第25話 二百トン
拳の底に、ドアの取っ手が残っていた。赤い乗用車のドアを、何枚もの鉄板へ溶接したものだ。窓は潰れ、取っ手だけが斜めに飛び出している。その赤い板のすぐ上に、手首の軸を支える金具があった。
「三田翔。最後に確認する。白河ゆきを、連れてくるか」
二階の踊り場から、大橋が言った。
「来させない」
俺は答えた。声まで震えていたら、嫌だと思った。震えていた。
「ならば、動けなくする。お前の損失は、回復する」
操作器が傾いた。空が、なくなった。
頭へ鉄が当たった。首が押され、ひざが折れる。尻が地面へ落ちた瞬間、拳の底が俺を押し倒した。背中の下は、コンクリート。まだ、下りてくる。
胸から音がした。息を吐こうとした。吐く場所がなかった。
赤い板が、俺の肩と胸の幅だけへこんだ。返った傷に、裏の金具が曲がる。太い軸へ食い込んだ。巨人の手首が鳴り、拳が傾いた。
右脇から、光が差す。
「今、引くッス!」
セツナの右手が、俺の右脇の下へ入った。上着をつかみ、腰を後ろへ落とす。靴底が地面をこすった。俺の体が、門へ向かって引きずられる。背中の布が破れた。
拳を抜けた。空気が、のどへ飛び込んできた。
起き上がれない。俺は右ひじで地面を押した。少しでも、彼女と同じほうへ。セツナがもう一度引く。そのすぐ後ろで、巨人の右手首が折れた。
拳が地面に残り、ひじが逆へ曲がった。奥へ乗り出した肩まで落ちる。大橋が操作器を引いても、巨人のひざは沈んだ。踏ん張った脚の棒も、重さに負けて曲がっていく。
「こっちまで下がれ!」
カズヤは門脇の整備通路から出ていた。すりむけた右手を、俺たちへ振っている。小松さんも、その向こうの門柱の外にいた。
セツナが俺を引く。俺の右ひじは、もう地面を押せない。
巨人の影が、俺たちから遠ざかった。廃車の山が鉄の胴を受ける。車が一台ずつ潰れた。最後に、空の運転席が横倒しになった。
門をふさいでいた鉄の足が、倒れた胴に引かれて横へずれた。まだ、かすかに動く。セツナが俺を門脇まで引き、上着から手を放した。彼女のひざも崩れる。地面へついた右手が、砂の上を滑った。
俺はまだ、息を一度に吸えなかった。
胃から熱いものが上がり、顔を横へ向けた。朝のパンも水も、地面に吐いた。せきをするたび、胸が痛む。つぶれた胸も腹も、もう戻っているはずなのに。なんで、まだこんなに。
「ミタチー、そのまま横向いてろ」
カズヤが背中を支えてくれた。整備通路ですった右手から、血がにじんでいた。
「……セツナ」
「いるッス。大橋氏を見てるッス」
彼女は俺に背を向け、二階を見張っていた。大橋の両手は、まだ操作器から離れていない。
「右足の駆動は残っている。残っているはずだ」
男が操作器を振る。鉄の足が床をひとこすりした。セツナが、カズヤを右手で制する。
「まだ、そこを通らないでほしいッス」
足が止まった。もう、何の音もしない。
小松さんが鉄板の脇を抜けて戻り、事務所脇の低い四輪台車を引いてきた。荷台に木の板を渡すと、俺が寝られる長さになった。
「乗せられるか」
小松さんがカズヤへ聞く。
「セツナ。動いたら言ってくれ」
「見てるッス」
カズヤは俺の右肩へ腕を回した。小松さんがひざの裏を持つ。持ち上げられただけで、声が漏れた。二人の手が、途中で止まる。
「……ごめん。続けて。ゆっくり」
治るから乱暴にしていい、とは言えなかった。小松さんがうなずき、カズヤと目を合わせてから、俺を板の上へ寝かせる。
二階で、操作器が手すりにぶつかった。
「これが動かなければ、月末に……」
