第17話 貸元
写真の男は、土曜日の昼間には質屋の主人をしていた。いや、逆かもしれない。質屋の主人が、水曜日にはあの交差点にいたのだ。ガラス戸の向こうに、腕時計が並んでいる。値札のゼロを数えたところで、俺のスマホを売っても足りないことだけは分かった。
「見てる物まで預けて帰んなよ」
カズヤに言われ、眼鏡を押し上げた。
「さすがに、これ取られたら帰れない」
「俺を何だと思ってんだ」
「道案内」
「そこだけは頼るんだな」
いつもの調子で返して、店の戸を開けた。着いたことは父さんとカズヤの知り合いへ送ってある。昼を過ぎても連絡がなければ、電話をくれる約束だ。昨夜は父さんに、写真の男を見たことも話した。今日は話を聞くだけ。そこは、何度も確かめられた。
俺も、そのつもりで来た。昨夜はファミレスを出て、それぞれ帰った。今日はカズヤと駅で待ち合わせ、二人でここまで来ている。
戸の上で、小さな鈴が鳴った。店の奥から、男が立ち上がった。三つ揃い。細い縞のネクタイ。両側へきれいに流した髪。写真より、目のまわりのしわが深かった。
「いらっしゃいませ。三田様ですね。金原総司と申します。皆様からは、貸元と呼ばれております。お越しいただき、ありがとうございます」
俺は、カウンターへ近づく前に止まった。
「事故の日、交差点にいましたよね」
男の笑顔は、消えなかった。
「ええ。向かいの歩道に」
「俺が、トラックにぶつかったとき」
「見ていました」
あまりにあっさり認めたので、用意してきた次の言葉が出てこなかった。あの日の向こう側には、この人がいた。近くで見ると、普通の人だった。服の肩に、小さな糸くずが一つついている。
「それで、俺に連絡を?」
「お話ししたいことがありました。先に、昨日の件をお詫びしなければなりません」
貸元が奥へ顔を向けた。ついたての陰から、セツナが出てきた。今日はコンビニの袋を持っていない。左手首の絆創膏だけが、昨日と同じだった。
「おはようございますッス」
カズヤは挨拶を返す前に、店の入口を見た。
「帰りたくなったら、帰る。それでいいんだよな」
答えたのは貸元だった。
「もちろんです。葛西さんを急がせたのは私です。店で起きたことも、こちらから説明します。今日お話を聞いてくださっても、昨日の件をなかったことにする必要はありません」
セツナは、俺たちの進む先を空けた。手を伸ばしてこないのを確かめてから、俺はカウンターの横へ歩いた。
「俺の力を調べてるって、昨日聞きました。何が分かってるんですか」
貸元の視線が、俺の顔から両手へ下りる。
「ご自分の傷は治り、失った血も戻る。ただし、痛みと疲れは、そのまま残る」
看板を受けた背中が、今も痛んでいた。
「……セツナから聞いたんですか」
貸元は、自分の目の下へ指を添えた。
「報告は受けています。ですが、今は【看破】で三田様の力を見ています。目の前の方がどんな力を持つか、分かるのです」
「じゃあ、俺のは」
「【等倍返し】。傷をつけた人や物へ、同じ傷が返ります。物なら、体に触れた部分へ。大きな相手でも、返る傷の大きさは変わりません」
俺が石と木を相手に何度も試したことを、男は息を切らさず言い終えた。
「何を考えてるかも、分かるんですか」
「いいえ。今、私をどれほど疑っていらっしゃるかは、想像するしかありません」
「そこは、だいぶ」
カズヤが横から言った。貸元は軽く頭を下げ、カズヤの前へ右手を出しかけた。手が、一度止まった。
カズヤの顔を見てから、その手を名刺入れへ戻す。
「佐倉様でしたね」
「カズヤでいいです。付き添いなんで」
貸元は微笑み、名刺を差し出した。カズヤは握手のつもりで上げていた手を下ろし、そちらを受け取った。
奥の部屋で椅子が鳴り、貸元がそちらを見た。
「先に、お待ちの方の処置をしてもよろしいですか。皆様にも私の力を知っていただいたほうが、お話を進めやすい」
カズヤは名刺の名前と電話番号を確かめてから、ポケットへしまった。
「奥には、腕を傷めた佐伯様と、傷を引き受けてくださる片桐様がいらっしゃいます。片桐様との契約は、今日終える約束です」
何の話か分からなかった。分からないままうなずくのはやめて、俺は聞いた。
「傷を、引き受ける?」
「見ていただくのが早いと思います。お二人には、同席していただくことをお伝えしてあります」
貸元が、引き戸の内側へ声をかけた。中から返事があって、それから戸が開いた。昨日も、連れていこうとする前に、俺の返事を待ってくれればよかったのに。
六人で入ると、少し狭い。机の向こうの白髪の男が、佐伯さんだった。左腕に包帯を巻き、右手で丸い帽子を持っている。隣の片桐さんは、俺たちより少し年上に見えた。紺のシャツの袖をまくり、腕時計を外していた。
貸元の紹介を聞くと、佐伯さんは帽子をひざへ置いた。片桐さんが、空いている椅子を俺たちへ寄せる。
