書きの字で、『帰還時、白い空間にて』。その下に、問いと答えがあった。
『もう一度、向こうへ戻れるか』
『最初の行き帰りは、これで終わる。再び渡る道はある。だが、次は今の身体で境目を通らねばならない。中で、身体は向こうのものへ組み替えられる。その変化は、お前を傷つける。生きて着く保証はない』
俺は、二度読んだ。白い空間で、誰かの声を聞いたことを思い出す。耳で聞いたのか、頭へ意味が入ってきたのか、今もよく分からない。でも、そこへ行ったことはある。
貸元も、同じ場所を知っていた。
「二度目に行った誰かが、教えたんじゃないんだ」
俺が言うと、カズヤが日付の横を指した。
「最初に戻ってきた、その日だな」
セツナは、自分の左腕を見た。
「あの痛み、腕の中が変わり始めてたからなんスかね」
包帯の端から、指先がのぞいていた。
日曜、白へ入った所だけ、セツナの腕は裂けた。俺が最初に渡ったときは、白い場所のあとで赤ん坊になった。帰るときは、元の体へ戻された。
次は違う。今ある体を、自分で白へ入れる。その中で、向こうで暮らした体へ変えられてしまうのだ。
腕も、脚も。傷つきながら、自分で歩いて。
「生きて着く保証はない、か」
カズヤがつぶやいた。必ず死ぬ、とも書いていない。セツナの腕にできた傷を見たからといって、向こうへ着くまでの傷が分かるわけでもない。
「この一枚、何で工場にあったんスかね」
セツナの問いに、白河さんが表紙の小さな文字を読んだ。
「『救助設備および引受人の準備根拠として添付』。……これを見せて、準備を頼んだんですね」
誰に会いに行くのか。なぜ帰りたいのか。そういうことは、ここには書かれていなかった。次の頁には、別の筆跡で一行あった。
『通行時にできる傷も、引き受けの対象となる見込み。受け手は、現在契約中の三名を使用』
見込み。成功した、ではない。俺は、その二文字の下へ線を引いた。
「体が変わることまで、客へ押しつけるんじゃないよな」
俺が聞くと、カズヤは前の頁と見比べた。
「貸元の力で移せるのは、できた傷だけだ。向こうの体に変わるのは、境目を通る貸元本人だろ」
それで生きて着けるかは、別の話だ。傷を移せるかどうかさえ、まだ誰も確かめていない。
日付順に並べると、四十三年の間に記録の言葉が変わっていた。最初は、帰ってきた人の話を聞いた日と、助けた相手の特徴。次に『該当者確認』。何年か後には『病死。機会なし』。そのころは、事故を用意する指示がなかった。
あとの紙には、救助の設備を手配し、傷を受け持つ人を助ける記録がある。今の指示書では、誰をどこで危険にさらすかまで書いてあった。貸元は、帰ることを諦めない。その代わり、昔はやらなかったことを、一つずつ始めていた。
紙をめくった指が、止まった。交差点の名前を知っていた。俺が、白河さんを助けた場所だった。
水曜日。事故の起きた時刻。対象者の欄に、白河ゆき。救助担当の欄に、金原総司。
「……これ、俺が入る前の予定だ」
白河さんの指が、紙の端を押さえた。自分の名前を見ていた。同じ日の追記には、『救助者を三田翔と確認。入院先にて直接確認』とある。
木曜日には、配送担当の寺田という人から、病院の観察報告。
金曜日の欄には、俺の退院と外出経路。それを受け取った葛西セツナの名前があった。
「貸元は、事故のあとに俺たちを見つけたんじゃない」
俺は言った。
「最初から、白河さんを見てた。自分が助けるはずの所へ、俺が飛び込んだ」
セツナが紙へ目を落とした。
「ゲーセンの場所、自分で探したんじゃないッス。ここで待つように、って連絡が来たッス」
「病院でも、直接見てたんだな。だから俺の力が分かった」
俺が寝ている間に。父さんが、俺が目を覚ますかどうかを心配している間に。白河さんが、自分の指を紙から離した。
「事故のことを思い出せないから、ずっと、分からないままかと思っていました」
彼女は紙を折らなかった。自分の名前が見える向きのまま、机の中央へ置いた。
大橋の『月末』にも、行き先があった。病院への振り込み。次の支払期日。本人の依頼書には、『妹の治療費』と書かれていた。
俺の胸を押し潰した拳が、頭に浮かぶ。妹がいるから仕方なかった、とは思えなかった。でも、大橋が機械を止めろと言われても止めなかったとき、何を見ていたのかは、少し分かった。
百合子さんの店と、従業員の部屋の費用も載っていた。寺田という人の古い配送記録には、初めは二人の名前があった。途中から、もう一人の名前だけがなくなっている。
「助けたことは、あるんだな」
カズヤが言った。
「貸元が」
セツナはうなずいた。
「自分も、そうッス」
一度助けられたら、次も信じたくなる。用意してもらった部屋を失えば、行く場所がないのなら、なおさらだ。白河さんが、新しい発注書を差し出した。
『白河回収が困難なら次候補を優先』
その文字を見た白河さんは、長いこと黙っていた。
「わたしが一人で行けば、先輩たちには何もしないって、昨日、言っていましたよね」