大橋の声が、急に小さくなった。セツナは大橋から目を離さない。
「大橋氏。もう、動かさないでほしいッス」
「ドクター・オーバーキルの設計に、問題はない。荷重のかかる位置が――」
言い切る前に、男は踊り場の奥へ下がった。二階の戸が開き、その姿を隠す。追う人は、いなかった。
カズヤが台車を引く。小松さんが反対側を支え、門へ向かった。セツナは最後に下がり、止まった鉄の足を見続けていた。
俺は空を見た。動かない、青い空。それだけなのに、涙が出た。
*
外で岡部さんが救急の人へ手を振った。小松さんは警察官に名乗り、ファイルを見せる。誰が設備を手配したのか、自分から話し始めた。
預ける前に、カズヤが残りのページを全部撮った。スマホを持つ右手には、すった傷がある。セツナが水のボトルを差し出した。
俺は、その水が赤くなって流れるところまでしか見ていない。あとは、名前を呼ばれるたびに返事をした。ここが現代だと分かるものを、一つずつ。
*
診察を終え、白河さんの待つ部屋へ着いたころには、窓が黒くなっていた。セツナも病院で、医師に左前腕の傷を確かめてもらった。巻き直された包帯を濡らさないよう、廊下で左腕を胸の前に抱いている。
俺は部屋の長椅子へ横になった。座るより、そのほうが楽だった。白河さんは、俺の足元に荷物を置かなかった。通れる場所を空けてから、椅子を一脚だけ近づけた。
「資料、全部届きました。送った先にも、同じものがあると確かめました」
「ありがとう」
「読めなかったページは、カズヤ先輩に撮り直してもらいました。だから、今は見なくていいです」
俺は目を閉じかけた。白河さんの手が近づいて、途中で止まった。
「どこを支えれば、楽ですか」
なんでもない。そう返せば、心配をかけずに済む。でも、それじゃ白河さんは、どこへ手を置けばいいか分からない。
「背中は、今は触らないでほしい」
彼女がうなずいた。
「俺の右手だけ。にぎってて、もらえる?」
白河さんの指が、俺の右手へ触れた。爪を立てず、引っ張らず、手のひらを合わせる。
「このくらいで?」
「うん」
俺は初めて、息を長く吐いた。にぎられた手が痛くないことを、体が少し遅れて理解した。
「怖かった」
「はい」
「二百トンって、先に言われても、どうすればいいか分からなかった」
白河さんは笑わなかった。俺の指を、少しだけにぎり直した。
「次は、先に教えてください。そういう所へ入ろうと思ったとき」
「止める?」
「別の方法がないか、考えます。わたしが分からなくても、誰かには聞けます」
そうだな、と答えた。傷が治るからって、危ないことを一人で決めていいわけじゃない。
廊下から、カズヤの声がした。
「その手も洗えよ。砂ついてる」
セツナの右手のことだった。俺を引きずり出したとき、地面ですったらしい。
「このくらいなら、平気ッス」
「痛いかどうかを聞いてんだわ」
返事まで、少し間があった。
「……しみるッス」
「じゃあ、ゆっくりでいい」
水の流れる音がした。白河さんが、俺の手を離そうかと目で聞いた。俺は首を横に振った。もう少しだけ、このままがよかった。
カズヤが部屋へ戻ったのは、俺の呼吸が落ち着いてからだった。スマホを、長椅子の脇の机へ置く。
「これだけ、見せておく」
病院への送金の控えだった。払った人の名前は、金原総司。機械の部品代でも電気代でもない。次に振り込むのは、月の最後の日だ。大橋の言いかけた声を思い出す。これが動かなければ、月末に。
俺は画面へ手を伸ばさなかった。白河さんの手を、自分からにぎったままでいた。




