4章 述懐する地獄
時計の針が二十二時を示す頃、空には闇の帳が下りていた。
昼間の喧騒は水を打ったように消え失せて、粛々とした清閑が世界を包み込んでいる。
夜空に瞬く星々と、人の生活を示す街灯りが暗闇の世界で仄かに輝いていた。
太陽が夜を照らす日中よりも、世界が闇夜に包まれた今こそが光の世界に思えて仕方がない。
……暗闇を見るたび、宗一はそんなことを思っていた。
「……この家、売っぱらわなくてよかったでしょー。ちゃんと寝泊まる家のことも考えてるお兄ちゃん賢かろう?」
「しつこいなー。まだ行き当たりばったりって言われたこと根に持ってんの」
夕暮れまで繁華街で命の危機を探していた二人は、夜になって東京で暮らしていた頃の自宅へと戻ってきていた。
祖父が所有していたそこそこ広めの一軒家で、兄妹二人が暮らすにはやや余り気味なくらいの物件だ。
家族が相次いで殺害されて、契約の解除もせず逃げるように北海道へ向かったのが良い方向へ転んでいた。
電気もガスも水道もそのままで、何なら冷蔵庫の中身もそれなりに充実している状態だったのだ。
……天使が人間と同じ物を食べ、同じようにトイレへ行くことを知ったならば、人々の中にある天使への幻想は霧散するのだろうか。
そんなことを思いながら、宗一はソファの上に横たわって天井を見つめていた。
「……」
今日の釣果はゼロだった。
やはりそうそう死にかけの人間に出会えることはなく、結局疲れ果てて家へ退散せざるを得なかったのだ。
もうすぐ、その手の甲に刻まれた数字は一へと変わるだろう。
明日が二人にとっての最終日、誰も助けられなければそれで全ては終わる。
一度死んだ命なのだから、当然の帰結とも言えるかもしれないが……もし死に瀕した場合、詞音はどうするのだろう。
共に死を受け入れるのだろうか、それとも人を殺して生を得るのだろうか。
もし誰かを殺そうしたら、やだなあ……。
そんな口惜しい気持ちを感じながら、宗一が瞳を閉じる。
瞼の裏にはただただ純黒の闇が広がり、夜景のような光の一つすら存在していなかった。
(でも、それを咎める権利が俺にあるのだろうか……?)
寿命が尽きる前に、誰かを殺さなければ詞音は死ぬ。
もし彼女の殺害を止めるならば、即ち宗一が詞音を殺すのと同義になるだろう。
人を殺すなとあれだけ言っておいて、死を避けられない状況はすぐそこにあるのだ。
こんなことなら、天使になんかならず、運命のままに死んでいたほうがマシだったかもしれない……。
「ねえ、寝るの? ねえ……」
薄らいでいく宗一の意識の中で、詞音の声がやたら遠くから響いていた。
しかしまどろみの中では言葉の意味を理解することができず、ただの環境音として消え失せる。
閉じた瞼を開くこともできず、宗一は夢の世界へと落ちていった。
いや、それは夢というよりは記憶の世界。
かつて辿ってきた、琴浦宗一としての軌跡。
薄らいだ意識が述懐するのは、幼き頃の詞音の姿――。
『………………』
それは闇倉詞音が辿った、地獄。
全ての始まりは琴浦清正。
……二人の父であり、宗一同様、誰かを助けることに生きがいを感じる男だった。
彼と結婚したのは闇倉玲子。
親に定められた見合いによって、清正と添い遂げることを宿命付けられた女だった。
互いに恋心のない結婚、互いに倖せのない新婚生活、互いに悦びのない情交。
恋に夢見た時期もあった、結婚に憧れた日々もあった。
しかし支配欲に塗れた親に人生を全て決められて、当時の恋人と無理矢理別れさせられ、愛の欠片すらない男の子を孕んで産み落とす。
自分の体から生まれた宗一を見て、闇倉玲子は、まるで排泄物が出てきたように思えた。
それくらい、愛など無かった。
琴浦清正は妻を想い、少しでも彼女の負担を和らげようとしていた。
だが、闇倉玲子が全てではなかった。
誰かを助けることが第一だった彼は、事あるごとに面倒事へ首を突っ込み、その度に家族へ負担をかけ続けて……。
不満が爆発したのは、闇倉玲子が詞音を腹に宿し、臨月を迎えて入院している頃。
今にも子が産まれそうだというのに……琴浦清正は、交通事故に巻き込まれた人を助けるため、救急車が着くまで救命を行い続けていたのだ。
それは世間にとっては称賛されるべきことだろう。
少なくとも彼は、一人の命を救ったのだから。
だが代わりに、頼れる夫も来ず、一人で子を産む激痛に耐え続けた女がいた。
