十一話 恥ずかしがり屋と恥知らず
朝起きて洗面所に向かい、顔を洗う。
この家には水道という設備が配備されている。蛇口というハンドルを捻ると水が出てくるのだ。日本では普通らしく、不便さに我慢できなかった先生が、自分用の井戸から水を引いて作ったらしい。日本人の執念は凄まじい。
エルクなどは水魔法でなんとかするらしいが、俺は魔法が使えないのでこの設備が非常にありがたい。
ばしゃばしゃと何度か顔を擦っていると、何やら慣れない手触りがしたので、顔を上げて鏡を見る。すると。
「これは……髭?」
鼻の下にぴょろっと毛が生えていた。細いが、確かにある。
そうか、俺も十一歳。考えてみれば髭も生え出す時期か。しかし、ここまで伸びるまで気付かないとは……
リビングへ向かい、先生を探す。先生は既に起きて、煙草を片手に珈琲をすすっていた。
「おはようございます。先生、カミソリってありますか?」
「ん?どうした」
「ここ。髭が生えてきたみたいで」
「ああ、そうか。それくらいの歳か……カミソリなら風呂場に私のがあるから、今日はとりあえずそれを使うといい。カイン君のも買っておかないとな……」
「ありがとうございます。一番安いのでいいですよ」
「助かるよ。最近少し財布が心許なくてね」
風呂場に向かって、鏡を見ながら髭を剃り落とす。うーん、不思議な感じだ。自分の身体が自分の知らない形に変わっていくような……。
少し不安だが、しかし少し嬉しい気持ちもある。これから身体が変わっていけば、俺に気付く者も減るだろう。子どもと大人の見た目は当たり前だが大きく違う。
ついでに身長も伸びると嬉しい。最近、小柄だと思っていたエルクとの身長差が詰まってきている。男の子としては由々しき事態だ。
現在、俺は指名手配がされている。随分前のことだ。
手配書の似顔絵は随分金をかけたのか、一目で俺だと分かる出来だった。あれが広まれば、一般人にも見られてはいけなくなる。先生が匿ってくれていなければ、俺たちは気付かないまま騎士に捕まっていただろう。
手配書のことは先生が伝えてくれた。外に出た時に壁に張り出されていたらしく、一枚とって持って帰ってきたのだ。俺とエルクは先生に迷惑をかけないためにこの家を出ようとしたのだが、先生に「今出るのが一番危険だ」説得されてしまった。
とはいえ、いつまでも迷惑をかける訳にもいかない。手配書が張り出されてもう数ヶ月、ほとぼりも冷め始める頃だろう。
俺は今の生活を気に入っている。それは多分、エルクも同じだ。でもそれは、先生の立場や命とは比較にもならない。
そろそろ、これからの事を考えなければいけない時期だ。
リビングに戻り、先生と珈琲を飲みながら雑談を交わしていると、扉が開く音がした。エルクが起きてきたようだ。
「おはよう、エル……」
その姿を見て、俺は言葉を失った。
エルクは泣いていた。それも、すすり泣くような、少し申し訳なさそうな涙だ。
何かあったのかと思い、俺はエルクに駆け寄ってその涙を拭った。
「エルク、どうした?怖い夢でも見た―――」
「よ、寄らないで!!」
エルクは俺を突き飛ばした。
えっ、痛い。
体は痛くないけど、心が痛い。
「せんせぇ……」
「エルク、どうした……あー、なるほど……君たちは二人揃って……」
先生は溜息を吐いて、蹲る俺を足でどかし、どこかへエルクを連れて行った。
数分後。
エルクは落ち着いたようで、先程のことを謝ってきた。それを先生はニヤニヤしながら見ている。
俺が悪い訳じゃない、と言われたが……何なんだ?
