第23話 四人分の朝
戻ると、白河さんがカズヤのいた場所に立っていた。見間違いかと思い、戸をにぎり直す。月曜の朝。セツナが泊めてもらった、古いビルの二階だ。机を壁へ寄せれば、四人が立てるだけの広さがある。もとは仕事に使っていた部屋らしい。
俺は一階まで下りて、父さんとの電話を終えたところだった。学校への連絡も、してもらっている。夕方に帰る時刻は、まだ答えられなかった。
「……今、やった?」
「二回目」
窓際にいたカズヤが、右手を開いた。
「先輩が電話しているあいだにも、入れ替われました」
白河さんは、何も落としていないか確かめるみたいに、自分の足元を見た。
「気持ち悪くない?」
「大丈夫です。でも、こっちに立っていたのに、って思います」
「俺も思うわ」
「使ってる本人が?」
俺が聞くと、カズヤは少し笑ってから、白河さんへ手を伸ばした。
「もう一回いい? 今度はミタチーにも見せたい」
「はい」
白河さんが右手を出す。カズヤは、自分の右手でその手をにぎった。二人が手を離すと、それぞれの右の手のひらに、薄茶色の印が残った。細長い紙を、ぎざぎざに破ったような形だ。
カズヤが窓際へ戻る。白河さんは入口に近い床へ立ったまま、カズヤを見ていた。間は四メートルほど。机にも椅子にも、ぶつからない。
「やるぞ」
カズヤが白河さんを見たまま、右手の印を自分の左手で覆った。次の瞬間、窓際にいたのは白河さんだ。カズヤは入口側に立っている。走ったんじゃない。二人の間の床を、誰も踏んでいなかった。
カズヤは両手を離した。右の手のひらには、もう印がない。
「……できた」
彼の声が、少しかすれた。昨日、セツナを逃がしたときは、それどころではなかったのだと思う。
「持って帰ってたんだな」
俺が言うと、カズヤは右手を見たまま、うん、と答えた。長い返事はしなかった。
*
今朝持ってきたメジャーを、カズヤが廊下へ伸ばした。使っていない部屋が並ぶ、まっすぐな廊下だ。両端を見て、人が通らないことを確かめてからテープを貼る。
白河さんが十メートルの線に立つと、入れ替われた。両端へ戻り、握手をし直す。今度は白河さんが、線から半歩だけ下がった。
カズヤが自分の右手の印に左手を重ねても、何も起きなかった。
「届かねえ」
「戻りますね」
白河さんがテープの所へ戻ると、二人の位置が替わった。距離が近くても、部屋の戸を閉めて白河さんが見えなくなると使えなかった。戸を開け、カズヤ自身が彼女の姿を確かめると使えた。俺とも試した。窓際へ移った瞬間、左腕に痛みが走った。昨日、台車に挟ませた腕だ。思わず右手で支える。
「痛いのは、俺のままか」
「俺には何も来てねえ」
カズヤへ痛みが移ったわけじゃないし、傷も消えなかった。次に、白河さんに印を付けたまま、俺の肩へ触れて入れ替わろうとしてもらった。彼女の手の印が消える。相手は一人だけだ。印を二人ぶん残したり、俺と白河さんだけを交換したりはできなかった。
「カズヤが必ず一人ぶん、危ないほうへ行くんだな」
俺が言うと、窓のそばで座っていたセツナが顔を上げた。左腕は白い包帯の中にある。今朝は机の下にかばんを置き、その上で腕を休ませていた。
「行った先から、出る道もいるッス。昨日みたいに」
「分かってる。これからも先に見る」
カズヤは、床へ貼ったテープを剥がし始めた。俺は空いた紙コップを持って、流しへ行った。
「これも、流しの中と入れ替えられないのか」
「人しか駄目だった。しかも俺が流しに入ることになるだろ」
「皿洗いは速そう」
「そこまで近寄らなくても洗えるわ」
笑ったあと、カズヤは自分の右手へ、もう一度目を落とした。今度は、こすらなかった。
*
朝食の袋を開くと、セツナが立とうとした。
「自分が用意するッス。片づけも、見張りも」
「座ってていいって。腕、使うなよ」
カズヤがパンの袋を机へ置いた。
「でも、泊めてもらった分は――」
「昨日は寝た?」
俺が聞くと、セツナは一度うなずいた。
「寝たッス。朝は、ちょっと早く起きたッスけど」
部屋の隅で、毛布がきれいに畳まれていた。窓から一番よく見える位置に、椅子が一つ出ている。カズヤもその椅子を見た。
「外を見るなら、俺も半分やる。昨日はお前が最後まで戸を押さえた。今日はずっと、お前だけでやるなよ」
「半分で、いいッスか」
「俺が寝てたら起こせばいいだろ」
セツナは少し考え、窓際の椅子の隣へ、もう一脚を寄せた。右手だけで、ゆっくり。カズヤは何も言わず、椅子の向きを窓へそろえた。
白河さんは、俺の前へバターロールを置いた。
