第22話 一秒先の、その先
カズヤが、入口から来た作業員の手をくぐった。台車へ走り、車輪の前から黄色いゴムを拾う。男の指が襟をかすめた。カズヤは台車の角を回り、俺の隣へ戻ってきた。
「開いたら、押しっぱなしな。せーの!」
カズヤが防火戸のつまみを回し、俺は肩を押し込んだ。錠が引っ込む。戸と枠のあいだに、指一本ぶんの隙間ができた。
そこへ、カズヤがゴムを蹴り込んだ。
かちん。戸倉が錠を掛け直す。飛び出した金具は、ずれた戸枠を打った。穴に入らない。
「行け!」
俺は押した。開いた戸の下へ、三角形のゴムが深く入る。手を離しても、戸は閉まらなかった。
短い通路を抜けた。セツナが男の手を避け、脇へ踏み込む。肩で押された男がよろめいた。彼女は追わずに、白河さんの前へ戻った。傷ついた左腕は、胸へ抱えたままだ。
「白河さん。帰ろう。……走れる?」
差し出した俺の手を、彼女がにぎった。体の向きを変えたところで、足がもつれる。俺は引っ張るのをやめ、彼女の隣へ寄った。
「……ゆっくりなら」
「分かった」
開いた防火戸で、カズヤが待っていた。俺は白河さんと通路を戻る。背後で貸元が、葛西さん、と呼んだ。セツナは答えず、作業員の腕を右のひじで外した。
「後ろ、段差!」
カズヤの声に、セツナが足を上げる。かかとが防火戸の縁へ引っ掛かった。カズヤは自分の右手で、彼女の無傷の右手を取った。
二人の指のあいだに、薄い色が浮いた。破いた紙のような形。離れたカズヤの手のひらと、セツナの右手に、その半分ずつが残っている。
セツナは気づかず、追ってくる男へ向き直った。
「自分が最後でいいッス」
「最後にはする。残してくとは言ってねえぞ」
カズヤが俺の背中を押す。俺たちは、来た管理通路を出口へ急いだ。
人用の戸の前に、戸倉がいた。錠へ指を当て、手を引いてひねる。金具が鳴った。後ろの防火戸からは、もう音がしない。
「急がなくていいよ。怪我をした人がいるから、先に手当てを――」
「ここでは、してもらいません」
白河さんが、戸倉を見た。
「わたしたち、帰ります。開けてください」
戸倉は、助けに行く道を閉じた人だ。白河さんは、もう手当ての話を待たなかった。
隣の搬入口で、台車が動いた。
車輪止めを取った台車だった。入口側の作業員が、鉄板を積んだまま押してくる。荷台の下では、二本の支柱が交差して台を支えていた。鉄板の束には、ベルトが掛かっている。
カズヤが白河さんを通路の壁へ寄せた。セツナは俺たちの後ろで、追ってきたもう一人を止めていた。戸倉は出口から動かない。
交差した支柱の、荷台の枠につながるところを指した。細いつなぎ目だ。
「ここを折る。台が傾くから、下がって」
「おい、ミタチー」
カズヤが俺の袖をつかむ。その隣で、白河さんが俺を見ていた。俺は顔を逸らさなかった。
「……怖い。けど、台車が来たら、出口まで押し戻される」
白河さんが、俺の袖から手を離した。
「離れます。だから、終わったら呼んでください」
俺はうなずいた。カズヤが彼女を連れ、台車の進む道から下がる。セツナも作業員を牽制しながら、壁際へ退いた。
鉄板の角が近づく。腰を落とし、荷台の下へ左腕を入れた。支柱のつなぎ目を、前腕で受ける。ひじが壁まで押され、腕が挟まった。
嫌だ。もう、知っている。
「――っ、あ!」
骨が曲がった。戻った。声は止まらなかった。
俺の腕へ食い込んだ鉄が裂ける。支柱の端が折れ、圧迫が緩んだ。俺は腕を抜き、床へ尻もちをついた。
荷台の片側が落ち、鉄板の束が傾いた。男が持ち手を離す。台車ごと搬入口の脇へ倒れ、鉄板の角が壁を削って床を打った。シャッターの左端へ斜めに寄りかかり、やっと止まる。
左腕を抱えた。折れた形は、もう残っていない。なのに、骨の中から痛む。
「ミタチー氏!」
「出口、先に……!」
