第18話 机の上
白河さんが持ってきたのは、菓子の箱ではなかった。彼女は小さなショルダーバッグをひざに載せ、入口に一番近い椅子へ座った。俺は、その隣へ自分の椅子を寄せた。
「お母さんは?」
送ってもらったから、帰りも迎えに来てもらうのだという。白河さんはそう答えてから、机の向こうを見た。
「事故のときのこと、教えていただけると聞いたんですけど」
「ええ。お待ちしておりました」
貸元が、白河さんへファイルを向ける。カズヤが先に、空いている角を指で押さえた。
「その前に。鍵って、何ですか」
白河さんの目が、俺へ動いた。俺も、呼び名を聞いたばかりだった。
「さっき、そう言われた。白河さんのこと」
「わたしの?」
貸元がうなずいた。
「ご本人が望まなくても、扉が開くきっかけになる性質を持つ方です。そういう方を、私たちは『鍵』と呼んでいます」
「どういう性質なんですか」
貸元がファイルを俺へ向けた。線路、川と橋、傾いた作業用の足場。ページにはそれぞれの図がある。話を聞いて描いたらしく、距離の横には疑問符がつき、描き直した跡も残っていた。
貸元の指が、三枚を並べた。
「踏切で、子どもを外へ押し出した方。川に落ちた人へ手を伸ばした方。崩れた足場から、作業員を引き上げた方。事故の形も、場所も違います。ですが、その直後に、皆さん白い場所へ行ったと話しています」
「事故で死にかけると、行くんじゃないんですか」
俺が聞くと、貸元は図から目を上げた。
「危険な事故に遭うだけなら、もっと多くの方が渡っているはずです」
言われてみれば、そうだ。向こうでは何度も死にかけた。でも、白い場所は二度しか見ていない。貸元は四十三年、力を持って帰った人に会ってきたという。渡る直前に何をしていたのか、一人ずつ聞いていたのだ。
「……四十三年」
カズヤの声が小さくなった。自分が生まれるより、ずっと前だ。それだけのあいだ、帰ってきた話を誰かに聞き続ける。
俺は並んだ紙の、すり切れた角を見た。貸元は白河さんへ顔を向けた。
「後になって、助けられた方にも一人、会うことができました。その方を見たとき、普通の力とは違うものが分かったのです。世界を渡る扉を、開くきっかけになる人がいる」
「それが、鍵?」
白河さんの問いに、彼は静かにうなずいた。
「鍵となる方を、命の危険から直接救う。すると、救った人の扉が開く。集めた記録から、私はそう考えています。三田様の場合は、白河様を救ったことで、三田様が向こうへ渡ったのです」
少女の肩を突き飛ばした。車体が迫ってきた。俺は、トラックにはねられたから向こうへ行ったのだと思っていた。その前に、白河さんを助けていたからなのか。
白河さんが、バッグのベルトをにぎった。
「鍵って、わたしのことですよね」
「ええ」
「でも、わたし、何もしてません。扉なんて、見てませんし」
貸元が口を開きかけたとき、俺は白河さんを呼んだ。彼女がこっちを見る。
「俺も、今初めて聞いた。協力してくれって言われても、すぐ返事しなくていいと思う。まず、一緒に説明を聞こう」
白河さんはベルトを離した。にぎっていた場所だけ、細く折れ曲がっていた。
「前に会ったとき、もう分かっていたんですか」
白河さんが貸元へ尋ねた。
「財布を届けてくださった日ですね」
彼女がうなずく。
「お店の前で財布を拾って、ここへ届けたんです。貸元が持ち主を知っていて。お客さんだから連絡して返してくださると言うので、財布を預けました」
事故より前に、そんなことがあったのか。白河さんはただ、財布を落とした人を困らせたくなかっただけなのだろう。そのために入った店で、貸元に見つかった。
「そのときに、分かりました。ただ、急にこうしたお話をしても、驚かれるでしょう」
「今も、驚いてますけど」
「そうでしょうね」
貸元が困ったように笑った。俺は線路の図を見たまま、村を思い出していた。山が崩れたとき、アイリには触れていない。触ったのは沢をふさいだ木と岩だ。あの子の肩へ手が届いたのは、秋の祭りだった。花籠を抱えて、馬車の前にいたとき。
アイリも、そうだったのか。
「向こうの世界にも鍵がいて、その人を助けたから、俺は戻ってきたんですか」
俺が聞くと、貸元の指が机の上で止まった。
