5章 魂の寄る辺
盛夏と呼ばれるような季節であっても、夜の空はやや寒々しかった。
地上と違って空は様々な熱が伝わらず、まるで秋の道を歩むかのようだ。
だから二人は家にあった上着を羽織り、見知らぬ誰かの自殺予定地へと向かっていく。
今宵、自殺が執り行われるのは街の外れにある密林だった。
自殺者たちは駅前で集合し、主催者の車で密林に移動するとのこと。
そして車内で練炭を焚き、一酸化炭素が致死濃度に達するまで燃やし続けるありがちな自殺方法だ。
彼らに先回りするため、宗一たちは予定時刻の十五分前には現場付近に来ていた。
「……なに、あれ」
密林上空に辿り着いたとき、詞音が木々の隙間を指さしてそう言った。
青葉の隙間から見える僅かな光は、恐らく車のヘッドライト。
そして車付近では複数の影が動き、何かをしているようだった。
こんな時間に、こんな場所へ来る輩など、地主か自殺者か刺激を求めるカップルくらいだろう。
宗一の頬に冷たい汗が一滴流れる。
「まさか、早く着いたからって予定が前倒しに……?」
「降りるよ宗一、人影が動いてるならまだ間に合う!」
千載一遇の自殺を逃すわけにはいかない。
二人は勢いをつけて降下していく。
緑生い茂る密林に降り立った二人は……そこで、想定外のものを目にする。
確かに自殺者の車はそこにあり、本来自殺する予定だった人間たちもそこにいた。
そして有事を引き起こすための練炭は存在するし、レンタカーの内部にはガムテープで厚く目張りがされていて逃げられないように密閉されている。
だが、その車のフロントガラスは割れていた。
そして車内を覗き込む、スーツで身を染めた二人の男女。
……人ならざる存在の数え方が、本当に『人』で良いのであれば、だが。
「おや……」
二人組の男女の内、女性が宗一たちを見てそう呟いた。
やや遅れて男性が視線を動かし、突然の邂逅に固まっている兄妹をしげしげと眺めてから、再び車中に視線を戻す。
女は、まだ二十代後半くらいの外見をしていた。
艶の良いピンクブラウンの長髪と、透き通ったウォーターグリーンの瞳。
少しだけ幼さを残したその顔はどこか詞音に似ていて、まるで十数年後の姿を表しているかのよう。
男は、三十代後半くらいの外見。
若紫色の髪は少しだけ薄く、目元に残った隈はどれだけ休んでも取れなさそうなほどに濃い。
若かりし頃死ぬ気で働いていた、と言われれば納得してしまうくらいには苦労の残る顔をしていた。
そして二人の背中には、天使の両翼が生えそろっている。
女の背にはルミネセンスのように科学的な緑色に光る翼が、男の背には中心に穴の開いた漆黒の翼が備わっていた。
兄妹の警戒心を解くように、女は満面の笑顔を浮かべて両手を広げる。
その手に何も凶器など持っていないと証明するかのように。
「やあ、やあ、やあ! 偶さかな邂逅だね少年少女諸君! 戒心など止めてまずは出逢いのハグでも駆けつけ一回どうかな?」
喜色満面な女性に対して前に出たのは宗一だった。
「どうも初めまして。ハグは妹に殴られそうなので残念ながら遠慮しますが、握手などは如何でしょう?」
「いいね! 巡り合いを祝した握手は得意分野だ! 満足いくまで手を交わそうじゃないか!」
その明るめの女性と、柔和で人当たりの良い宗一が固く握手を交わす。
初対面というシチュエーションに滅法強そうな二人だからこそ早速の挨拶を交わしているが、警戒心の強い詞音は後ろで警戒の唸りを上げていた。
「君たちもアレだろう、私たちと同じく死んで蘇って天使に成った同胞だろう? じゃあここに来た理由も同様か、これはこれは、類まれなる利運だ!」
彼女がそう告げたところで、車を漁っていた男が車中から練炭を取り出した。
僅かに燻ってはいるがまだ焚き始め、車中で気絶している人間たちも命に別状はないようだ。
「あー、源治、それ処理しといて!」
女がそう命じると、男は己の羽を練炭の中心部に突き立てる。
その瞬間、練炭とコンロが木枯らしのように空を舞う。
そして天空に舞い上がり、ばらばらになって四方八方に散っていった。
種も仕掛けも存在しないその出来事は、天使という存在を知らなければきっと手品か見間違いだと思っていただろう。
だが『いない』と思われていた天使がいた以上、どんな出来事も『ありえない』と一笑に付すことができないのが今の宗一だった。
「君たちもこの自殺者たちを救済しにきたんだろう? これは誠に申し訳ないと言わざるを得ないね、しかし天使の理念は早い者勝ちと言うからどうか恨まずに――」
と、そこまで言って女の言葉が止まる。
彼女の視線は宗一たちの手の甲に向いていた。
「……と、言いたかったけど君たち死にかけか。そりゃ我々を恨むね、ああ恨むともさ!」
演劇部のように身振り手振りをしながら、どうしたもんかと女が男と顔を見合わせる。
別段男に意見を聞こうとしているわけではないのだろう、彼女は一人でうんうん頷いて一人で結論を出し始めた。
「良き哉良き哉、これも縁だ! どうせ君たち新人天使だろう? 釣り逃した魚の分、生き抜くための秘訣を教えてあげよう! 同盟同盟、天使同盟さ!」
