9章 『もし』の話
それは目を覚ました後に思い出すことができないほど、朧げな夢だった。
『ねええぇえ! なんでっ、どうしていきなり殴ってんの!? あんたさ、マジで何考えてんのバッカじゃないの、ねえ!!』
中学校の教室で、純度の高い怒りを含んだ声が響いていた。
顔を真っ赤にしながら声を張り上げている女子たちと、その目の前で怒りを露にする詞音、そして彼女たちを見て何かを囁き合うクラスメートたちがそこにいる。
きっかけは、些細なこと。
女子グループが会話に花を咲かせているときに、その内の一人が詞音の机に座ったのだ。
そこに侮蔑的な意味合いはなく、別にクラスではよくあることだった。
だが、トイレから戻ってきた詞音がその光景を見て、彼女たちに近付き、躊躇することなく思いっきりブン殴ったのだ。
一発、二発、そして三発目の拳を振り上げたところで、その腕は正義感の強い男子によって止められた。
殴られた女子は蹲って泣いていて、そんな彼女を庇うようにしながら、女子グループの一人が詞音に怒号を放つ。
それが、先ほどの言葉だった。
対する詞音も憤怒に満ちた表情を浮かべ、唸りながら彼女たちを威嚇している。
彼女には自身が加害者だという自覚はなく、むしろ被害者であるという認識さえあった。
……そう、だって、彼女の家ではそうだったのだから。
許可なく椅子に座れば罰、ブン殴られて蹴り倒されて、頭を掴まれて床に顔面を叩きつけられる。
母親から受けた出来事は、痛みと傷によって彼女に捻じ曲がった常識を植え付けていた。
だから、許可なく机に座る行為は、彼女にとって暴力が容認される事態だ。
……それ故に、詞音には自分の行いがどれほど異端なものかを理解できない。
一切悪びれる様子もなく、逆に女子グループに対して謝罪を要求するような目つきを向けている。
だから、もちろん、拗れないはずもなく。
争いは徐々にヒートアップし、誰かが職員室から先生を連れてくるまで罵詈雑言の嵐は続いた……。
そして、騒動は当人たちだけでは収まらず――。
『……この度は誠に申し訳ございませんでした……詞音にはよく言い聞かせますので、どうかご寛恕ください……』
職員室の奥にある応接室で、宗一が深く深く頭を下げていた。
彼の正面に居るのは教師たちと、被害に遭った生徒たちと、その保護者だ。
そして宗一の隣には、仏頂面でそっぽを向いている詞音がいた。
あんなことがあれば、保護者が呼び出しをくらうのも当然だ。
しかし琴浦家の祖父母は足が悪くて外出が難しく、駆り出されるのはいつも決まって宗一だった。
彼がここに来るのはもう片手では数えきれない回数だし、頭を下げた回数は両手両足の指を使っても数えきれない。
『琴浦さん。あまり問題を起こされるとね、こちらとしても困るんですよ。……前々から打診しているので再三になりますが、学校に通うよりも、専用の機関に預けるほうが本人にとっても幸せではないですか?本人の反省もないようですし、言い聞かせても改心するとは思えないんですよね』
『本当に申し訳ございません……どうか、どうかもう少しだけ……』
詞音が虐待を受けて、心身ともに重篤な傷を負っていることは学校側も理解していた。
だから、そういった子供たちが通う施設への転入を何度も推奨していたのだ。
だが地理が悪かった。
家から一番近い施設であっても距離が離れすぎていて、自宅から通うのは困難を極めるほどだ。
だからそうなれば、施設に寝泊まりして生活することになるだろう。
だが詞音はそれを嫌がった。
宗一と会える機会が減ってしまうから。
だから、無理矢理にでも今の中学校に通い続けている。
かつて詞音が問題を起こしても、母親がヒステリックを起こして学園側を糾弾したので対応しあぐねていたが、琴浦家で暮らすようになった今、学校側は徐々に語気を強めながら施設への移動を迫っているのである。
宗一にできることは、ひたすらに頭を下げて、どうにか穏便に済ませてもらうことだけだ。
『……だからね、そういうことがあっても人を殴っちゃダメなんだよ。暴力はダメって前に言ったよね?』
どうにか事なきを得て、宗一と詞音は肩を並べて帰路についている。
夕焼けが彼らをもの悲しい色に染め上げていた。
『でも、あのゲスババアは暴力じゃなくて教育って言ってた』
『ダメだよ。どんな名目だろうと人に危害を加えたらいけないの。……もう二度としないでね?』
『……ん。わかった』
何故人を殴ってはいけないのか、きっとそれを理解することはできていない。
彼女にとって暴力は当たり前で、母親から教わった最大のコミュニケーションなのだから。
もし自分が殴られたら痛いでしょう?
だから、人を殴っちゃダメ。
……例えそう言ったとしても『じゃあなんで今まで自分は殴られ続けてきたのか』『他人は自分を傷つける存在なんだから、自分が殴られる前に相手を殴らないといけないじゃないか』と彼女は思うだろう。
十五年間かけられ続けた呪いは、そう簡単に解くことなどできなかった。
『……』
自分たちはきっと、あらゆる人に迷惑をかけている。
宗一は分かっていた。
詞音が今の中学に通い続けることはよくないこと、無理矢理彼女の在籍を引き延ばす自分もよくないことをしている。
それくらい、分かってる。
でも、十五年ずっと虐待され続けた少女に、これ以上悲しみを与えられない。
唯一心を許す兄と離れ離れになる辛さなど、与えられるはずがあるものか。
だったら今まで楽しく生きてきた他のクラスメートが我慢すべき……あぁああぁああ……ダメだダメだ……こんな思考、母親と同じだ……自分たちの不完全さによって発生した迷惑を、他人に我慢させるのは最低なことだよ……でも、でも、でも……これ以上詞音を悲しませられないし、これ以上心をすり減らすのはもう……どうしよう、どうしたら……。
宗一の心中に渦巻く慟哭は、ともすれば口から零れ落ちてしまいかねなかった。
『……』
今一度、宗一は思う。
自分を鼓舞するかのように、自分を慰撫するかのように。
何度も何度も頭の中で思い続けた、一つの話を。
これは『もし』の話だ。
もし、詞音という存在がいなければ……、……………………。
茜空を見上げながら宗一が思ったその言葉は、絶対に、詞音には言えない内容だった。




