第26話 迎えの車
火曜日、俺は車のシートベルトを引くのに失敗した。腕が上がらないわけじゃない。胸の前に帯を通そうとしたところで、昨日の赤い鉄板が頭に浮かんだ。
「ゆっくりでいいです」
白河さんが右隣で待ってくれた。金具がはまる音を聞き、息を吐く。前の席のカズヤが、岡部さんへ出発を頼んだ。左隣のセツナは、包帯の腕をひざに載せている。病院で傷を診てもらい、そのあと別の部屋へ移る。今日は、その予定だった。
*
部屋の鍵を受け取る待ち合わせは、小さな貸し事務所の前だった。岡部さんは脇の駐車場へ車を入れた。奥の出口からは、一台の車が別の通りへ出ていく。事務所へは、手前の金網の戸を抜けたほうが近いという。
「ここで待ってる。帰りは、この戸を戻ってくればいい」
岡部さんにうなずき、俺たち四人は戸を出た。背後が駐車場。数歩先の表通りには、白い送迎車が止まっていた。
開いた後部座席の戸で、女の人が手を振る。
「白河ゆきちゃんね。あたしは百合子。乗りなさい」
服には、大きな花の柄。耳元で小さな輪が揺れる。吸いかけの煙草を携帯灰皿へ押し込む動作が、妙に手慣れていた。白河さんは立ち止まった。
「迎えは、お願いしていません」
「貸元からよ。あたしの車なら、ゆっくり足を伸ばせるわ」
カズヤがスマホを上げた。
「岡部さん、そのまま待ってて。貸元の車がいる」
百合子さんの眉が、少し下がった。
「そんな顔しないの。ゆきちゃんを連れていくだけ。あんたたち三人には、何もしないって話よ」
セツナが白河さんの前へ出る。
「部屋の紹介を頼んだ先に、連絡したんスか」
「車を出せる人を探してたでしょう。あの人の世話になってるの、あんただけじゃないのよ」
次の部屋まで知られたかは、分からない。ただ、この待ち合わせは知られていた。白河さんがセツナの肩越しに言った。
「行きません。貸元には、もう会いたくありません」
百合子さんの右手が、車の戸へ掛かった。普通の手だ。長く整えた爪も、指輪も見える。その指が窓枠を包む。
鉄が、指の形にへこんだ。
「……分かってもらえるまで、話すつもりだったんだけどね」
手を離しても、五つのくぼみは戻らなかった。
俺は白河さんと送迎車の間へ入った。
「分かってもらうって、断れる話でしょ」
「子どもを危ない所へ置いておけないのよ」
「危ない所へ落とそうとしたの、貸元です」
「助けるためだったんでしょう」
胸の奥が冷えた。百合子さんは、俺の顔を見ていた。ちゃんと見て、説得しようとしていた。
「あたしの店には、帰る家もない子がいるの。貸元は、その子の部屋を用意してくれたわ。今あるものだけじゃ足りない。もう二度と誰にも脅かされないようにしたいのよ」
「そのために、この人を連れていくんですか」
「皆が助かる話なの。今は嫌でも、来なさい」
右手が、俺の胸元をつかんだ。昨日破れたものとは違うシャツ。のどのほうへ布が寄る。
「百合子氏、手を離すッス!」
セツナの声に、俺も指を外そうとした。百合子さんの右手が服を放し、俺の右前腕をつかみ直す。
指の間で袖が細くなった。骨まで、細くなった。
「っ、あ――」
俺の右腕の骨が折れ、同じ傷が百合子さんへ返った。彼女の右前腕も変な角度に曲がり、指が開く。二人の声が、重なった。
俺の腕は肩につながったまま、ひじから先がだらりと下がった。骨はすぐ戻った。痛みのせいで、持ち上げられない。
百合子さんは送迎車へ背中をぶつけた。左手で右腕を支えようとして、触れる手前で止まる。震えた指が、空中に浮いていた。
「百合子氏の力は、万力ッス。手でつかんだ物を――」
セツナが口を閉じた。説明は、もう要らなかった。百合子さんの額に汗が浮き、唇から血の気が消えていく。
「あんた、何を……」
息が続かない。白河さんがスマホを出した。
「救急車、呼びます」
「必要ありません。車はこちらで用意しています」
事務所の入口から、貸元が出てきた。
貸元の後ろに、痩せた男の人がいた。左手首には、黒い輪。もう一人、紺の上着の男が貸元の脇を抜け、俺たちの来た金網の戸へ向かった。
「長谷川様は、入口のそばでお待ちください」