「途中で気分が悪くなったら、外へ出てください」
佐伯さんが、包帯の巻き終わりを探しながら言った。
「俺は、見てていいか分からなかったです。最初のとき」
片桐さんのほうは、笑いかけてから口を結んだ。
白い包帯の下に、長い切り傷があった。昨日、物置の金具で切ったという。手当てはしてあるが、ひじを伸ばすと皮膚が引かれ、佐伯さんの眉が寄った。貸元は机の向かいへ座り、左の袖をまくった。
「では、お預かりします」
佐伯さんの腕に手を添える。切り傷の赤い線が、短くなった。端から、白い皮膚へ戻っていく。俺は貸元を見た。まくった左腕に、同じ長さの赤い線が開いていた。血が一滴、用意されていたガーゼへ落ちる。
「消えたんじゃ、ないのか」
貸元は腕をこちらへ向けた。佐伯さんが、空いた左手をゆっくり開く。
「私へ移りました。これが【肩代わり】です。傷を負う人を替えます」
片桐さんが椅子を寄せた。右手首に、細い黒い輪があった。紐ではなかった。指が引っ掛かる厚みもなく、皮膚を一周している。
「今日の分、さっき説明した範囲ですね」
「ええ。この腕の傷です」
片桐さんがうなずくと、今度は彼の左腕が赤くなった。息を止め、右手で机の角をにぎる。貸元の腕には、もう傷がない。佐伯さんは治った左手で帽子を持ち直していた。俺の目は、机をにぎる片桐さんの指へ戻った。治った人だけを、見ていられなかった。
「片桐さんの傷は、どうなるんですか」
「契約を終える前に、傷を私へ戻します。それまでは、私の傷を受け持っていただく約束です。輪がある間は、契約が続いています」
貸元の返事に、俺は黒い輪を見た。
「お金を借りた人に、傷を移しているんですか」
「いいえ。お金を借りただけでは、そうなりません。何を引き受けるのか説明し、ご本人に承知していただいた契約です」
片桐さんが、ゆっくり息を吐いた。
「仕事が決まるまで、生活費を出してもらいました。その代わり。……何でも平気ってわけじゃないので、今日はこのくらいって、先に話してます」
袖の下で、左の指が伸びたり縮んだりした。平気ではない。それは見て分かった。
「その輪は、自分で消せるんですか」
カズヤが尋ねた。片桐さんは右手首をこすり、首を横に振った。今日の精算で、貸元に終わりにしてもらうのだという。
机に伏せてあったスマホが震えた。片桐さんは画面を確かめ、時間を見た。
「すみません。新しい勤め先からです。昼前に寄れないかって。残りの時間の分のお金は、いらないので……今、契約を終わりにできますか」
貸元が時計を見た。片桐さんの右手が、止まった。俺も、なぜか息を止めていた。
「ええ。お話ししていた所ですね。おめでとうございます。まず、お預けしている傷を戻しましょう」
男の笑顔を見て、片桐さんの肩が下がった。貸元は、もう一度左腕を出した。片桐さんの赤い線が消える。貸元の腕に、さっきと同じ傷が戻った。
「これで、終わりですか」
「傷については。契約は別です。今、そちらも終わりにします」
貸元が片桐さんの右手首を確かめた。黒い輪が、一本の線から、薄い灰色になった。片桐さんが自分の手首をにぎる。指を離したとき、輪はなかった。
俺は、貸元の腕を見た。傷は残っていた。セツナがガーゼを当てると、貸元は一瞬だけ口元を固くした。
「押さえすぎッスか」
「いえ。そのままで」
セツナの手つきは、昨日俺の腕を取ったときより遅かった。預けた傷を、引き取ってもらえる。やめたいと言えば、契約も終わる。俺は包帯が白い袖へ隠れるまで、それを見ていた。
片桐さんは受付で書類を受け取って出ていった。佐伯さんは、娘に迎えを頼むと言って、表の待合へ移った。二人が出ていくと、柱時計の針の音が目立つようになった。貸元が、巻いた左腕を机から下ろした。
「三田様は、ご自分の傷を治せます。ですが、それでほかの方の痛みまでなくなるわけではありませんね。私にできるのは、今ご覧になったことです。帰ってきた方の暮らしを助けながら、それぞれの力を調べています」
「俺に、何をさせたいんですか」
「今日は、お話を」
「昨日は、腕をつかんで連れてこさせたのに」
貸元はセツナへ視線を送らなかった。机の引き出しから、薄いファイルを出した。閉じたまま、両手のあいだへ置く。
「お急ぎいただきたかった。理由をご説明します。もうお一人、こちらへ向かっていらっしゃいます。事故のことを聞きたいと、ご連絡をいただきました」
俺のスマホが震えた。白河さんからだった。
『近くまで来ました。着いたら連絡する約束だったので』
昨夜、貸元と一人では会わないほうがいいと送ったら、白河さんは、前に会ったことがあると教えてくれた。それでも一人で話を始めず、俺たちのいる時間に来ることにしたのだ。俺は『待ってる』と返し、貸元を見た。
「白河さんに、何の用ですか」
貸元はファイルを開いた。
「あなたが助けた白河様は、鍵なのです」




