第20話 約束の場所
日曜の午後なのに、駐車場に車がなかった。店の名前を外した跡だけが、建物の壁に残っている。営業していたころの写真を、カズヤが昨日見つけていた。屋上には観覧車があったらしい。今は、その向こうの空まで見通せた。
「上まで階段か」
俺が従業員用の入口を見上げると、カズヤはスマホを下ろした。
「エレベーターあっても、俺は階段がいいわ」
「珍しく健康的」
「閉店した建物のエレベーター、信用してねえだけ」
白河さんが一段目で笑った。俺は、着いたことと今いる場所を家へ送る。カズヤも入口の写真を知り合いへ送っていた。出たら、また連絡する。昨日と同じ約束だ。入口の脇には、男が一人いた。
灰色のカーディガン。胸の名札が裏返っていて、男は挨拶より先に、それを直した。
『管理 戸倉静馬』
「こんにちは。案内を頼まれてます」
若い人だった。三十歳には、まだ届いていないように見えた。声は、電話で営業時間を教える人に似ていた。
「貸元は、もう中ですか」
白河さんが尋ねる。戸倉はうなずき、貸元もセツナも上で待っていると答えた。彼は、誰もいないはずの階段室の戸を、三回ノックした。
「お先にどうぞ。僕が上まで案内するね」
錠の金属へ指を添え、戸を開ける。カズヤが先にのぞいてから、俺たちは続いた。後ろで戸がゆっくり閉まる。上についた金具が、最後の数センチを静かに引き寄せた。
戸倉は、もう二段目にいた。腰の横で、指を軽くひねった。背後で、かちん、と音がした。鍵束は、持っていなかった。
*
三階の駐車場は、外周が金網になっていた。奥に、屋外階段の緑の表示が見える。戸倉はその手前に並んだ二つの入口へ向かった。人用の戸と、荷物用のシャッターだ。
シャッターは腰の高さまでしか開いていない。その下を、鉄板を積んだ台車がふさいでいた。作業着の男が荷のベルトを確かめている。車輪には、黄色い三角形のゴムが挟まっていた。
戸倉が人用の戸を開けた。俺たちは中へ入り、まっすぐな管理通路を進む。帰るときは、この道を戻ればいい。カズヤが振り返って出口を確かめた。
「出たら、外の階段も使えるんですよね」
「そう。駐車場へ出れば、階段は二つあるから」
戸倉は答え、通路の奥へ歩いた。俺も続こうとして、足を止めた。突き当たりには手すりがあり、その向こうの床が大きく抜けている。底は、二階ぶんほど下だった。
下の台から、貸元が声をかけた。
「お待ちしておりました」
四メートルほど向こうの床で、セツナが手を上げた。後ろには作業着の男。黄色い手すりの切れ目から、灰色の板が吹き抜けへ突き出していた。
貸元は、その板の下にいた。上下する四角い台の上で、俺たちより一メートルほど低い。手すりへ片手を載せ、微笑んでいる。
向こうの床へは、吹き抜けの端を通れば行ける。戸倉がその短い通路の防火戸を開け、俺たちを先に通した。戸を抜けて数歩で、セツナの隣へ出た。
「こんにちはッス」
白河さんは挨拶を返し、渡り板の根元を見た。そこには白い線が引かれていた。
「この線の後ろで、腕を伸ばすだけですよね」
「私の台を上げて、手の届く位置を確かめます。それ以上前へ出ていただきません」
下から貸元が答えた。俺は渡り板を指した。
「この板は、動かないんですか」
セツナがしゃがみ、板の下へ差し込まれた支えを見せた。太い金具だった。彼女が端を踏んでも、板は揺れない。
「支えは、入ってるッス」
白河さんが板へ足を載せ、白線の手前で止まった。セツナは固定された床に残り、彼女の背中へ右手を添える。
「途中で、やめてもいいんですよね」
「昨日、お約束したとおりです」
貸元が答える。カズヤはスマホを胸のポケットへ入れ、カメラだけを出した。
「録ってますからね」
「ええ。お二人は停止ボタンの所へ。何かあれば、すぐ止めてください」
赤いボタンは、俺たちが来た管理通路の手すりについていた。白河さんを見渡せる位置だ。俺は彼女へ顔を向けた。
「嫌になったら、すぐ言って」
「はい。お願いします」
俺とカズヤは同じ防火戸を通り、ボタンの前へ戻った。背後で戸が閉まる。かちん、と錠の音がした。戸倉は駐車場側の出口へ歩いていった。
貸元の台が上がった。白河さんが腕を伸ばす。あと少しで、二人の指が届く。高さの針が止まった。
白河さんの靴が、滑った。
足を出したのではない。載っている板ごと、前へ傾いた。セツナが彼女の右腕を取る。俺は赤いボタンを押した。機械の音が止んだ。
板は止まらない。
下にあった支えが、引っ込んでいた。貸元の台だけが、板より低い位置で止まっている。
「やめます。もう、やめます!」
白河さんが叫び、床へ足を戻そうとした。靴底が板をこする。俺はボタンを押し込んだまま、貸元へ怒鳴った。
「止まらない! そっちで戻してください!」
貸元は操作盤に触れず、白河さんへ両手を伸ばした。
「こちらへ。私がお受けします」
「話が違う!」
カズヤの声に、男がようやく顔を上げた。
「危険から救わなければ、開かないのです」
板が落ち込んだ。白河さんの両足が、宙へ出る。セツナがひざをつき、彼女の右腕を両手で抱えた。
「カズヤ!」
防火戸へ走った。カズヤがつまみを回し、俺が肩で押す。少し開いた戸が、すぐ止まった。錠が勝手に掛かり直している。
カズヤがもう一度つまみを回す。金具が引っ込み、また飛び出した。
「何だよ、これ……!」
「まだ、そっちじゃない」
出口にいる戸倉が、腰の横で指をひねっていた。
「落ちるだろ!」
俺が怒鳴っても、戸倉の手は止まらなかった。
「だから、手順を変えないで」
吹き抜けの向こうで、セツナの靴が床をこすった。彼女は片ひざと、手すりへ引っ掛けた右足で踏みとどまっている。抱えた白河さんの腕が、ぴんと伸びていた。
白河さんの腰から下には、もう床がない。貸元の台は少し脇へずれ、彼の手を取れなければ、そのまま下へ落ちる。白河さんは靴の先で壁を探った。床のすぐ下を横切る鉄の棒へ、あと少し届かない。
「や、だ……」
かすれた声がした。貸元は台の縁へ寄り、受け止めるための腕を広げる。セツナは、その上の床から白河さんを引き戻そうとしていた。
「葛西さん。その手をお放しなさい」