倒れた荷を避けた作業員が、まだ向こうで足を止めている。セツナはその隙に戸倉へ踏み込んだ。伸びてきた手を右手で払い、肩を壁へ押しつける。振り返るより先に、出口のつまみを回した。
右肩で戸を押す。錠が掛かり直す音は、外れた戸枠を叩いた。
「今ッス!」
外の風が入った。カズヤが俺の右肩を支え、立たせてくれた。その足が、一瞬止まる。
台車の脇からも、外の光が見えた。鉄板は左側で止まり、搬入口の右端が空いている。低いシャッターの下でも、人一人なら這って抜けられる。
「……そこも、通れるな」
カズヤはそれだけ言い、俺を人用の戸へ送った。白河さんが先に出て、俺の右ひじを支える。駐車場の床へ足がついた。奥には、屋外階段の表示。
カズヤも出てきた。セツナだけが、まだ戸の内側にいる。
追ってきた作業員が、セツナの右腕へ手を伸ばした。彼女がひじを引くと、戸が閉まりかける。左肩を差し込み、体で押し返した。傷のある腕まで、戸へ押しつけられた。
セツナの顔が歪む。
「もう出ろ!」
俺が叫んだ。作業員の体が戸口へ寄る。セツナは次の手を避けたが、外へ踏み出す場所がない。
戸から四メートルほど離れた所で、カズヤが右手を開いた。手のひらに、薄い紙片が見えた。開いた戸の向こうにも、セツナの右手が見える。同じ色の半分。
「カズヤ氏。先、行って――」
「お前が、こっち来い」
カズヤは、自分の左手を、自分の右の手のひらにある印へ重ねた。
俺の隣で、セツナがよろめいた。俺は右腕を伸ばす。彼女は一歩踏み出し、自分で止まった。左の袖は、赤いままだった。
カズヤは、戸の内側にいた。
「何だ、お前――」
男の手が来る。その下へ、カズヤは自分から伏せた。人用の戸が閉まる。彼は戸口から転がり、隣の搬入口へ滑り込んだ。
「カズヤ!」
俺が戻ろうとすると、セツナが右手で隣を指した。シャッターの下から、白い靴が出る。続いてひざ。カズヤが足を先にし、倒れた台車の脇を這ってきた。
セツナがしゃがみ、彼の手を右手で取った。
「頭、下げたままッス」
「下げてる。これ以上は、床だわ」
肩が抜けた。カズヤが外へ転がり出て、片ひざを立てる。セツナの手を借りて立ったとき、二人の手から印は消えていた。
「行くぞ」
今度は、四人で階段へ向かった。
振り返ると、搬入口の奥で、白い光が細くなっていた。線になり、消えた。向こうへ入った人は、一人もいない。
人用の戸が開いた。戸倉が、セツナを呼ぶ。
「葛西さん。そのまま出たら、部屋も仕事も戻せなくなるよ」
セツナの靴音が、一つ乱れた。白河さんが、彼女の隣へ寄る。セツナは階段の手すりを右手でつかんだ。
「部屋の鍵は、あとで返すッス」
俺たちは足を止めなかった。階段を下り始めてから、ようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。
*
施設を離れ、警察へ通報した。来た警察官へ、それぞれ何が起きたかを話す。カズヤは会場の動画と、前の日に録った約束の音声を渡した。迎えに来た父さんに、肩をつかまれた。殴られるかと、一瞬思った。
顔を近くで見られた。それだけで、謝る言葉が出た。白河さんも、迎えに来た母親へ同じように頭を下げていた。何をやめてほしいと言ったのか、どこから約束と違ったのかは、彼女が自分で話した。その場での事情説明を終え、俺たちは病院へ向かった。
傷を手当てしてもらったのは、セツナだ。左前腕を洗い、深い傷を治療して、包帯を巻いてもらった。俺と白河さんも診てもらう。彼女は腕とひざ、俺は傷の見えない左腕が痛いと伝えた。
病院を出るころには、外は暗かった。セツナが今夜泊まる場所を決めるため、親たちと一緒に小さな事務所へ移る。カズヤの知り合いが、貸してくれた場所だ。
親たちは、車や泊まり先の相談で隣の部屋へ移った。四人で手前の机を囲む。セツナは包帯の腕をひざへ載せていた。白から抜いたあと、傷は増えていない。でも、消えてもいない。俺の左腕は、見た目だけなら無事だった。
