第13話 いつもの約束
「……十五年」
答えると、カズヤはしばらく黙った。長すぎると思ったのだろうか。俺なら、思う。カズヤは何か言いかけ、廊下に顔を向けた。母さんが、戻ってきたところだった。
「もう来てくれたの。ありがとうね、カズヤくん」
カズヤは、俺が退屈していそうだったから、と答えた。いつもの調子へ戻るのが、少しだけ遅かった。
母さんが着替えの袋を棚へ入れているあいだ、カズヤは俺のほうへ顔を寄せた。
「その話、続き、聞いていいか」
「……うん」
「今日は、休め。明日、また連絡する」
夢の話だろ、と言われるより、その返事のほうが怖かった。俺はうなずいた。
*
金曜日、家へ戻れた。もう一度検査を受け、医師から注意することを聞いた。何か変われば、すぐ連絡する。すっかり元気になったわけじゃないけれど、帰る許可は出た。
車を降りると、玄関の横に植木鉢があった。葉の先が茶色い。事故の前、母さんが水をやりすぎたとぼやいていたやつだ。
枯れていなかった。当たり前だ。二日しか経っていない。その当たり前を、玄関までの数歩で三回くらい繰り返した。
「ただいま」
言うと、声が廊下に返った。
「おかえり」
母さんが先に入って、俺のスリッパを足元へ寄せた。俺は靴を脱いだ。帰ってきた家の中で、最初に立つ場所は決まっていた。
*
昼の味噌汁は、少し熱かった。白い飯。焼いた卵。豆腐。箸を持つ指が迷ったらどうしよう、と思ったが、持てた。豆腐は一度だけ崩れた。たぶん、それは前からだ。
「食べられる?」
「うまい」
母さんが台所で顔を上げた。
「味、いつもと同じだよ」
「うん」
同じだった。それなのに、少し涙が出そうになった。向こうのスープには、こんな味はなかった。リタが塩を足すとき、鍋のふちでさじを一度叩く音がした。俺は味噌汁のお椀を、両手で持った。今、目の前にあるものを食べたかった。でも、忘れたくはなかった。
両方を同時にやる方法が、まだよく分からなかった。
母さんが片付けを始めてから、父さんへスマホを渡した。洗面台の写真を出してあった。
「病院で、これ、俺がやった」
父さんは画面を拡大した。
「転んだところか」
俺は自分の額を指した。
「うん。でも、体重をかけて割ったんじゃない。額をぶつけたら、ここにも同じように、ひびが入った。俺の傷は治って、俺に傷をつけたものに、同じ傷が返るんだ。石とか、木とか、人にも」
父さんは写真から顔を上げた。
「人にもか」
うなずき、続きも話そうとした。でも、のどが詰まる。父さんから見れば、俺は事故のあと、いきなり変な話をするようになった息子だ。それしか分かりようがない。
「……今、やって見せたほうが」
父さんは、しなくていい、とすぐに止めた。俺は上げかけた手を戻した。父さんはスマホを机へ置いた。画面を伏せなかった。
「治っても痛いのか」
「痛い」
「今も?」
「ちょっと、残ってる」
父さんは俺の右肩を見た。触ろうとした手を、そのまま机へ置いた。
「分かった。まず、それは覚えておく」
信じる、とも、そんなことはない、とも言わなかった。他にも話さなきゃいけないことはあった。俺を育てた人が、他にもいる。その人たちのところへ帰りたいと思ってしまう。それは、まだ言えなかった。
父さんがスマホを返してくれた。写真は、表示されたままだった。
*
部屋のドアを開けた。机に、数学のプリントが置いてあった。提出は金曜日。今日だった。十五年ぶりに帰ってきて、最初の宿題が期限切れ寸前なのは、さすがに少し厳しい。俺は椅子に座り、プリントの端を持ち上げた。昨日の俺が途中まで解いていた式がある。
いや、一昨日だ。消しゴムのかすも、机の隅に残っていた。ベッドへ寝転びかけて、やめた。横になれば、また花を思い出しそうだった。俺はスマホを開いた。
『退院した』
カズヤへ送ると、しばらくして返事が来た。
『おかえり。寝とけ』
『もう結構寝た』
『じゃあ起きて休め』
休ませる気が強い。俺は画面を見たまま、少し考えた。
『ゲーセン、行かね』
既読だけがついた。一分ほどして、電話が鳴った。
「退院した日に行く所か、そこ」
出た瞬間、カズヤに言われた。
「家にいたら、ずっと事故のこと考える。ゲームしなくてもいい。ちょっと、いつものとこで話したい」
それは、本当だった。事故は、二つあったけれど。カズヤはすぐには返さなかった。電話の向こうで、学校の椅子を引く音がした。
「親には言えよ」
「言う」
「しんどくなったら帰る。俺が帰るって言っても帰る」
「分かった」
「あと、今日は対戦台座んな。負けても病み上がりのせいにされる」
「弱った相手に勝つ気満々じゃねえか」
カズヤが、短く笑った。聞き慣れた笑い方だった。
「じゃ、現地で。無理すんなよ」
電話が切れた。あの日は、後ろの一言がなかった。
両親には、長居はしないと約束した。近くまでなら歩ける。それは診察でも確かめた。ただし、つらければすぐ帰る。連絡がつくようにしておく。父さんはカズヤと一緒かを確かめてから、俺の靴を見た。
「迎えが要ったら電話しろ」
「うん」
我慢せず、必要なら頼んでいい。そういう約束だった。部屋で、制服ではなくシャツと薄い上着に着替えた。どちらも肩を通せる。それだけで、少し外へ行く気になった。出かける前、白河さんから連絡が来た。
『無事におうちへ帰れましたか』
俺は玄関で立ち止まった。
『帰れた。菓子も持って帰った』
返すと、すぐに次が来た。
『コーヒー味を回収した甲斐がありました』
おかげで全部うまい、と打って、少し迷ってから送った。言うほどのことでもない返事だった。そういう返事を、送れた。
そのすぐあとだった。知らない相手から、メッセージの通知が来た。学校の友達とつながっている、公開のアカウント宛てだった。差出人の名前に見覚えはない。小さな画像を開く前に、本文を読んだ。
『向こうで過ごした年月について、お話を伺いたいと思っております。お助けになった白河ゆき様のことも、ご説明できます』
玄関の向こうで、車が一台通った。俺は、親指を動かせなかった。昨日、カズヤには夢だと言った。
父さんには傷の話しかしていない。病院でも、学校でも、十五年のことを説明していない。
白河さんの名前と、向こうで生きた年月が、同じ画面にあった。返事はせず、画面を保存してカズヤへ送った。家へいったん戻り、父さんにも見せる。知らない相手にはついていかず、何かあれば連絡するよう言われた。そのつもりだった。家を出たときは。
*
交差点は、まだ渡れなかった。信号が青になっても、足が出なかった。仕方がないので、一本先の細い道を回った。遠回りになったが、カズヤには遅れると送った。
まあ、いいか。
今日は遠回りでも、着けばいい。ゲームセンターの明かりが見えたとき、少しだけ息が楽になった。入口の横に、女の子が立っていた。薄い上着と、細身のパンツ。髪を高いところでひとつにまとめている。片手にコンビニの袋、もう片方にプリンの容器。
俺が自動ドアへ近づくと、スプーンを持った手が止まった。目が合った。彼女はプリンの蓋を閉めた。俺を待っていた人の動きだった。