「今日はコーヒー味じゃないです」
「助かる」
「でも、こっちのジャムも、おいしいんですけど」
彼女が見せた小さな容器を、俺は見た。
「まずバターだけで」
「分かりました。残ったら、わたしがもらいます」
「まだ残してない」
白河さんは、自分のパンにもバターを塗り始めた。俺は包みを押さえる左手に力を入れすぎないようにして、パンを一つ取り出した。朝ご飯を食べながら、昨日の続きが話せる。それだけで、昨日の夜よりは先へ来た気がした。
食べ終わってから、セツナのスマホを開いた。カズヤが並べたのは、白河さんの名前が入った連絡だ。俺は日付を確かめ、セツナに何を頼まれたか聞く。あとを追うこと、会うこと、移動先を調べること。次の画面にも、似た依頼があった。今度は、別の人の名前だった。
「この人も、鍵なのか」
「まだ分からないッス。事故で助けられた人が、今どこにいるか調べる依頼ッス。最後に貸元氏が会って、確かめるッス」
カズヤが、その連絡の送信時刻を指した。白河さんの面会が決まったあとだった。
「見つけたから終わり、じゃねえんだ」
俺は、隣にいる白河さんを見た。彼女は画面を見たまま、バッグのベルトを両手で押さえていた。
「わたしが隠れても、別の人を探すんですね」
セツナは、はい、と答えた。
「自分も、その連絡を回してたッス」
声が小さくなった。カズヤは画面を閉じなかった。
「だったら、どこへ回したかも教えてくれ。次の人を見つける前に、止めたい」
セツナがスマホを寄せ、連絡先を開いた。すぐ信用できたわけじゃない。でも今は、やってきたことを俺たちの前へ出している。自分たちで確かめられる形にして。
俺も、痛くないふりをしている場合ではなかった。
「白河さんを、次の場所へ逃がす。それだけじゃ、終われないんだな」
「逃げる場所は、いるけどな」
カズヤが答えた。
「そのうえで、命令出してるやつを止める」
白河さんは、ゆっくりベルトから手を離した。
「わたしにも、できることを決めてください。危ない所へ行くこと以外で」
今度は、俺もすぐに返事を決めなかった。
戸倉の力については、セツナが名前を知っていた。
「【戸締まり】。触った錠を、一つだけ。二十メートル以内なら、見えてなくても掛けたり外したりできるッス」
「だから、出口の錠に触ったら、防火戸の音が止まったのか」
カズヤが昨日の動画を戻した。台車の向こうで、戸倉が人用の戸に指を添えている。
「戸を動かす力ではないんだな」
俺が尋ねると、セツナはうなずいた。
「だから、昨日の車輪止めが効いたッス。閉じきれなければ、錠も枠へ入らないッス」
カズヤがメモを取った。別の錠へ触れれば、前の錠をいじる力は消える。いくらでも出口をふさげるわけじゃない。それでも、白河さんの腕に残った赤い跡は、消えなかった。
机の端で、カズヤのスマホが震えた。連絡網の人からだった。彼は少し読んで、セツナへ画面を向けた。
「小松って人、知ってるか」
「工場の、記録の人ッス。荷物を受け取るとき、何度か」
「昨日の設備の配送控えを、外へ出したいって。自分も工場を出たいそうだ」
カズヤは、送られてきた写真を開いた。灰色のファイル。端に、旧商業施設の名前が印刷された伝票が挟んであった。
俺は机へ右手をついた。
「昨日の、白河さんが立ってた板?」
「あれを運んだ記録らしい。受け取り場所は、工場の門のすぐ横の事務所。作業が終わる夕方なら、人が減るって」
セツナが写真を指で広げた。
「この机、見たことあるッス。ここなら、門から近いッス」
カズヤは返事を打つ前に、俺たちを見た。警察へも場所と時刻を伝え、知り合いには外で車を待たせてもらう。中へ入っても、するのは資料の受け取りだけ。小松さんと一緒に出てくる。
白河さんは、母親にも伝えた別の部屋へ、先に移ってもらうことになった。
「紙の写真は、わたしに送ってください。読めるか確かめて、外にも同じものを渡します」
白河さんが言った。
「一枚なくしたら、全部分からなくなるのは、嫌です」
うなずいた俺の横で、カズヤは門までの道も撮ってもらっていた。紙だけじゃない。小松さんも連れ出すのだ。かばんには手袋と短いロープも入れる。人を引くにも、戸を開けたままにするにも使えるという。
次に届いた写真を見て、カズヤの指が止まった。広い作業場の奥に、廃車が積まれていた。その山の上に、トラックの運転席がある。人が普通に乗り込める高さではなかった。
「……あれ、何に使うんだ」
俺の問いに、セツナもすぐには答えなかった。




