俺の分岐点~津島先生は『バグ先生』~
俺こと水町の高校時代のとある二日間を描いた人生の分岐点のお話。明日は津島先生が退職するのだが、その先生の授業の終わり間際に奇妙なことを言うのだった。
「僕は『バグ先生』だ」
黒板に書かれた文字。つらつらと白いチョークで書かれては、時折黄色や赤いチョークで重要なところを囲んでいく。その後に自分で書いた部分を教科書と照らし合わせたようにして、読み上げる。
それが津島先生の授業の仕方だ。現在五十九歳、今日明日で定年退職をするそうだ。この先生、いくら今年が定年退職だからと言って、意味不明だったり、無鉄砲な発言をしていた。それで俺たち生徒の陰では『バグ先生』だなんて可哀想なあだ名がついてしまう始末。どこから聞きつけたのかは知らない。
「僕は『バグ先生』だ」
今日の授業が終わる間際にそのようなことを言った。この直後に何とも言えない息苦しい空気が漂い始める。誰もが津島先生の方を見ようとせず、自身の机を見つめるばかり。いつもはお調子者のグループの連中も黙って下を向いていた。
この耐え難い空気をどうにかして欲しかった。先生ったら、俺たちの方ばかりを見ている。その視線が痛いのだ。「僕は『バグ先生』だ」という発言の後に何も言わないのだから。目玉だけを動かして、他は動かしていないのだから。
早く授業よ、終わってくれ。
おそらくはクラスメイト全員の心の叫びだと思う。普段は気の合わないケバケバしい化粧をした女子でさえもそう思っているに違いない。
どうしたらば、いいのか。俺が津島先生を見ないように視線を逸らしていると、その女子――竹田の視線にも気付いた。
――どうにかしてくれない? アンタ、委員長でしょ?
きっと、竹田はそう思っているだろう。だが、俺が委員長だからと言って、この形容し難い空気をどうにかできる程にできた人間ではない。それぐらいは彼女も知っているはずなのに。結構な頻度で俺のことを「不器用」だなんて言っている癖によ。ああ、そうさ。俺は不器用だ。この前の美術の時間に描いた絵を見て、誰もが失笑をしていたんだからな。その止めとして、彼女が「不器用だね」と鼻で笑っていたんだ。
そう言っていた竹田自身も美術の先生に描いた絵を見せて犬と猫を間違えられていたんだけどな。
というか、今は竹田の話をしている場合ではない。誰も一言を発さない空気にした津島先生のことである。
心なしか、彼女を始めとして、他のクラスメイトもこちらへと視線を向けているように見えた。だから、なんで俺に助けを求める? 俺、どうしようもないってのに。
ほとんどの視線が俺に向けられているせいなのか、津島先生も俺の方を見てきた。これでは俺が先生に対して『バグ先生』ってあだ名をつけた犯人みたいじゃないか。先生、俺じゃないからね! 俺、先生とかに気安くあだ名をつけるほどの器量を持ち合わせていないからね!
つーか、『バグ先生』だなんて可哀想なあだ名をつけたのって、四組の長嶋じゃねーか! それ、みんな知っているじゃねーか!
全員の視線が痛い。そう思っていた時だった。ここで救世主が――。
授業が終わるチャイムだ! やっと授業が終わった、あー疲れた。なんていう嬉しい思いよりも更に強い喜びが俺を支配していく。さあ、先生。授業は終わったぞ! これで日本史の時間は終わりだ! 次は体育だから、日直の小林! 早く号令をかけろ!
そう俺の思いが小林に伝わったかは知らん。彼は少しだけ慌てたようにして「起立」と終業号令をかける。それにつられるようにして、クラスメイトたちは席を立つ。
「気をつけ、礼」
「…………」
津島先生は何も言わずして、俺たちの教室から去って行ってしまった。何という緊迫した時間だったんだろうか。そんなに時間は経っていないだろうが、小一時間はそうしていた気分である。
「ちょっと、水町ぃ!」
終わった直後に何もしていない竹田が来た。ちなみに、水町は俺の名字である。
「なんであんな空気をチャイムが鳴るまで何もしなかったのよ!」
「お、俺に言うなよな。ていうか、みんな寄ってたかって俺を見ないでよ! 何か先生に変なあだ名をつけた犯人が俺みたいな空気になってたじゃん!」
「でも、アンタは委員長じゃん」
「確かにそうだけどさ、それとこれは関係ないよね? 俺が委員長だからと言って、どうにかできる状況だと思う?」
「だから、そこを何とかしなさいよ。委員長なら」
竹田とよくつるんでいるおしゃれ女子の日野までもが無茶を言ってくる。だから、なんで俺に期待するの? 委員長の権限って言うほど強くはないだろ。二人の発言の方が強いだろ。そこでジャージに着替えているクラスのリーダー的存在の青木を巻き込むほど。
「まあ、あれだよね。あの空気は誰だろうと、どうしようもなかったと思うよ。一番の健闘賞は小林じゃない?」
ここで学年一イケメンと名高い宇田が割ってきた。流石はイケメン。この面倒臭い女子どもを一掃できる言葉を持っているとは。彼がやって来たことにより、二人は逃げるようにして俺の下から去って行ってしまった。
「……あ、ありがと」
「いや、いいよ。というか、青木にも言ったけど、明日津島先生の退職日だろ? だから、クラスのみんなでカンパし合って、先生に何かを送らない?」
「あ、ああ。それもそうだよな。うちのクラスは三十八人だから、一人百円ずつで何とかなるかな」
「だね。ハンカチと花ぐらいが妥当かな? どう思う? 青木」
何も俺たちだけで考えるのはどうかしている。それだからこそ、既に次の体育に向けて準備万端の青木に意見を求めた。それに彼は「いいんじゃね?」と早速話を聞いていたのか、俺に百円を渡してきた。どうやら、買うのは俺らしい。
「俺はハンカチを買ってくるから、花束は水町な」
そういうことか。
「てかさ、俺が花屋に入るのってちょっと似合わないよね。でも、水町なら似合うさ」
そういうこと――いや、納得できん。なんで花屋に青木が似合わなくて、俺が似合うんだ。どこからどういう基準で決めた?
