第12話 箱の中身
「白河ゆきです。昨日は、ありがとうございました」
女の子は頭を下げたまま、しばらく動かなかった。紙袋の持ち手が、指の間でつぶれている。聞きたいことは、十五年分あるはずだった。でも、彼女はここに立っている。息をして、名前を教えてくれた。それだけで、ほとんど満たされてしまった。
「……怪我、大丈夫?」
白河さんは顔を上げた。
「はい。ひじを、ちょっとすっただけです」
制服の袖を少し上げた。小さなガーゼが見えた。
「俺、思い切りぶつかったから」
「ぶつかってくれなかったら、ここに来られなかったんですけど。……すみません。言い方、変でした」
言い切ってから、白河さんは自分の声に驚いたように口を閉じた。
「いや。……来られて、よかった」
俺は少し笑った。うまく笑えていたかは、分からない。でも、今の言葉だけは、本当だった。
椅子を勧めると、白河さんは紙袋を抱えたまま座った。俺の名前と病院は、事故のあと、母さん同士で連絡を取って知ったのだという。今日来てもいいかも、先に確かめてくれていた。俺だけが、その準備を知らなかった。
「覚えてる? 車道に出たときのこと」
白河さんは持ち手から指を離した。
「あまり。誰かの声がした気がするんですけど、何て言われたのかも、よく分からなくて」
「向こう側から?」
「たぶん……。でも、信号を見なかったのは、わたしです」
リボンの端が、胸の前で小さく揺れた。気づいたとき、彼女は地面に座っていて、俺は車道に倒れていたのだという。
「俺、そのとき何か言ってた?」
「何も。……わたし、名前、呼ぼうとして。知らないって、そのとき気づいたんです」
白河さんが俺の手を見た。ここにある、と確かめるみたいに。俺は十五年間、この子が助かったか考えていた。この子は昨日から、俺が死ぬかもしれないと思っていたのだ。交差点の、その先を、俺は知らなかった。
「生きてるよ」
言ってから、少し変な返事だと思った。でも、白河さんは笑わなかった。白河さんは、はい、と小さく答えた。その声が細くなったので、俺は次の言葉を待った。しばらくして、白河さんが紙袋を持ち上げた。
「あの。これ、食べられると聞いたので」
話題を変えるのが、俺と同じくらい下手だった。
焼き菓子の箱を開けると、白河さんの姿勢が少し戻った。包みは六つ。バター、ココア、コーヒー。ちゃんと味が書いてある。向こうの行商人の菓子には、そんな親切な表示はなかった。読めるって、ありがたい。
「先輩、どれが好きですか」
すぐには、答えられなかった。全部おいしそう、と言えばよかった。いつもの俺なら、たぶんそうしていた。けれど、好きなものを聞かれているのに、答えを一つも出さないのも違う気がした。
「コーヒー味だけ、ちょっと苦手」
白河さんの指が、箱の端で止まった。言わなきゃよかった、と思った。
「先に聞けばよかったです」
「いや、他のは好き。せっかく持ってきてくれたのに、悪い」
「じゃあ、これは、わたしが食べてもいいですか」
止まっていた指が、コーヒーの包みへ伸びた。俺は箱と白河さんを見比べた。
「見舞いに持ってきたやつを?」
「先輩が我慢して食べるより、わたしが好きで食べるほうがいいと思うんですけど」
それはそうだ。俺が苦手で、白河さんが好きなら、渡すしかない。コーヒー味を一つ差し出した。
「そんなにうまい?」
「おいしいです。苦いのを期待して食べると」
「甘いものに、何を期待してんの」
「両方です」
白河さんは包みを開けた。俺もバターのほうを開ける。ひと口かじると、細かい欠片がひざの上に落ちた。甘かった。口の中に、溶けた脂の香りが広がった。固いパンではなかった。そう思って、いったん手が止まった。
「お口に合いませんでした?」
「いや。うまい」
今度は、すぐに答えた。リタのパンも好きだった。こっちをうまいと思っても、そのことまで変わるわけじゃない。
俺は残りを口へ入れた。
「ミタチー、生きてるか」
戸口から声がした。カズヤがコンビニの袋を提げて立っていた。制服の襟が少し曲がっている。髪も、一本だけはねていた。知っている顔だった。それで済むはずだった。なのに、俺は何も言わずに見てしまった。