痩せた人がうなずく。俺は白河さんへ顔を向けた。
「車へ戻ろう」
送迎車に背を向けた。その腕を、貸元が取る。素手で俺の左手首をつかみ、爪を食い込ませた。皮膚が熱くなる。
傷が消えた。貸元の左手首へ、同じ短い赤い線が浮いた。その線も、すぐ消える。
「痛っ……」
長谷川さんが、左手首を押さえた。黒い輪のすぐそばに、赤い線がある。指の隙間から、一滴の血が落ちた。
俺は動けなくなった。貸元で終わるはずの傷が、別の人へ移っている。
「離してください」
「立ち止まっていただければ、結構です」
貸元が手を離した。その向こうで、紺の上着の男が金網戸へ鎖を巻いていた。留め具が鳴る。来た道が、閉じられた。
「先に、この腕……」
車にもたれた百合子さんが、貸元を呼んだ。
「病院へお送りしましょう」
「あんたなら、すぐに――」
「今、長谷川様たちに骨折を引き受けていただくことはできません。予定のときに、動ける状態でいていただく必要があります」
貸元は彼女の腕を見た。見ただけだった。百合子さんの口元が曲がる。
「……店のほうは、約束どおりなんでしょうね」
「もちろんです」
その返事で、彼女は口を閉じた。
カズヤが長谷川さんを呼んだ。
「こっちへ来て。そこにいたら、また傷を移される。俺と場所を替えられるから、あの戸の前まで。傷には触らない」
長谷川さんは貸元を見た。貸元は、何も言わない。
カズヤが近づき、自分の右手を出した。長谷川さんが無傷の右手を伸ばす。触れ合った手に、紙片の印が浮いた。
カズヤが金網の戸まで下がった。鎖を掛け終えた男が振り向く。追いつかれる前に、カズヤは六メートル先の長谷川さんを見た。右手の印を、自分の左手で覆う。
戸の前に、長谷川さんが立っていた。傷を押さえる左手は、そのまま。黒い輪も消えていない。カズヤは貸元のそば、事務所の入口へ移っていた。
「こっちの車で、病院へ行けます」
白河さんが長谷川さんを呼ぶ。貸元は声を高くしなかった。
「契約を続けるおつもりがないのでしたら、部屋と生活費の援助は、今月で終わりになります」
長谷川さんの足が止まった。
「住む所は、別に探せるから」
カズヤが言う。
「……すぐに、ですか」
返事が、出なかった。長谷川さんは白河さんへ頭を下げ、自分の足で貸元の後ろへ戻っていく。
紺の上着の男が、貸元とカズヤの間へ戻った。カズヤが横へ動けば、男もついてくる。もう貸元に触れさせないつもりだ。両手を、じっと見張っていた。
「ミタチー氏。帰りの戸、開けられるッスか」
セツナが低く言った。俺は鎖を見た。巻かれているのは、戸を留める細い鉄の棒。
右腕を自分の腹へ抱え、俺は戸へ下がった。
「カズヤ氏。白河氏と、戸へ」
カズヤが身をひるがえした。男が肩へ手を伸ばす。セツナは右手を男の目の前へ上げた。視線がそれた隙に腕の外へ入り、ひじを押して壁へ向ける。左腕を使えない分、足を深く踏み込んだ。男の足がもつれた。
「今ッス!」
カズヤが白河さんを連れ、俺の後ろへ来た。俺は鉄の棒へ、右足を叩きつける。
足の指が潰れた。声を歯の間で止める。当たった部分だけ、棒が折れた。
カズヤが折れ口から鎖を抜き、戸を引き開ける。向こうでは、岡部さんが車の戸を開けて待っていた。
「長谷川さん! 一緒に!」
白河さんが振り返る。長谷川さんは血のついた左腕を胸へ抱き、その場に立っていた。足は、動かない。
俺たちは戸を抜けた。車へ乗り込み、最後にセツナが飛び込む。カズヤが車の戸を閉めた。岡部さんは表通りへ戻らず、駐車場の奥にある車用の出口へ走り出した。
カズヤはすぐ外へ連絡を取り、待ち合わせも、次の部屋も変えてもらった。
俺は右腕を、自分のひざへ乗せていた。骨はもう折れていない。左手首にも、傷はない。でも、長谷川さんの腕には、俺から返った傷が残っている。
「貸元を殴れば、あの人が傷つくのか」
俺が言うと、カズヤがスマホを下ろした。
「貸元に殴られても、だ」
痛いのが俺だけなら、耐えられる。そう思いたかった。けれど貸元は爪を食い込ませただけで、別の人へ傷を送った。もう、俺だけでは済まない。