そう俺が疑心に思っていると、イケメン宇田は「確かに」と頷いていた。
いや、意味が解らないから。どこに俺が花なんて似合う要素があるよ?
「水町って、花屋のレジカウンターで小さなかごみたいなのに花を突きさしている姿が似合うかも」
「……もしかして、バスケットのことか? それなら、まだ女子たちが買いに行けばいいだろ」
「いやいや、どうせ水町は帰宅部だろ? 行ってらっしゃい」
青木と宇田の強引さに、勝手に花束を買えと決めつけられた俺。それを機にクラスで着替えていた男子たちに百円を受け取らざるを得なくなってしまった。
「後は女子たちだな。あいつらからは俺が貰うわ」
だけれども、こういう時はすごく頼りになるんだよな。青木って。
◆
少しだけ緊張しながらも、バスケットに入った花を購入して、俺は翌日に持ってきた。なるべく、他の先生たちにも見つからないようにして。何だか、今日はいつにもまして校内の雰囲気が違う気がしたから。
「おお、水町似合うな。お前さ、将来花屋になれば?」
教室に入るや否や、青木にそう言われた。なんでこいつに俺の将来を決めつけられなければいけないんだ。
「ならないよ」
「そお?」
青木はそれよりも、と昨日の内に購入したのだろう。綺麗に包装された物を見せてきた。
「昨日、モールで買ったんだ。意外にギリギリ足りたけど、そっちはお金足りた?」
「うん。お金に見合う物を作ってくれたから」
それならば、ちょうどいい金額の買い物をしたということだ。それに満足しながら、日本史の授業を待った。
授業が始まるチャイムが鳴った。俺たちは終わり間際にすぐに出せるようにして、花束とハンカチを隠して授業に挑む。
津島先生は少しばかり遅れて教室にやって来た。ロボットの着ぐるみを着て。
「…………」
昨日も気まず過ぎる空気が漂っていたと言っていたが、今がそれの百倍気まずい空気だと断言できる。今回ばかりはクラスメイトたちは俯かずに、何とも言えない表情で先生を見ていた。
「はい、授業を始めるぞ。日直」
「あっ、は、はい。き、きりーつ」
今日の日直である女子の近藤は戸惑いを隠しきれずして、何故かこちらを見ながら号令をかけ始めた。だから、俺を見るなって。こちらの方がどう扱っていいか分からないから。
号令をかけ終えて、津島先生は「それじゃあ教科書百六十三ページ開いて」と授業を始める気だ。やるのか、その格好で。できるのか、その格好で。
「――であるからして、○○が○○を行ったのだ。それが○○○な」
やばい、どうしよう。あまりの衝撃的過ぎて授業内容が頭に入らない。重要事項のところが虫食い状態になって、受ける授業を阻害されている気分だ。いや、教科書を見ればいいのか?
いいや、授業内容よりも先生が気になって仕方がない。なんでロボットの着ぐるみをしてんの!? まさか、昨日の『バグ先生』だからか!? いや、それは全く関係ないだろ!
誰もが先生の唐突な格好に着いていくことができずして、周りを見始める。お喋りはやめておいた方が良い。それは彼らも十分承知しているようで――。
「キミたち、授業は真面目に聞きなさい。キョロキョロしない」
いや、するわ。先生のそれのせいで。
「ここらへん、多分期末に出るからしっかり聞くように」
いや、聞けんわ。先生のそれのせいで。
「それに、真面目に聞いている人の迷惑になるからな」
いや、既に迷惑になっているわ。先生のそれのせいで。
何なの!? 何なの、この先生! 何が狙いなんだ!? いくら今日で高校生に授業を教えるのが終わりだからと言って、こんなおふざけをして!