紙コップを持とうとすると、手が震えた。右へ持ち替えようとしたところへ、白河さんの手が伸びた。
「置いたまま、飲めませんか」
「そこまで首、伸びない」
「じゃあ、こっちで」
ストローの袋を破り、コップへ差してくれた。俺は、ありがとう、と言った。白河さんは椅子を寄せた。
「さっき、怖いって言ってくれたので、下がれました」
「普通、逆じゃない?」
ストローの曲がるところを、彼女が少しだけこっちへ向けた。
「黙ってされたら、止めに行ってたと思います。今度は、怖いことをしなくて済む方法も、一緒に考えたいです」
俺は返事をしてから、水を飲んだ。のどの奥まで、冷たかった。ストローから口を離すと、セツナの白い包帯が目に入った。
「最初に向こうへ行ったときも、ああいう入口が見えたのか」
俺が聞くと、セツナは首を横に振った。
「気づいたら、白い所にいたッス。帰りも、そうだったッス」
「俺も。行った先では、赤ん坊になってた。今日は、そんな感じじゃなかった」
セツナは包帯の先から出た指を、少し動かした。
「この腕のまま、中へ入ったッス。何かに切られたんじゃなくて、腕の中を無理に押し広げられるみたいで……。勝手に連れていかれる感じは、なかったッス」
カズヤが、俺とセツナを見た。
「最初の行き帰りとは、違うらしいな。もう一度渡るなら、今度は自分で、あの白い所を通るってことか」
すぐには誰も答えなかった。初めて渡ったときも、戻るときも、立ち止まったり引き返したりはできなかった。今日はセツナが入口の前に残っている。同じ白い場所でも、通り方は違うらしい。
「向こうが見えるからって、そのまま無事に歩いていけるわけじゃないんだな」
俺が言うと、セツナは左腕を抱え直した。
「確かめに戻るのは、嫌ッス」
「戻らなくていい」
俺は答えた。腕だけで、あんな傷になる。続きを試してくれとは、とても言えなかった。
セツナが、自分のスマホを机へ置いた。俺とカズヤは、画面を見た。俺の名前があった。
金曜日、ゲーセンへ来た時刻。カズヤと一緒にいたこと。看板を受けて、どこへ動いたか。その下には、貸元への送信済みの表示がある。
「これ、渡すッス。呼び出す前も、そのあとも、報告してたッス。連絡を取っていた先も、ここにあるッス」
カズヤは、すぐには触らなかった。
「見せていいところだけ、選んだのか」
「消してないッス。まだ信用できないなら、そのまま預けるッス」
カズヤがスマホを受け取った。画面を操作する前に、セツナを見た。
「保存する。話も、あとで確かめるぞ」
セツナはうなずき、俺へ向き直った。
「ゲーセンで、腕をつかんで、無理に連れていこうとしたッス。すみませんでした」
謝るときも、語尾は同じだった。自分の左腕を見た。目が止まったのは、骨が折れた所よりも手首に近い。ゲーセンで、セツナの爪が食い込んだ場所だ。
「まだ、分からないことが多すぎる」
「はいッス」
「だから、全部いいとは言えない。でも、白河さんを助けてくれたことは、ありがとう」
セツナは、少しだけ目を伏せた。白河さんがその隣で、姿勢を正した。
「わたしからも。手、離さないでくれて、ありがとうございました」
セツナは左腕へ目を落とした。右手の指を、一度開いた。
「離したら、落ちるのが見えたッス」
「一秒先に?」
俺が聞くと、彼女はうなずいた。
「自分が少し緩めた、その先ッス。全部のやり方が見えるわけじゃないッス」
「でも、あの人は、自分が受けるって言ってた」
セツナは、俺を見た。
「……はい。あの人なら、受け止められたのかもしれないッス。でも、白河氏は、嫌だって」
机の端で、カズヤの指が止まった。
「お前がこっちから行ったときも、誰かを助けたんだよな」
カズヤが聞くと、セツナは少し目を上げた。
