第21話 手の届くところ
セツナの指が動いた。金曜も、電話の声にすぐ返事をしていた。俺を連れていくやり方を変えたのも、その相手へ確かめてからだ。命令を聞くときの顔だった。
今も、返事をするのかと思った。
彼女の右手が、少し開く。白河さんの体が下がった。
「セツナ!」
俺が名前を呼び終える前に、指が閉じた。セツナは白河さんの右腕を袖ごとつかみ、手首からひじのあたりまで抱え直した。貸元の手は、その下の宙に残っている。
「白河氏、自分を見るッス。左足を、壁の棒に載せて」
白河さんの靴が棒をかすめ、滑った。セツナの肩が前へ引かれる。
「葛西さん。私が受けます。そのために、ここにいるのです」
貸元は台の手すりへ腰を当て、白河さんへ手を伸ばしていた。やめてほしいと叫ばれても、引こうとしない。落ちてくるのを、まだ待っている。
俺は防火戸を押した。向こう側へ行けない。その手に落ちるために、白河さんはここへ来たんじゃない。
「白河氏は、やめてほしいって、言ったッス」
セツナが右足を手すりの根元へ押しつけた。
「途中で取りやめては、今日のことが無駄になります」
「聞いてたッス。昨日、自分も」
セツナは腰を床へ落とし、白河さんの腕を胸へ引いた。持ち上げるより先に、床の端へ寄せる。彼女のひざが、じりじり後ろへ動いた。
「足、届かな……」
「もう一回。棒の、少し右ッス」
白河さんが靴を上げた。壁をこすり、鉄の棒へ掛かる。
「ここ……?」
「押して!」
白河さんのひざが伸びた。セツナが足で踏ん張る。白河さんの左手が、床の縁へ届いた。彼女は指を掛け、自分の体を引き上げようとする。
セツナが後ろへ倒れ込んだ。白河さんの両ひざが、固定されたコンクリートへ載る。
その背後に、白い線が走った。
線が左右へ広がる。人が一人通れる入口になり、その奥にも白い空間が続いていた。俺は目を閉じそうになった。トラックも馬車も、もうないのに、あの色を覚えている。
「後ろ!」
俺が叫んだ。セツナは倒れた体を支えようとして、左腕を後ろへ伸ばしていた。ひじから先が、白へ入る。白河さんを抱えた肩が跳ねた。
「――っ!」
セツナが腕を引き抜いた。左の袖が赤い。入った腕が、白の中で傷ついていた。血が指を伝い、床へ落ちる。
彼女は右手で白河さんを押し、白い入口から離した。自分も右ひじで床を押して下がる。白河さんが二歩離れても、入口は開いたままだった。
「どうして……」
俺の横で、カズヤも白を見ていた。その奥にある、石の壁を。
「あそこ、知ってるッス。砦の、東側……」
セツナの声が聞こえた。灰色の石を積んだ壁に、細い窓が並んでいる。上だけ崩れた四角い塔。色の薄い旗。ここにある建物ではなかった。
俺が二度迷い込んだ白い場所の、その先が見えていた。けれど、セツナは消えない。血の流れる腕を抱え、こちらに座っている。
彼女の口が、続きを言おうとした。白河さんが咳き込む。セツナの顔が、すぐそちらへ戻った。
「白河氏。どこか、痛いッスか」
「腕と、ひざが。でも、立てます」
「そこの手すりをつかんで、下がってほしいッス」
白河さんが立った。ひざが震える。手すりに支えられ、白から遠ざかる。セツナも石の壁を一度だけ見て、反対へ足を出した。左腕の血は、止まらなかった。
「その腕はこちらで手当てします。白河様を、戸倉さんへ」
貸元はまだ台の上にいた。今度はセツナへ手を伸ばしている。セツナは白河さんの前へ立ち、右肩を貸元へ向けた。
「帰すッス」
「もう、お分かりになったでしょう。扉は本当に開く」
貸元は白を見た。笑みがない。手が届くはずの物を、目の前で持ち去られたような顔だった。
「だったら、そこへ行けばいいじゃねえか」
カズヤが言った。
「それは葛西さんの扉です。私のものではありません」
貸元の両手が下がった。待っていた理由が、やっと少し分かった。白河さんが救われればいいんじゃない。貸元自身が救わなければ、自分の扉にはならないのだ。
「白河さんを、もう放っておけ」
俺が言っても、貸元はこちらを見なかった。
「戸倉さん。葛西さんを止めてください。白河様は別室へ。三田様たちも、落ち着かれるまでこちらへ――」
向こう側にいた作業員が、セツナへ近づく。こちらの出口からも、台車を見ていた男が歩いてきた。帰る道に、一人。白河さんのそばに、一人。
俺は戸へ肩を押しつけた。俺の傷は治る。それで、向こうの二人が助かるわけじゃない。
「ミタチー。そのまま押しててくれ」
カズヤが背後の通路を見た。
「どこ行く!」
「すぐ戻る。戸から、離れんな」
カズヤは出口へ走った。俺は戸を押したまま、向こう側を見た。作業員がセツナの背後へ手を伸ばしている。
「セツナ、後ろの男!」
彼女がそちらを向いた。手が届く前に、半歩退く。左腕を胸へ寄せ、右手を開く。背後には白河さんと、まだ開いている白い入口があった。
セツナは男を見ていた。扉の奥へ、顔を戻さなかった。




