第16話 ドリンクバー
カズヤが運んできたグラスには、水が入っていた。
「ドリンクバー、頼んだだろ」
「一杯目から元取ろうとすんな。あとで飲むわ」
俺の前には温かい紅茶が置かれた。背中を背もたれにつけられず、椅子の前へ浅く座る。カズヤは俺の上着を畳み、隣へ置いた。
店に入る前、セツナには面会の条件だけ聞くと伝えた。それまでは近づくな、とも。彼女は二つ向こうの席にいる。こっちを見続けてはいない。でも、出口への通路は目に入れているようだった。まだ仕事中か。
俺はカップの持ち手に指をかけた。
「先に話すことって?」
カズヤはグラスを回しかけて、やめた。
「小三のとき。俺、一学期ほとんど学校来なかっただろ」
「……事故のあと?」
「そう。道路へ飛び出した子どもを引っ張ろうとして、車にひかれた」
空いていた机を思い出した。教室の後ろに貼る絵が、一枚だけなかった。
「入院してたんじゃ、ないのか」
「こっちじゃ、してた。怪我がなかなか治らなくて。でも、その前に、白いところに行った。床がねえんだよ。でも、落ちない。どっち向いても白くて。声がしてた、と思うんだけど、耳で聞いた感じじゃなくてさ」
俺の指が、持ち手を強くにぎった。
「……意味だけが、分かる」
俺が言うと、カズヤは顔を上げた。その顔を見て、分かった。俺だけじゃなかった。
「別の世界にいた。八年」
カズヤが言った。
「八年? 戻ってきてからじゃなくて?」
「そう。こっちの小学校に戻って、中学行って、お前と高校入って。その八年とは、別にある」
別の八年。俺の十五年が、昨日の中に入っていたように。カズヤのいなかった一学期にも、教室の誰も知らない年月が入っていた。
「どんなところだった」
俺は聞いた。カズヤが、少しだけ目を動かした。
「川の近く。雨が続くと、床下に魚が入ってくんの」
「家の?」
「そう。捕れそうだと思って棒突っ込んだら、めっちゃ怒られた」
「そりゃ、家が水に浸かってんだろ」
「今は分かる。……お前は?」
聞かれて、俺はカップを置いた。村の名前を、口の中で一度確かめた。
「リンデっていう村。山の近くで、家が鍛冶屋だった」
「お前が、鉄叩いてたの?」
「途中から。ずっと、親父の音聞いてた」
親父、と呼んだ。父さんは今、こっちへ迎えに来ている。でも、訂正はしなかった。
「うるさかった?」
俺はテーブルの木目を見た。
「うん。慣れたら、寝てても分かるんだ。あ、今日はもう始めたんだなって。……昨日から、静かすぎる」
隣の席で、フォークが皿に当たった。店内の音楽も、人の話し声も聞こえる。何も鳴っていないわけではなかった。カズヤは笑わなかった。
「音、残るよな」
それだけ言った。俺は、うなずいた。
「なんで、言わなかった」
聞いてから、責めるように聞こえたかもしれないと思った。カズヤはグラスの水を飲んだ。
「お前、家で全部話した?」
「……いや」
「だろ。俺は最初、話したんだよ。家の人とか、先生とかに。誰も怒んない。笑いもしない。でも、話すほど心配する顔になんの。向こうで面白かった話しても、そうなる。だから、やめた」
カズヤの指が、グラスを離れた。病院で口にしかけた、リタの名前を思い出した。俺はまだ、誰にも聞かせていなかった。
「昨日は?」
「お前が夢って言ったから、俺も、その言い方に乗っかった。戻ってきたのかって聞いて、お前にまで変な顔されたら、きついと思った」
「しねえよ」
カズヤがこちらを見た。
「今は分かる。さっき見たから。お前の傷が消えんのも、あいつがお前を帰ってきた人って呼んだのも。今日言わなかったら、また言わねえと思った」
俺は紅茶を一口飲んだ。ぬるくなっていた。
「学校に戻ってきたとき、俺、何か言ったか」
「消しゴム貸してって」
「……それだけ?」
「それだけ。二学期の一時間目。ずっと休んでたやつに、いきなり借りんの」
「悪い。覚えてない」
カズヤが、少し笑った。
「俺は覚えてる。普通に隣にいてよかったんだなって、あれで思えたから」
知らなかった。何も聞かなかった俺に、そんなふうに助けられたと思っていたなんて。でも、そのあとも言えないままだった話がある。テーブルの下でにぎっていた手を、俺は開いた。
「今日は、もう少し聞きたい」
「八年分?」
「全部は無理。父さん来る」
「聞く側の都合が強えな」
俺は笑った。背中が痛んで、途中で止まった。カズヤは身を乗り出しかけ、俺が手を上げると待ってくれた。息が戻るまで、黙っていた。
「お前のそれ、向こうでついたんだよな」
カズヤが、俺の腕を見た。
「八歳のときに気づいた。治るのと、同じ傷が返るのが、一緒になってる」
「持って帰ってきたんだな」
その声は、少し平らだった。
「カズヤは?」
「何も。少なくとも、自分で分かるものはない」
グラスの横に置かれた手には、小さな切り傷があった。さっき、台車を動かしたときにつけたらしい。血は止まっていたが、傷は閉じていなかった。
「……台車、動かしてくれて助かった」
「あれで、荷物崩れたんだろ」
「出口、空いた。最後、引っ張ってくれなかったら、俺も出られなかった」