体が裂けるような痛みの中で、闇倉玲子は夫を呪った。
離婚は、免れなかった。
琴浦清正は宗一の親権を、闇倉玲子は詞音の親権を。
そして年に一度は子供の両家に顔を見せるという条件で離婚は成立した。
だが、そのすぐ後に清正は他者の命を救うために身を挺して、命を失った。
まだ幼い宗一は琴浦家の祖父母が育てることとなり、それぞれの日々が始まっていく。
すくすくと育っていく宗一は、学校生活も謳歌し、不自由のないまま幸せに生きていった。
そして、彼の幸せはもう一つ。
一年に一度だけ、妹と会えること。
ぶっきらぼうで、警戒心が強くて、家族なのに睨みつけてくるような妹。
……けれども、宗一にとっては大事な家族の一人だ。
……一方の詞音は、地獄の日々を生きていた。
闇倉玲子は両親の手の届かない場所で、一人の力で詞音を育てようとしていた。
それは親としての責任を感じていたからではない、他人の人生を以て自分の人生をやり直そうとしていたのだ。
だから、詞音に貸した厳しいルールも教育、交友関係の制限も教育、やることなすこと全てに親が干渉していたのも教育。
全ては、彼女を理想に近づけるための教育だ。
ときには三日も食事を抜かれ、首を絞められ、大切な友達との交友関係を断たれ、殴られ、罵られ、何時間も地面に頭を擦り付けて謝らせ、真冬に冷水をかけ、真っ暗な部屋に閉じ込め続け、布団で簀巻きにして竹刀で殴り続け、縛り付けてベランダに放り出し……あまりにいきすぎた罰は、全部が全部『教育』のためだった。
だから、詞音が自殺というものに寄り縋るのは必然で。
マンションの六階から飛び降りたのも必然で。
ただその瞬間を、サプライズで誕生日プレゼントを渡しに来た宗一が目撃したのは偶然だった。
踊り場の手すりから飛び出して空中で彼女を抱えることができたのも偶然だった。
そして木がクッションになったのも偶然、落ちた先に車があって衝撃が和らいだのも偶然。
でも……数多の偶然が彼女を生かそうとしても、六階から飛び降りた事実を帳消しにすることなんかできやしない。
詞音の左腕は損傷して動かなくなり、そして眼球破裂で左目を失った。
宗一は片足に傷を負い、高二の終わりまでリハビリを要してようやく人並みに動かせるレベルに戻った。
それが、地獄の終わりだった。
その一件が原因で、虐待の事実が明らかとなり、最終的に親権は闇倉家のままで、琴浦家が育てることになった。
唯一詞音に優しくしてくれた、大好きな兄。
彼と一緒に居るときだけは、詞音もおとなしく、少しだけ反抗的な子供としての範疇に収まっていた。
そこから二年間だけが、詞音にとって幸せな日々。
やがて闇倉玲子が何者かに殺されて、闇倉家の祖父母も殺されて、琴浦家の祖父母も殺されて――兄妹は北海道から逃げて――飛行機事故によって、死を迎える。
まるで詞音に幸せな未来を与えないよう神が仕組んだかの如く。
だからこそ、宗一は詞音を幸せにしてあげたいと思っていた。
普通の幸せさえ享受することが叶わなかった彼女に、ささやかな普通の幸せを知ってもらいたかったから――。
「…………」
目を覚ましてからもしばらく、宗一は虚ろぼんやりとした状態だった。
相当深く眠り込んでいたようで、自分が意識を取り戻していることにすら気づいていない様子だ。
酩酊のように混濁した意識の中で、最初に取り戻したのは嗅覚だった。
どこかから漂ってくる焼肉のタレが熱される匂い、味噌汁の香りと、炊き立てご飯の薫香。
脳よりも先に胃袋が刺激されたようで、宗一の胃が寝た子を起こすような勢いで鳴り始める。
やがて意識を完全に取り戻して起き上がると、料理を配膳している詞音の姿が見えた。
腕が動かないわけでも、片目が無いわけでもない。
天使に成って五体満足を得た、最愛の妹の姿だ。
「起きたか、おねぼう」
詞音が片足を振り上げ、履いていたスリッパを兄に向かって飛ばしていく。
起きたならさっさと手伝え、とでも言いたげな表情だ。
宗一は頭を何度か振って睡魔を完全に消し飛ばし、立ち上がって詞音の元へと向かう。
机の上にはいつもの食卓が広がっていた。
ご飯、味噌汁、焼肉のタレベースで焼いただけの豚バラ肉と、そこに添えられた数種類の野菜。
冷蔵庫の中にあるものであり合わせたのか、エルバステラなど肉と合うのか甚だ不明な野菜こそあるが、食欲をそそる献立だった。