女が片手を差し出しながら近寄ってくる。
その顔にはピースフルこの上ない笑顔が浮かんでいて、宗一たちに危害を加えようなんて腹積もりは感じられない。
しかし、それに応じようとした宗一の手を、詞音が掴んでいた。
鋭い視線で女をねめつけ、獣のような唸り声を上げて羽を逆立てる。
「宗一にさわんなッ! ……素性も身分もわからないヤツと手を組む道理なんてあるか、あっちいけ!」
「詞音ちゃん……」
「こんなあやしい女信じるの!? 何の得もないのにたすけになるって言ってるんだよコイツ、どう考えても裏があるにきまってる……!」
詞音の反応は間違いではない。
甘い話に乗れば苦渋を嘗めることになるのは世の中の常、その点に関してはあまりにも宗一が無防備すぎた。
だから、女は少し考えてから言葉を紡ぐ。
「怪しいと言われれば、それはまあ全く以てその通りではあるね。然し、然しねお嬢ちゃん、例えば君たちが偶然自殺者を見つけて急場を凌げたとしよう」
女は詞音の様子を窺いながら、子供に言い聞かせるような声で言う。
「でも一時的に死から逃れられたとして、君たちはそんな調子で生き続けられるのかな? このまま行けば窮地に瀕して人を殺すしかなくなる、賢しければ自明だろう?」
「……そう、ですね」
それくらいならば、宗一にだって想像できていた。
この自殺者救いもその場凌ぎの策でしかなく、やがて立ち行かなくなることは必至だと。
人を殺すことに対して、人を救うことのなんと難しきことか。
このままでは死を選ぶか、死の恐怖に屈して他人の命を奪うかのどちらかだ。
そう考えると、天使規則に綴られたこの条件は非道なものでしかない。
人を殺さずに生き続けられる道を用意しながら、最終的にはその難易度に屈させ、殺人を容認する存在へと変貌させようと目論んでいるのだから。
天使なんて耳障りのいい建前でしかなく、本当は悪魔を作り出すのが目的であるかのように。
この条件下で、善意だけを寄る辺として生き続けられる者などいるはずがない。
「そう、私たちに課せられたこの規則は悪魔の所業。誰も殺さずに生き続けるためには、個の力では抗いきれない。……だって元来、この規則は天使同士の協力を前提としたものなのだからね」
そして彼女は割れたフロントガラスの片付けをしている男に目線を向けてから、改めて宗一たちに向かい直る。
「だから君たちにも、その円環に加わってほしいんだ。生きることすら儘ならぬ天使の宿命に相対するため、一人でも多くの天使が必要不可欠なのだから。尤も、仲睦まじき二人だけで生き延びたいなら無理強いはしないけどね」
彼女にはこの兄妹がどう見えているのか、変に微笑ましそうな視線を向けている。
家族であることすら告げていないのだから、きっとカップルか何かだと勘違いしているのだろう。
詞音はそれでも訝し気な視線を向け続け、指を一本立て始める。
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
「何なりと」
「どうしてあたしたちにそんな申し出をするの。協力が必要だから声をかけるというのは分かるけど、でも、まだ初対面でしょ。あたしたちが悪人だったらどうするの」
ふ、と女は軽く笑った。
笑い飛ばすというのが適切な笑いだ。
「笑止笑止、天使同士が肚を探り合うほど無駄なものはないよ。我々は清廉潔白であることを保証された存在だものね」
「なにそれ」
「死した人間が天使に成る条件はたった一つ! 自分の死よりも他人への心配を優先したお人よしだけが天使に成れるわけさ! さあ記憶を辿ってみたまえ、身に覚えがあろう?」
……思い返せば、飛行機事故が起こったあのとき、宗一は詞音のことを一番に想っていた。
爆発が起こり揺れる機内で、宗一は妹の身を庇った。
そして飛行機から身を投げ出されても尚、妹を想ってその身を緩衝材代わりにしようとしていた。
そして詞音も――宗一に気づかれないように小さな力で、その体を抱きしめ返していた。
それは怖くて抱きしめたのではない、宗一の体を引っ張って回転させて、自分が地面と直撃するよう仕向けて己を緩衝材代わりとするためだ。
その兄妹は、死の直前でさえも相手のことを慮り続けていた。
思い返せば、神のような存在もあのとき言っていたではないか。
『其方達は死の汀に、他者を慮る理知を持つ。
畜生道に堕ちることなく、万物の霊長たる矜持と自尊を持つ見上げるべき個だ。
……私は、その利他を尊重する』
他者を慮る理知を持った二人を尊重し、神は彼らに天使の身を与えた。
回りくどく惑わすような言葉ではあったが、確かに神は告げていたのだ。
「……」
宗一は背後で威嚇を続けている妹に視線を向ける。
彼女が他人を案じるとすれば、兄である自分しかいないと思ったから。
一方、視線を向けられた詞音は少しだけ頬に朱をさして、兄の横っ面に張り手をくらわす。
「湿度の高い目でこっち見んなっ。うったえるよっ」
「天使って憲法適用されるんかね……」
しかし、まあ、もしそれが本当ならば――しすぎる、という程まで警戒心を持つ必要はないのかもしれない。
宗一はそう思った。