カズヤが俺を見る。慰めたかったわけじゃない。一人で全部やれたことにしたら、また同じ目に遭う。
「次は、もうちょいうまくやるわ」
カズヤはそう言って、水を飲み干した。
「次、あんなのがあるのは嫌なんだけど」
「俺もだよ。言ったあとで思った」
今度は、笑わずに済んだ。ぎりぎりだった。
迎えまで、あと十五分ほどだと連絡が来た。カズヤは時間を確かめ、二つ向こうの席へ声をかけた。
「セツナ。こっち来て。確認だけする」
彼女は伝票と水のグラスを持って立った。俺の隣へ座ろうとはせず、テーブルの端で止まった。
「別会計のままで大丈夫ッスか」
「自分の分、払うつもりだったのか」
カズヤが言った。
「それは、そうッス。……さっきの店の弁償も、話は別ッス」
「それもだし、無理やり連れていこうとしたこともな」
セツナは、うなずいた。左手首には、自分で貼ったらしい絆創膏があった。端から少しだけ血がにじんでいる。
カズヤも絆創膏を一度見た。それ以上は言わず、俺の向かいの席を引く。セツナが座ってから、スマホを出した。
「この連絡。お前を寄越した人から?」
知らない相手から届いた文面を見せた。セツナは画面を確かめた。
「そうッス。本名は金原総司氏。質屋の店主ッス。自分らは、貸元氏って呼んでるッス」
「俺、借金した覚えないけど」
「お金の請求じゃないッス。帰ってきた人の力を調べて、暮らしを助けてくれる人ッス」
「助ける前に捕まえに来るの、順番おかしいだろ」
カズヤが言った。セツナは口を開き、一度閉じた。
「……早く連れていけばいいと思ってたッス。明日、ご本人が来てくれるなら、それでいいって、さっき言われたッス」
「お前は、それでいいのか」
俺が聞くと、セツナは顔を上げた。
「自分は、その人に頼まれて来てるッスから」
答えは変わらなかった。セツナはスマホを手元へ寄せ、俺の返事を待った。
カズヤは、自分のスマホへ金原総司という名前を打っていた。
「帰ってきたやつの話、聞いてくれる人がいるんだ。何年か前に、俺もつながった。知ってる名前か、確認してる」
その八年の途中で、カズヤは話を聞いてくれる人を見つけていた。ずっと隣にいたのに、俺は知らなかった。返事を待ちながら、画面にある白河さんの名前を見た。
『お助けになった白河ゆき様のことも、ご説明できます』
向こうで暮らした年月と、彼女の名前が、同じ文の中にある。
「白河さんと、何の関係がある」
セツナへ聞いた。
「自分から説明するなと言われてるッス」
「じゃあ、何が聞けるかも分からないまま来いって?」
「……戻ってきた理由に、関わる話だとは聞いてるッス」
俺は画面から顔を上げた。青いトラック。白い場所。花を抱えた女の子と、その向こうの馬車。十五年離れていた二つの事故が、初めて同じ場所へ並んだ気がした。
セツナが先に席を立つことはなかった。俺は、条件を一つずつ口にした。
「今日は行かない。明日の昼間。場所と時間は、先に教えてもらう」
「はいッス」
「カズヤも一緒。帰るって言ったら、途中でも帰る。腕をつかんだり、道をふさいだりもしない。その条件を伝えて、返事をもらってきて。親には行く場所と、今日のことを話す」
カズヤが俺の横顔を見た。セツナはすぐ、スマホを持った。
「確認するッス」
俺たちから離れた席へ戻り、電話をかけた。今度は、手を伸ばしてこなかった。
「会いたいのか」
カズヤが聞いた。
「分からないままなのは、嫌だ」
知られた名前が、俺の名前だけなら、まだ逃げられたかもしれない。白河さんは昨日、菓子の箱を持って来た。コーヒー味が好きだと言って、笑った。俺より先に、あの人に会いに行ってしまうかもしれない。
「白河さんは、何か知ってんのか」
カズヤに聞かれ、俺は首を振った。
「この連絡に心当たりがあるか、聞いとく。知らない人に呼ばれても、一人では行かないように」
「俺らも、二人なら何でもできるって話じゃねえぞ」
「うん」
カズヤのスマホが震えた。
『支援をしているのは事実。ただし、頼まれたことを全部引き受けるな』
届いた返事を、カズヤが見せてくれた。その知り合いは貸元と会ったことがあり、質屋の住所も知っていた。
「行く時間、こっちにも送っとく。出たら連絡するって」
「頼む」
セツナが戻ってきた。こちらの条件でいいという返事と、明日の時刻を持っていた。
父さんへ住所を転送し、帰ってから相談したいと添えた。カズヤも、知り合いへ同じ住所を送る。これだけで安全にはならない。でも、誰にも言わず一人で消えるのは、もう嫌だった。
会計へ向かう前に、セツナが店の案内を画面に出した。
「この建物ッス。入口に段差があるんで、明日も背中が痛かったら、無理に――」
そこから先を、聞いていなかった。建物の写真の下に、店主の紹介があった。金原総司。名前の隣で、男が微笑んでいた。仕立てのいい三つ揃い。俺は、画面を拡大した。
「ミタチー?」
カズヤが呼んだ。写真の男は、こちらを見ていた。あの日も、こちらを見ていた。トラックが来る直前。向かいの歩道に、この人がいた。