俺はとある視線に気づいた。やっぱり竹田だ。彼女の視線から感じられるのは――。
――委員長なら、なんであんな格好なのか聞けよ。
だろうか。うるせーな、知りてーなら、自分で聞いてくれ! 残念ながら、俺にはその質問をするという勇気は持ち合わせていないから。
ついに竹田はメモを寄こしてきた。
『センセイになんであのかっこうなのかきいてよ』
ひらがなばかりで気にはなるが――俺は彼女にお返しのメモを渡した。
『そんなもの、自分で聞いて』
『いいんちょーならきけよ!』
『おれにそんな度胸があるわけないだろ!』
『なにむずかしい漢字をかいているんだよ!』
いや、難しくないだろ。
『とにかく、おれはイヤだからな』
これを機に竹田からはメモがやってくることはなくなったが、代わりに突き刺さるような視線を貰うこととなる。いや、気になっているなら、自分で聞いてくれって。
というか、俺たちのやりとりを津島先生は気づいていないのか、すらすらと黒板に板書していく。それよりも、よく着ぐるみを着たままチョークを握れるな――って、あれ? 着ぐるみの右手の方、チョークをガムテープで固定してる!?
そこまでして着ぐるみを着たいの? 先生は。
なんて俺が困惑していると、再び竹田からメモが飛んできた。
『はよきいて』
だから、自分で聞けって。気になるけど。
返事するのも面倒臭くなった頃になって、後ろの席に座っていた室岡から「日野から」とメモ用紙を貰った。
『はやくせんせーにきぐるみきているりゆうをきけって』
なんで俺なんですか。
俺は離れた席に座っている日野の方を瞥見した。彼女はじっと竹田と変わらない視線を送ってきているではないか。
俺が日野の視線に少しばかりたじろいでいると、またしても竹田から催促のメッセージが飛んでくる。
『ほら、青木もしりたがっているから。はよきけって』
青木ぃ!!
今度は青木の席の方を見た。彼は先生の目を盗んで俺に聞けというジェスチャーをしてくる。いや、お前が聞けよ。俺より確実にお前の方が適任だろうが。というか、これこそ、青木の似合う物じゃん。リーダー格としての特権じゃん!
俺は青木に自分で聞け、と視線を送った。それを読み取ったのかは定かではないが、彼のジェスチャーは激しさを増した。いいから、さっさと聞けって。などと言いたげのようだ。
だから、なんで俺なんだよ。
青木がこうなれば、自然とクラスメイトたちの視線は自ずと俺の方に集中する。もう逃げることはできなさそう。
俺は仕方なしに聞くしかなかった。
「……あ、あの、せんせー……」
「――であり、ここは……ん? どうした、水町」
絶対気のせいじゃない。津島先生の声音が少し明るく感じたぞ。
「な、なんで、着ぐるみを着て授業をしているんですか?」
ついに聞いた。タヴーっぽいことを。
俺の質問に対して、津島先生はなんて言ったと思う? 答えは――。
「反問しますが、どうして僕がこのような格好をしていると思いますか?」
分からないから、聞いているんですが?
俺がここで少しばかりイラついたのは内緒だ。しかしながら、先生は何という斜め上のことを言ってくるんだ。逆に質問をされて、困るんだけど。
「――ならば、昨日の言葉を皆さんに送ります。僕は『バグ先生』だ」
「…………」
「教師生活において、僕が生徒から言われたのは『津島先生』か『先生』の二択です。おそらくではあるけど、陰ではあだ名で呼ばれていたんだと思うけど、それを僕は知らない。だけど、一週間前になって、ようやく自分のあだ名という物を聞きました」
それが『バグ先生』。
「命名理由も聞きました。結構な爆弾発言をしていたから。これは事実です」
しんとしている教室。隣のクラスから授業している声が聞こえていた。
「僕はただの先生で教師生活を閉じたくなくなった。今更ながら、後悔しています。だから、まだ間に合うかもしれない。そう思って、どんな形でも良いからあだ名が欲しかったんです」
「…………」
何という理由であろうか。それでも津島先生は言葉を続けた。
「一番は『普通』かもしれません。それが『無難』というものでもあります。人の人生において、それが一番安定しているでしょう。しかし、ずっと安定した人生ほどつまらない物はありません」
先生は教科書を閉じた。
「何かの行動を起こせば、人生の分帰路は大きく変わる。視野が広く見える。それはこの日本の歴史でもあるように、今の僕の教師生活でもあるように」
そう言うと、先生は俺に着席するように促した。もう誰もが視線を俺や机ではなく、津島先生に向けていた。
「皆さんも、目の前に見える道を走るのではなく、横道に逸れてみてください。冒険をしてみてください。それが、教師生活最後の僕の思いでもあります」
先生の言葉に胸を打たれた俺たちは気がつくと、拍手を送っていた。先生は本当は最初からこういう風にはっちゃけたかったのだ。だが、もう教壇に立ち、俺たちに教鞭を振るのは今日で最後。
ややあって、授業の終りの間際に俺と青木は津島先生に花とハンカチを送った。先生はそれらを受け取ると――。
「ありがとう。水町君は花が似合うね」
とても嬉しそうな顔をしていた。
それが、俺が花屋になったきっかけでもある。今では考えられなかったが、こうして花に囲まれて毎日を過ごしている。
花の世話に勤しむ俺の下に、一人の人物がやって来た。俺は嫌な顔一つもせずに、客に向かって笑顔を向けるのだった。
「いらっしゃいませ」




