第19話 奇跡を待つ人たち
「まだ、何人の力になれるかは分かりません。ただ、こちらに暮らしながら、向こうに会いたい人がいる方は、少なくありません。帰りたかった人ばかりが帰ってくるわけではありませんから」
貸元は、白河さんの問いへそう答えた。壁の時計が、十一時半を回っていた。帰る直前の祭りを思い出した。石畳の上に倒れたアイリへ、手を伸ばしたままだった。会いたいと言いかけて、俺は口を閉じた。
カズヤは、片手で自分のひじをつかんでいた。
「また扉を開けられたら、好きに行けるんですか」
カズヤが尋ねた。
「そこを、確かめる必要があります。もう一度扉を開けられたら、まず私が渡ります。行き来できる道を確かめて戻り、皆様をご案内するつもりです」
貸元は会場の写真を出し、セツナのスマホを机へ置いた。灰色の床と、黄色い手すり。本番は一週間後、土曜の夕刻だ。それまでに人と設備をそろえるという。
「その日じゃないと、開かないんですか」
俺が聞くと、彼は首を振った。
「月や星の巡りの話ではありません。私たちの準備です。白河様にご相談する前に、日時だけ決めてしまったことはお詫びします」
「準備って、何をするんですか」
白河さんは、写真に手を触れなかった。
「私が白河様を救助できるよう、設備と動きを整えます」
その言葉のあとの部屋が、妙に静かだった。俺は椅子を少し引いた。
「死にかけないと、扉は開かないんですよね」
貸元の笑顔が、少し薄くなった。
「記録にある条件は、そうです」
「それを、また白河さんにやらせるってことですか」
「そのために、何が危険なのか、どの動作なら確実に手が届くのかを先に――」
「白河さんは協力しません。もう、あんな目には遭わせられません」
俺の声が、貸元の言葉を切った。隣の椅子で、白河さんが動いた。
「先輩」
「あの事故で、どんなことになったか、見てるでしょう」
貸元を見たまま言った。胸の奥が痛んだ。十五年たっても、体が覚えていた痛みだった。貸元はスマホの画面を伏せた。
「明日は、救助の動きを確かめるだけです。危険なことはしませんし、足場も落としません。安全な場所で、設備と私どもの動きを見ていただきます。それから、先の協力を断っていただいても構いません」
「だったら、ここで断っても――」
「先輩。少し、外でお話ししてもいいですか」
二度目は、はっきりした声だった。俺は白河さんを見た。その目が、俺の返事を待っていた。
*
相談室を出ると、佐伯さんが待合の椅子にいた。帽子を載せたひざに、折り畳んだ紙を広げている。丸い字で名前と数字が書かれていて、その端に、小さな動物の落書きがあった。
「お迎え、まだですか」
白河さんが尋ねた。あと少しだが、娘が孫の靴選びに付き合わされているのだという。佐伯さんは、スマホに届いた写真を見せた。同じような黄色い靴が、二足並んでいる。
「どこが違うか、分からんだろ」
「こっちは、かかとが光るんじゃないですか」
白河さんが片方を指す。佐伯さんは眼鏡を近づけた。
「ほんとだ。走れば分かるかな」
「買う前に分かってよかったですね」
「値段は、先に見てしまった」
白河さんが小さく笑った。俺も笑いかけて、佐伯さんがスマホを持つ左手に目を落とした。さっきまで、伸ばすのも痛そうだった腕だ。
「そっちの手、もう痛くないんですか」
俺が聞くと、佐伯さんは指を開いて見せた。
「もう痛くないよ。明日、孫を公園へ連れていくんだ。娘に休んでもらおうと思ってね。手をつなげるようになって、助かった。貸元には世話になったよ」
佐伯さんが、治った左手を開いたり閉じたりした。助けられた人は、確かにいる。迎えの連絡が届くと、彼は紙を畳み、左手で帽子を持ち上げた。その手は、少しも震えていなかった。
*
店の横に、自販機が二台あった。白河さんは自分の財布を出し、飲み物の列を見上げた。
「先輩は、何にしますか」
「いい。今は」
「じゃあ、わたしだけ飲みます」
冷たいペットボトルを両手で持って、彼女は少し横へずれた。俺たちの後から出てきたカズヤは、店の戸の近くに残った。セツナも中にいる。ガラス越しに、二人の立つ場所が分かった。
「白河さんの返事を聞かずに、俺が協力しないって決めた。ごめん」
俺が言うと、白河さんはキャップを開けかけた手を止めた。