「最初に、踏切で子どもを助けたときは、何も見えなかったッス。警報が鳴ってて、まだ中にいたから、引っ張っただけで」
「そのあと、向こうへ?」
「そうッス。剣を持つのも、逃げるのも、向こうで覚えたッス。迷ってると、次の命令まで生きていられなかったんで」
白河さんは、何も言わなかった。俺も、あの砦で何をしていたのかは聞かなかった。
「それで、あの人のところに?」
「帰ってから、貸元氏が仕事と部屋をくれたッス。頼まれたことをすれば、次の日もいられたんで。それでいいと、思ってたッス」
セツナは両手をひざへ下ろした。左腕を置くときだけ、息を止める。カズヤがスマホを見ると、貸元から通知が増えていた。
『依頼は終了します。お部屋のご利用も終了します。私物の受け渡しは、管理の者から連絡します』
丁寧な文面だった。カズヤが画面をセツナへ向けると、彼女は最後まで読んだ。返事は打たなかった。
「家族とか、泊めてくれる相手はいるか」
カズヤが聞いた。
「こっちに家族はいないッス。あの部屋を出たら、帰れる所もないッス」
セツナは画面を見たまま答えた。カズヤは、もう一台、自分のスマホを出した。
「じゃあ、今夜の場所から決めよう。寝る所まで、あいつに頼むことはねえわ」
今夜の泊まり先は、カズヤの知り合いが用意してくれた。俺たちも明日の朝、会いに行く。まだ事件も貸元のことも、話し終わっていない。記録をコピーすると、カズヤはセツナへスマホを返した。行き先を親たちにも伝え、帰る前に夕飯を買うことになった。
*
父さんたちは先に車へ戻った。俺たちは四人で、事務所の角にあるコンビニへ向かった。
「で。あれ、どうやったんだよ」
俺は歩きながら、カズヤの右手を見た。彼は、自分でも開いて見た。
「あいつの手、取っただろ。あのとき、代わりたいって思った」
「怪我を?」
「いや。後ろにいる役。ずっと一人でやらせてたから。印が二つになって、位置を替えられるって、分かった。どうして分かったかは、まだ説明できねえけど、別の出口を見といてよかったわ」
セツナは、半歩前で歩いていた。聞こえているはずだった。カズヤが手を閉じた。
「危ない使い方するなって、いつも俺に言ってるだろ」
俺が言うと、彼は半歩前を歩くセツナを見た。
「あのときは、待ってたら出てこれなかっただろ」
俺は言い返せなかった。コンビニの自動ドアが、音を立てて開いた。セツナが一瞬だけ足を止め、それから入った。誰も、閉め直さなかった。
カズヤは、弁当の棚へ直行した。俺が二人の後ろから行くと、セツナは弁当より先に、カズヤを見た。
「自分は、このあと何をすればいいッスか」
「飯、選べ」
「買い出しッスか。いくつ必要で――」
「お前が食うやつだよ。腹減ってねえなら、夜中に食える物でもいいし」
セツナの手が止まった。カズヤは棚へ向き直った。彼女は弁当の列を、端から見た。値札を見て、隣の段を見た。右手が、少し上がった。
「……あの、卵が載ってるやつ」
「二つあるぞ」
「半熟のほうッス」
「食いにくくねえ? 片手だろ」
「それが、いいッス」
カズヤは、もう一度棚を見た。セツナが選んだほうを、取った。白河さんが俺の袖を軽く引いた。
「先輩は?」
「箸を使わなくていいやつ」
「じゃあ、こっちですね」
彼女が指した先に、バターロールがあった。俺はうなずいて、右手で取った。会計を終え、外へ出る。駐車場の端で、待っていた父さんの車のライトが点いた。
カズヤは袋を持ち替えた。左の手には、自分の分。右の手には、セツナが選んだ弁当。
「次、何すればいいって聞くなら、先に食えよ」
「まだ、温かいッスか」
「今、温めたとこだわ」
セツナは、右の手を伸ばした。カズヤは袋を渡した。俺と白河さんのぶんを合わせて、袋は四つあった。その一つから、温めた弁当の匂いがした。