「同じ性質を持つ方は、向こうの世界にもいるのでしょう。私が聞けた帰還の話も、直接誰かを救った場面で終わっています。三田様は?」
すぐには、答えられなかった。名前を言えば、続きを聞かれる気がした。
「馬車の前に、女の子がいた。突き飛ばしたら、また白いところへ行った」
「似てる」
白河さんが、自分の肩へ触れた。俺はうなずいた。同じことをした。どっちも、間に合ってほしかった。そのあと自分がどこへ行くかなんて、一度も考えていなかった。
「白い場所で、元の体へ戻るって言われました。言われた、っていうか……」
「音ではなく、意味が届く」
貸元が言った。俺は顔を上げた。
「あなたも?」
「ええ。私も、あそこで確かめたことがあります」
左腕の包帯を、右手で押さえる。それ以上は言わなかった。俺も、口を閉じた。まだ、と言ったことまで、知られているわけじゃない。そう思ったのに、椅子の上で足を引いた。
貸元が、新しい記録用紙を出した。
「向こうで過ごされた時間は、どのくらいでしたか」
「十五年です」
ペンが、その数字を書き込んだ。
「向こうで十五年って、どういうことですか」
白河さんが、俺を見ていた。今、書き足された数字を指している。昨夜は、別の世界から帰ってきた人の話を聞きに行く、としか説明していない。
「俺には、そのくらいあった。向こうで暮らした時間」
「十五年……。先輩、何歳になるんですか」
「今は十七。足すかどうかは、まだ決めてない」
「自分で決めていいんですか、それ」
「割引が利くほうにしとけ」
横からカズヤが言った。
「都合よく使い分けたら、店に怒られるだろ」
俺が返すと、白河さんの口元が少し動いた。笑い切る前に、真面目な顔へ戻る。
「じゃあ、わたしがお見舞いに行ったとき……」
「帰ってきたばっかりだった。どう話せばいいか、分からなかった」
白河さんは、俺の手を見た。菓子を開けるとき、止まっていた手だ。
「びっくりしたこと、ほかにも、たくさんあったんですね」
俺は、うん、と答えた。彼女は何があったか、すぐには聞かなかった。机へ戻した指で、曲がった紙の角を、そっと伸ばした。
「戻るときに、力が増えることもあるんですか」
カズヤが、貸元へ話を戻した。
「私にはありました。行きに【肩代わり】。帰りに【看破】を」
「二つ」
「ええ。ただ、皆さんが同じように得るわけではありません。行きだけの方、帰りだけの方もいます。三田様は、向こうで使っていた一つを、そのまま持ち帰っていらっしゃる」
知らない力が増えたわけじゃない。十七歳の体に戻っても、傷は治って痛みが残る。向こうで使っていたのと同じだ。カズヤが右の手のひらをこすった。薄い茶色の筋。その端は、汚れにしてはぎざぎざしていた。
「何かついた?」
「さあ。痛くはねえけど」
彼はもう一度こすり、手をひざへ戻した。貸元がファイルをめくり、壁際のセツナへ声をかけた。
「葛西さん。明日の会場の写真を出していただけますか」
「はいッス」
セツナはスマホを取り出し、写真を探し始めた。貸元がめくった紙の裏に、山の絵が見えた。山腹から下へ、二本の線が伸びている。その下の小さな文字が、読めた。
『腕を広げた子どもに見える』
見覚えがあった。村の畑から振り返ったときに、何度も。
「今の紙、何ですか」
「昨日届いた、別の帰還者の聞き書きです。向こうで聞いた村の話だそうです。受付の日付はこちらに」
貸元が紙の上を示す。俺が病院から帰った日だった。
「これ、見せてもらえますか」
似た村を知っているかと尋ねられ、俺は、分からないと答えた。
「お名前を伏せた控えを、後ほどお渡ししましょう」
貸元はその紙を抜き、俺の前へ置いた。線は、ひどく簡単だった。それだけで、あの村だと決めることはできない。それでも俺は、指を離すのに少し時間がかかった。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、貸元は身を乗り出した。
「行き来する方法が分かれば、突然会えなくなった人に、もう一度会いに行けるかもしれません」
白河さんが、俺の見ていた紙へ目を落とした。それから、貸元に向き直った。
「それで助かる人は、何人いるんですか」