「うん」
俺は答えた。
「でも、わたしのあとにも、誰かを探せるんですね」
彼女は、自分の名前がある紙と、次の候補を探せという紙を並べた。
「わたしが隠れるだけでも、行くだけでも、終わらないんだ」
カズヤがペンのふたを閉じた。
「探す仕事ごと、止める。貸元に、もう頼めなくする」
誰も、簡単だとは言わなかった。
*
翌日の昼前、カズヤが妙な顔で一枚の紙を持ち上げた。
「俺の名前がある」
鑑定原票、と書かれていた。俺の欄には、等倍返し。注意事項は、傷を与えず拘束すること。白河ゆきに接近させないこと。その下に、佐倉カズヤ。割符。
「……わりふ、か」
カズヤが声に出して読んだ。触れた一人と、自分を一度だけ入れ替える。同じ世界の中で、二人とも立てる場所へ。相手が見えていて、十メートル以内であること。
新しい人に印を付ければ、前の印は消える。動かない物へ縛られた状態では使えない、とも書いてあった。
傷を動かす、とも、治す、とも書かれていなかった。
「俺たちが試したのと、同じだ」
カズヤの指が、下の指示へ移った。
『当方への接触を避ける。拘束時は両手と視界を押さえること』
記録された日付は、土曜日だった。相談の部屋へ行った日。カズヤが初めて力を使ったのは、その翌日だ。
「握手、しなかったよな」
カズヤが言った。俺も覚えていた。貸元はカズヤの手を取らなかった。あのときには、もう読めていたのだ。
カズヤが何も持っていないと思っていた力の、名前も、使い方も。
「教える気、なかったんだな」
カズヤは紙を机へ戻した。怒鳴りはしなかった。右の手のひらを開き、閉じた。そこに今、印はない。それでも、もうこすって消そうとはしなかった。
契約が続いているのは、長谷川、岸本、藤沢の三人だった。片桐さんは、終わった契約の欄にいる。日付は、俺たちが相談室へ行った土曜日。昔の契約を数えなければ、今は三人だけだ。
「この人たちを遠くへ連れてっても、傷は移る」
カズヤが言った。
「貸元に、残ってる傷を引き取らせる。それから、三人とも契約を切る。片桐さんにやったのと同じ順番だ」
「一人だけやめても、残った二人へ送れますよね」
白河さんが聞く。
「だから、全員だ」
やるべきことは決まった。全員の傷を戻し、全員の契約を切る。できるかどうかは、まだ分からない。でも、カズヤはそこを迷っていなかった。
休憩の時間になって、白河さんが窓を少し開けた。風で紙が浮き、俺はあわてて押さえた。
「すみません」
「大丈夫。……資料、見てないときまで、下ばっか向いてた」
俺が言うと、白河さんは窓の外を見た。俺も、隣に立った。
「向こうに、アイリっていう子がいたんだ」
名前は、前にも話した。それでも、ちゃんと口にするには息が要った。
「大事だった。今も、たぶん、何にも終わってない」
白河さんは、しばらく黙っていた。忘れたほうがいいとも、会えるといいですねとも言わなかった。
「その人のこと、話したくなったら、聞きます」
それから、俺のほうを向いた。
「でも、わたしの話も聞いてください」
「うん」
「今日は、帰ったら何をしたいか、でもいいので」
帰る。どこかへ逃げ込むのではなく、学校へ行って、家へ帰る。
「……普通に、二時間くらい寝坊したい」
「学校は、行くんですよね?」
「じゃあ、休日に」
白河さんが小さく笑った。
「わたしは、約束して出かけたいです。逃げるためじゃなくて」
俺は、すぐに返事ができなかった。窓の外にいたはずの視線が、いつの間にか彼女へ戻っていた。
「まずは、ちゃんと帰ろう」
それだけ言うと、白河さんはうなずいた。
「はい。そのあとで、お願いします」
窓を閉めたとき、机の向こうでカズヤが言った。
「俺、ミタチーが羨ましかったんだわ」
セツナは、温かい飲み物の紙コップを両手で包んでいた。
「力のことッスか」
「向こうから持って帰ったもんが、ちゃんとあるの。俺にも何かあれば、ってさ」
「ある前から、助かったッスよ」
セツナが即答した。カズヤが彼女を見る。
「日曜も、工場も。カズヤ氏の言った所に、ちゃんと出口があったッス」
カズヤは、しばらく紙をそろえていた。端は、もうそろっていた。
「……次も、見とく」
「一人で、じゃなくていいッス」
その返事を聞いて、カズヤが顔を上げた。俺は窓の留め金を、少し丁寧に閉めた。
翌日は、記録を調べてくれている人へ話をしに行く。資料のコピーは、もう送ってある。セツナのスマホに残る指示と、四人で確かめた日時も、直接見てもらいたい。終わったら、新しく用意してもらった部屋へ移る。カズヤが地図を開いた。
「表通りから行く。人のいない近道は使わない。後ろも別の車から見てもらう」
セツナが地図へ身を寄せた。
「この角は、止まると後ろが見えなくなるッス」
「じゃあ、一つ先で曲がろう」
二人の指が、同じ道をたどる。カズヤは最後に、その道を自分のスマホへ保存した。今度も出口を見つけようとしていた。
俺も、それを信じていた。