エルクに拒絶されたのは初めてで、それは思ったより俺の心にダメージを刻んでいた。娘が反抗期に入った父親というのは、こんな感情なんだろうか。
その日の午後。俺はエルクと一緒にいつもの席に座らされていた。
向かいには先生。隣にエルク。目の前に珈琲の入ったカップが置かれた。エルクの方にはホットミルク。彼女は子供舌なので、珈琲が飲めない。
「はい、君たちに集まってもらったのは他でもありません。……エルク、大事なことだからカインに言ってもいい?」
エルクはこくりと頷いた。それを見て、先生は微笑み、そして俺に言う。
「カイン君。髭が生えてきたそうだね」
「え……はい」
「それと同じように、エルクにも初潮が来たようだ」
隣では、エルクが顔を赤くしている。どうしても下半身に目がいってしまうのをぐっと堪え、エルクの顔を見る。
「あ……と、おめでとう?でいいのか?」
「カインも、おめでとう……?」
「……まあ君たちがいいならいいんだが。セクハラになりかねないので他の人にはあまり言わないことを勧める」
先生はノートを俺たちに差し出す。中を見ると、白紙にペンが挟まっている。これにメモしながら聞けということだろう。
「という訳で、君たちに性教育を行う。特に第二次性徴においての身体と心の変化についてだ」
「……えっと。一応俺たち貴族の子なので、その辺はちゃんと教えられてるんですが」
「それはこっちの世界の、それも貴族の常識だよ。日本ではもう少し進んだところまで解明されているので、それを君たちに教える。
君たちにとっては恥ずかしい内容だが、一緒に居るなら必要なことだから……特にエルクは色んな心の準備をしておきなさい。色々教えるからね」
そうして、その日は先生による授業が数時間行われた。
最初は正直一回習ったことだし、と思っていたのだが、自分の体のことだという実感が芽生えたからか、正直想定以上に恥ずかしかった。
何より、隣でエルクがそれを聞いていることが恥ずかしかった。
―――――――――
「……では、これで授業を終わる。これからは、以上のことをしっかり心に留めておきなさい」
先生はそう言って立ち上がった。医者の先生というよりは、学校の先生といった口調だ。
先生は扉に向かって歩き……一瞬振り返ってにやりと笑い、退出した。
俺は恥ずかしさと、それから謎の気まずさを覚えていた。隣を見ると、エルクの顔は真っ赤だ。多分彼女も同じ感じの感情を抱いているのだろう。
そのまま、数分の沈黙。それを先に破ったのは、俺だった。
「ちょ、ちょっとトイレ行ってくる!」
俺は逃げた。いたたまれなかった。
向かう先は先生の部屋。
「先生っ!」
「ん?カイン君か」
先生は煙草を吸いながら本を読んでいた。
「せっかく人が気を利かせて二人にしてやったのに。気遣いが分からないやつだなあ」
「あんた絶対楽しんでるだろ!じゃなくて、なんで二人いっぺんにやったんですか!貴族の教育でも男女分けますよ!しかもあんな……心の変化にフォーカスした内容を……」
「あー、うん、日本でも普通は男女分けてやるなあ」
この女……
俺が真っ赤な顔で睨んでいると、先生は「待て待て」と手で制した。「んー」と少し考え、俺に座るよう促す。
「理由はあるんだよ。だって君たちずっと一緒に居るんだろ?お互いについてちゃんと知ってた方がいいと思う。女性は精神状態が不安定になったりもするんだぞ」
「別に、別々に教えてくれればいいでしょう……」
「まあそこはほら、君たちピュアだし。からかいたくなった気持ちもあるけど」
先生は煙草を消した。そしてにやにやした笑みを消し、俺に真っ直ぐ向き合う。
「恥ずかしかったろ?」
「当たり前です!」
「だからだよ。そんな恥ずかしい感情、軽々に人に見せようとは思わんだろう」
先生の言う通り、見せたくはない。自分の汚い部分のように感じて……特にエルクには知られたくないな、と思った。
……そういえば先生は、俺にエルクの考えを覗かないよう言っていた。こういう感情も含めてのことだったのだろうか。
「授業でも触れたけど、性欲ってのは人間……というか、生物として必要で、当然の欲求だ。むしろ、無い方が欠陥なんだよ。君たちにだって、もちろんあたしにだって存在する。
でも、自然界の動物たちと違って我々は人間だ。誰彼構わず交尾するわけにはいかないだろう?」
「そりゃ……そうです」
「でも、世の中にはそんな動物みたいな奴が居るんだよ。男女問わずね」
はっとした。
俺の頭に、思い出したくもない男の顔が浮かんだ。
「ま、貴族は子孫を残す義務もあるからある意味それも才能だけど……君たちはもう貴族じゃない。―――だったらあたしは君たちにはそんな恥知らずにならないで欲しいな、と思うんだよ」
「恥知らず……」
「そ。恥知らず。君たちみたいに恥ずかしがらないで、誰彼構わず自分の欲望をぶち撒ける人間。どこぞの侯爵みたいなね」
先生は続ける。……少し遠い目をしている。もしかしたら、誰かを思い出しているのかもしれない。
「日本には『日本は恥の文化だ』って言葉があってね。恥ずかしいって感情があるから、人は自分の感情を振り返れるんだよ。そして、そんな自分の恥ずかしい感情をたった一人、心から信じられる人にだけさらけ出して、認め合うんだ。その過程を恋愛と呼ぶ。……素敵だと思わないかい?」
「……はい」
「現実にそういう恥知らずは居る。確実に、どこの世界にも居る。でも、それはごく一部だ。君たち、お互いが恥ずかしがってるって分かってるだろ?」
授業中のエルクを思い出す。
真っ赤な顔で、俺の方をちらちらと見て、目が合ったら目を逸らして。
俺も、隣のエルクの存在が、何より恥ずかしくて。
「……はい」
「だったら大丈夫。君たちは恥知らずじゃないんだよ。興味や欲求はあっても、それをきちんと隠したいと思える。
なら、その欲求は宝になるから大事にして、いつか、二人のために使いなさい」
「……ありがとうございます」
俺は納得して、部屋を出ようとする。
と、そこで先生が表情をまた笑顔に戻し、からかってくる。
「あ、授業中も言ったけど、君たちの年齢での性行為は勧めないからね。特にここあたしの家だから」
「俺はまだ隠していたいです!!」
扉を閉めた。すると、エルクがちょうど先生を訪ねるところだったようで、鉢合わせる。
エルクは少しむっとした顔で俺を見た。
「……トイレじゃなかったんだ」
「あっ……と……え、エルクも先生に用?どうぞ……」
ここに来て気まずさと恥ずかしさに嘘をついた罪悪感まで乗っかった。俺の感情はもうぐちゃぐちゃだ。
感情に耐えかねて、その場を立ち去ろうとするが……
「待って!」
手を掴まれて、止められる。心臓が跳ねた。
不思議だ。昨日まではエルクに手を取られても、抱きしめてもなんとも思わなかったのに。
なんであんな話を聞いただけで、こんなにドキドキするんだ?