「宗一はおはし持ってきて。あと何か飲みたいなら冷蔵庫にお水かお茶あるから好きなほう選んで。ご飯はあんまり炊いてないからおかわり無い。お肉はあるけど焼くのめんどい」
必要な情報を端的に告げながら、詞音が取り皿を並べている。
宗一はそそくさとキッチンに向かい、二人分の箸とお茶を持ってリビングに戻ってきた。
「いや、寝ちゃってごめんねホント。まさかあんなにも綺麗に寝落ちるとは思わなかったの」
「あたし、絞首刑か電気椅子かを選ばせてあげるだけの優しさはあるよ」
「勝手に眠りこけてただけで処刑の末路を確定させないでね。でもありがと、いただきます」
二人が両手を合わせて、食事の開始を宣言した。
しばらく箸を進めていると、詞音が覗き込むようにして兄の顔を見る。
「どう?」
「うまい、すごくおいしい。詞音ちゃん料理上手すぎてお兄ちゃん感涙しそう」
「……褒めすぎ。キモい」
かくん、と詞音が頭を前に傾けた。
緋色の髪で顔を隠したつもりだろうが、その隙間からは髪よりも真っ赤な顔が垣間見えていた。
そもそも耳朶まで真っ赤に染まりきっているのだから隠しようがないのだが、駆け引きが上手ではない詞音はそんなこと気づけないようだ。
今まで褒められた経験がほとんどないので、詞音は兄から称賛の言葉を受けるとすぐによわよわな状態になってしまう。
褒められるのに弱いくせに自分から褒められようとしているのは、ある意味子供らしくて可愛らしいと宗一は思っていた。
「……ほんと、おいしい」
しみじみとした感情を含みながら、宗一がそう呟いた。
勉強などの知識系や料理などの技術系は、母親からの躾によってある程度の水準が確保できている。
しかし人間関係だけは別。
母親の影響によってまともな対人教育を受けられなかった彼女は、他人との上手な関わり方が分からない。
母親と同じように、他人を傷つけることによってしかコミュニケーションを図れないのだ。
彼女は十五歳になった今でも子供のままで、大人になりきれない存在。
もし普通に生きていられたなら、きっと素敵な女の子になれたはずなのに。
そう思うと、宗一はどうにもやりきれない気持ちになるのだった。
「食後にうさぎさんリンゴもあるけど」
褒められて気を良くしたのか、詞音はサプライズとして隠していたであろうデザートの中身を開陳してしまっている。
普通に生きていれば素敵な女の子になれたかもしれないが、恐らく相当チョロい女の子にもなっていただろう。
宗一は優しく微笑みながら、それは楽しみだと言って笑った。
そんなこんなで食事は進み、食後の片付けも終わった頃、宗一が本題を切り出した。
「さっき寝たときに夢を見てね、その内容を元に思いついたことがあるんだけど――」
宗一は部屋の片隅に置かれたパソコンを立ち上げ、検索ボックスに不穏な文字を打ち込んでいく。
普通であれば決して調べることのない、忌むべき単語だった。
(詞音が自殺した夢を見てこんなことを思いつくのは、兄として相応しくないかもしれないけど……)
エンターキーで検索をかけて、いの一番に出てきたのは健康相談統一ダイヤル。
そしてその下に続くのは幾つもの掲示板、もしくは特定の話題を話し合うためのコミュニティだ。
それは、自殺者のための掲示板だった。
一人で死ぬためのものではなく、自殺オフ会のようなもの。
死を欲す同志と集い、複数人で安心して死ぬためのコミュニティ。
自殺方法、場所、時間帯。
命を捨てようとする人間の情報が、そこに集っていた。
「……あー、懐かしい。飛び降りを企てたとき、あたし、学校のPCで調べようとしたことある。結局フィルタリングで見れなかったけど。ウケるよね」
「そういうこと聞かされるとお兄ちゃんどう反応したらいいかわからないんだけど……」
兄の背中に体重を預けながら、詞音は掲示板の内容を興味深そうに眺めて、うんうんと得心がいったかのように頷く。
「確かに闇雲に探すよりは効率いいかも。でもどうするの、あたしたちが一緒に行動したら効率悪いよね。分散して別々の現場に行くのがいい?」
「いや、それでも一緒に動くよ」
「なんで?」
「…………」
数秒、良い言い訳を見つけられなかった宗一が押し黙る。
その沈黙の意味を理解した詞音が、少しだけ笑いながら呟いた。
「……過保護め」
画面内に表示されている情報は、この近くでの自殺を仄めかすような内容。
そして決行時刻は一時間後だ。
二人は顔を見合わせて頷く。
今から自殺を止めに行こう、そう言葉もなく示し合わせていた。