俺が黙っているので、カズヤは戸口の名前を確かめ、眉を上げてこちらを見た。
「……合ってる。入れよ」
「だよな。お前がいるし」
カズヤは入り口で足を止め、白河さんへ目を向けた。俺が紹介する前に、彼女が椅子から立った。
「一年の白河です。昨日、先輩に助けていただいて」
カズヤは、俺の友達の佐倉だと名乗った。カズヤは袋を棚へ置いてから、足元に畳まれていた丸椅子を開いた。俺の左側、白河さんの椅子とは向かいになるところへ座る。いつもなら、座る前に袋を開けていた。今日は俺の顔を見てから、腕を見て、それから袋を開けた。
「ゼリー。あと俺の飯。お前のじゃないほうまで食うなよ」
「食う前から信用がない」
カズヤがゼリーを差し出した。俺が左手で受け取ると、その手を一瞬だけ見ていた。右腕を使っていないことに、気づいたらしかった。
「痛む?」
「ちょっと」
「ちょっとって、どんくらい」
答えを急かさずに、カズヤは椅子を寄せた。そんな顔も、するんだなと思った。俺が思い出していたのは、笑っている顔ばかりだった。
「物を持つと、肩まで来る」
「じゃあ、袋開けるとき呼べよ」
それだけ言って、カズヤは手を引いた。
白河さんが菓子の箱をこちらへ向けた。
「佐倉先輩も、いかがですか」
「俺にまで? 見舞いに来て、見舞いの品を食うことになるけど」
「本人の許可は取ります。三田先輩、いいですか」
「いいよ。コーヒー味以外なら」
カズヤが、俺を見た。
「お前、コーヒーの嫌いだったろ」
「今、それは白河さんのになってる」
「権利関係、複雑だな」
白河さんが小さく笑った。笑ってから、口元を押さえた。ここで笑っていいのか、まだ確かめているように見えた。
カズヤがココアを選んだので、俺は箱を彼女へ戻した。
「バターのやつも、うまかった」
「そっち、わたしも好きです」
「じゃあ今度、それにすればいいんじゃね」
あ。次に会うつもりで言っていた。白河さんはコーヒー味を手に載せたまま、うなずいた。
「覚えておきます」
カズヤはココアの包みを開けていた。口を挟まなかった。
*
窓の外が、少しずつ夕方の色になった。白河さんの帰る時間が来た。今日は迎えに来てもらうのだという。スマホに連絡が届くと、空いた包みをまとめて立ち上がった。
「これ、持って帰る?」
俺は残ったコーヒー味を指した。
「いいんですか」
「好きなんだろ」
「はい。好きです。……あの、お礼、まだちゃんとできてないので。また、連絡してもいいですか」
最初の答えがあまりにはっきりしていたので、俺は一瞬、続きが頭に入ってこなかった。菓子の話だ。ちゃんと、菓子の話だった。白河さんは包みを自分のかばんへ入れたあと、スマホをにぎり直した。
「うん。お礼じゃなくても、いいけど」
「じゃあ……退院したかとか、聞いても」
「それも、いいよ」
連絡先を交換した。俺が入力に手間取っているあいだ、白河さんは画面を急にのぞき込んだり、代わりに操作したりしなかった。届いた最初の文は、『白河です』だった。知ってる、と打とうとして、やめた。知ったのは、ついさっきだ。十五年かかった名前だった。
白河さんが帰ると、部屋が少し広くなった。カズヤが空いた椅子を壁へ寄せ、菓子の欠片を一つ拾った。
「お前、ちゃんと断るようになったな」
「何を」
「嫌いな味」
俺は箱を見た。コーヒー味のあった場所が、二つ空いていた。
「前から言ってただろ」
「俺にはな」
カズヤはそれ以上言わず、自分の飯の袋を閉じた。廊下を、誰かが歩いていった。俺は開きかけた口を、閉じた。言ってみればいい。変な夢だった、と言えば、笑って終われる。それなのに、なかなか出てこなかった。
「カズヤ」
「ん」
「事故のあと、変な夢を見たんだ。別のところで暮らしてた。家があって、家族がいて。昨日まで、ずっとそっちにいたみたいで」
カズヤの指が止まった。夢なんだけどな。その一言を、足せなかった。カズヤは袋から手を離した。笑わなかった。
「その夢、何年だった?」