「謝ってもらおうと思って、呼んだんじゃないです」
「でも、話を聞くかどうかまで、俺が決めることじゃなかった」
声にしてみると、ずっと簡単なことだった。それが、机の前ではできなかった。白河さんはボトルを下ろした。
「怖いです。あの日のこと、よく覚えてないから、余計に。何も分からないうちに、先輩が倒れていたんです」
「……うん」
「また危ない目に遭いたいんじゃありません。それだけは、ちゃんと聞いてほしいです。さっきの人、普通のことを話してましたよね。明日、どこへ行くかとか、何を買うかとか」
俺はうなずいた。ペットボトルを持つ指が、冷たそうだった。
「靴、値段見てたな」
「はい。……帰ってきた人たちも、普通に暮らしたいんですよね。向こうに会いたい人がいるなら、また明日の約束をしたいのかもしれません。わたしにできることがあるなら、まず説明を聞きたいんです」
俺は自販機の列へ目を移した。向こうで見たことのない飲み物が、名前と値段をつけて並んでいる。あの村に戻れる道がある、と言われたら。俺は、説明を聞かずに背を向けられるだろうか。
「俺も、会いたい人はいる」
白河さんが顔を上げた。
「向こうに?」
「うん。でも、そのために白河さんが、もう一度トラックの前へ出なきゃいけないなら、嫌だ」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。ボトルのキャップを、今度こそ開ける。
「それは、わたしも嫌です」
俺は、やっと少しだけ肩の力を抜いた。
「できることを決める前に、何をするか、全部聞こう。それで、途中でも嫌になったらやめる」
「先輩も、やめたいときは言ってください」
「俺も?」
「怖いときに言うの、わたしだけなんですか」
言い返せない。怖いことくらい、この子にだって言っていいはずなのに。つい隠したくなるところを、まっすぐ聞かれてしまった。
「……言う」
「はい」
白河さんは一口飲んで、店の戸へ目を向けた。カズヤがこっちを見ていた。俺は手を上げた。
*
相談室へ戻ると、貸元は白河さんの椅子を引こうとした。彼女は、自分で引いた。
「確かめるだけなら、行きます。床を落としたり、わたしが怪我をするようなことは、しません」
貸元は手を離した。
「承知しました」
「途中でやめると言ったら、止めてください。あとで困るとか、予定があるとか言われても、それは別です」
「はい」
軽い返事だった。白河さんは、まだ座らなかった。
「言ったときに、すぐ、です」
貸元が目を上げた。白河さんは、その目を見たまま待っていた。
「白河様が中止を求めた時点で、止めます」
今度の答えを聞いてから、彼女は座った。カズヤが、机の端にスマホを置いた。
「今の条件、あとで食い違うの嫌なんで。録っていいですか。もう一度、俺から確認します」
「ええ、どうぞ」
返事を聞いて、カズヤが録音を始めた。
「怪我をさせない。足場を落とさない。途中でもやめられる。明日の確認に行くことと、来週の本番に協力するかは、別。それでいいですね」
一つずつ確かめるたび、貸元は、はいと答えた。
「葛西さんにも、お聞きいただきましたね」
「……はいッス」
セツナが答えた。いつもの即答より、ほんの少し遅かった。俺は背中の痛むところへ手を回した。
「俺とカズヤも、一緒に行きます。別の部屋に移されたりは、しません」
貸元はスマホを表へ返し、会場の写真を示した。
「見える場所にいていただきます。明日の午後です。住所と、確認する動作をお送りします。まず、ご家族にもお伝えください」
机の下で、白河さんがバッグを持ち直した。カズヤは録音を止め、送られてきた写真を拡大した。黄色い手すり。灰色の床。奥のほうで、手すりが途切れている。その先は黒かった。
「ここ、床ないですよね」
俺が指を置いた。セツナも、横から画面を見た。
「物を上げ下げする設備を入れる場所です。そちらへ立っていただくことはありません」
貸元が答えた。左の袖口に、白い包帯が少しだけ見えていた。片桐さんがやめたいと言ったとき、この人はやめた。
俺はそのことを思い出してから、カズヤに写真を送ってもらった。白河さんが立つ場所だけでなく、手すりのない所まで、自分のスマホでも確かめた。