「あの……カイン。ちょっとお喋りしよう?」
緊張した顔でエルクが言う。
俺はそれに、頷くしかなかった。
リビングに移動して、早々に飲みきった珈琲と牛乳を注ぎなおす。いつもの席とは違って、向かい合う形で俺たちは座った。
妙に喉が渇くので、珈琲に口をつける。そういえば先生が珈琲で喉は潤わないと言っていた気がする。……水にすればよかったか。
「カイン。あのね……私、先生との会話、聞いちゃった」
「!」
やばい、なんか変なこと言ってなかっただろうか。
エルクは牛乳に口をつけ、しばらく黙って俯いたあと、突然立ち上がった。そして、俺が座っている隣に来る。
「ん!」
エルクは腕を広げて俺の前に立つ。俺は一瞬、意図がわからず困惑した。けれど、その行動が指すものはどう考えてもひとつしかない。
い、いいのか……?先生も「男性は女性にみだりに触れてはいけない」と言ってたけど。これはみだりじゃないのか?むしろみだらじゃないか?
ごちゃごちゃ考える俺をエルクは見つめる。意を決して俺は立ち上がり、エルクを抱き寄せた。
「……」
物凄く緊張する。心臓がばくばくして、普段は気にしていなかった部分も、どうしても気になってしまう。
エルクの吐息。
エルクの心臓の音。
エルクの柔らかさ。
数分間そのまま黙っていたけれど、エルクが呟くように話しかけてきた。
「カイン、心臓すごい……」
「……エルクだって」
「なんか……緊張してるもん」
エルクの呼吸は少し激しい。きっと俺もだ。エルクに聞かれていると思うと急に恥ずかしくて、俺は努めて呼吸を遅くした。少し苦しい。
「あのね、朝は突き飛ばしちゃったけど、私、カインにこうされるの嫌じゃないよ。恥ずかしいけど……」
エルクが、そう話し出した。
「心臓がうるさいし、顔も真っ赤になるし、胸が苦しくなる。でも、これって変じゃないんだよね?恥ずかしいのも、いいんだよね?」
「……先生は、そう言ってた」
「へへ、二人のために使えって言ってたよね」
エルクが笑う。俺も少し笑った。緊張が解れて、なんとなく、嬉しさとか、恥ずかしさとか、そういうよく分からない感情をより強く感じるようになった。
「不思議だよね。カインも同じなのが伝わる。恥ずかしくて、ドキドキして、ちょっと今緊張がほぐれたよね」
「凄い。超能力みたいだ」
「へへ、私もテレパシーが使えるようになったみたい」
俺も、テレパシーなんて使わなくてもわかる。きっと、エルクと俺は今同じ気持ちだ。
感情の共有はなんとなく心地よくて、そのまま二人で抱き合う。
心臓の音さえも、同じテンポを刻んでいるような感覚。
「……あのね、カイン」
「うん?」
「ずっと、一緒に居てね」
「……うん」
時間もよくわからないまま、しばらくして俺たちは身体を離した。お互いに顔は真っ赤で、それを見てまた笑った。
それからは気まずさも解けて、いつも通りに過ごすことが出来た。先生は安心した反面、ちょっと残念そうだった。微妙な感じになっている俺たちを見たかったらしい。本当、この人は……
いつも通りの俺たちだけれど、俺は今日初めて。
本気で、エルクと結婚したいと思った。
そんな気がした。




