3章 大都会にて
休日ということもあり、渋谷には大勢の人間が行き交っていた。
スクランブル交差点には蟻の巣周辺を想起する程に人が集い、その人波は途切れることを知らない。
常に人間が循環し続ける場所、それがこの渋谷だ。
ビルよりも少しだけ高い場所から、二人はその景色を見下ろしていた。
「で、都会にきたけど、このあとどーするの」
至って平坦な声で、詞音がそう問いかける。
「そりゃ、死にかけてる人を探すしかないだろうねー」
「……今まで生きてきて、死にそうな人を目撃したことなんてあった?」
「…………」
そんなの、今まで一度も見たことがなかった。
ニュースの中では毎日のように報道される事故や殺人事件だが、実際家族が殺されたのを除けば、日常的に見ることのない事象だ。
よっぽどの偶然がなければ生涯出会うことのないものだろう。
「はー、やっぱ行き当たりばったりだったか……」
呆れるようにそう言って、詞音はビルの合間を縫うように飛び始める。
一瞬遅れて宗一もその後を追った。
「お兄ちゃんだってさすがにそこまでバカじゃないぞ。このあたりにはよく労災案件起こす建築会社があるし、ちょくちょく行方不明者の最終目撃地になってる自殺の名所もある。超絶ドブラックで多数の犠牲を出してる会社が名前を変えて営業続けてるし、交通事故の発生率だって若干引くほどの――」
「だから、それ、二日間でぜったいに起こるのかっていう話でしょ」
泳ぐように旋回しながら、あっけらかんと妹が言う。
「しかもあたしたち二人ともが生き延びるなら、二人分の死にかけがいないとだめでしょ。一人が死にかけてるのを助けても、多分、あたしたちのどっちかしか寿命得られないだろーし。偶然命の危機に出会えたとして、一人しか犠牲者がいなかったらどーするの」
「そのときは詞音に譲るよ、俺の代わりに生き延びてね」
「……そーいう話じゃなくてさぁ……」
呆れるようにそう言って、彼女は兄を引き離すようにスピードを上げた。
だからさぁ、どっちに譲るとかそういう話じゃなくて、二人とも生き残るにはどうするかって話をしてるんだけど?
どっちが生き延びるとか犠牲になるとかそんな話はしたくないんだけど?
そう心の中で言い捨てながら、歩行者のすぐ頭上を飛ぶ詞音。
天使が真上を通り過ぎているというのに、誰一人その姿を視界に捉えることはできなかった。
「ま、そう慌てないの。事件なんて俺たちの一存で発生するものじゃないし、急いても怠けても変わらないよ。確率の高いこの場所で、機が来るのをのんびり待とう」
そう言いながら宗一は地上に降り立ち、人々の間を歩いていく。
誰かの命を救うのに最も手っ取り早い方法は紛争地帯に行くことだが、生憎とこの日本では戦争なんて行われていない。
さりとて外国まで飛ぶことなんて夢のまた夢、東北から関東まで飛んだだけでそれなりの疲労感が溜まっているのだから無理に等しいだろう。
大型ビジョンでニュースを見ても大災害や立てこもり事件なんてものは起こっておらず、むしろ自分たちの事故が積極的に報道されるばかり。
その合間を縫ってポメラニアン特集なんてものが組まれている時点で、他のビッグニュースが無いことを暗に示しているものだ。
だから結局待つことしかできない。
待てば海路の日和ありとも言うし、そもそも何も起こらなくても、本来彼らは死んでいるのだからあるべき結末に納まるだけのことだ。
「と、いうわけで俺は人助けでもしてゆっくりと時間を潰すよ。詞音ちゃんもどう?」
未だ滞空し続けている詞音にそう声をかけるが、彼女は気怠そうに首を横に振った。
「パス。もうすぐ死ぬってのに、ホントおばかなのんびり屋め」
「そりゃ残念」
宗一は翼を広げ、人々の間を飛び抜ける。
そして彼は、信号が赤になりかけている横断歩道を渡っていた老人を抱えて、向こう岸まで送り届けた。
それが終わったと思えば重い荷物を運んでいる人の背を押してやり、若者の手から滑り落ちた携帯をキャッチして手に戻してやり、ゴミ箱の周辺に散らばった空き缶をくずかごへ捨てていく。
無論、それが人間に知覚されることはない。
矛盾のない代替の記憶に置き換えられ、天使の存在など無かったように補正される。
つまり感謝も敬意も受けられない完全な徒労だ。
それでも宗一は満ち足りたような顔をしていた。
天使に成って以降、現実を受け止めきれず暗い表情ばかりを浮かべていた彼だったが、ようやく生前の柔和な表情を思い出してきているようだった。
「やっぱり都会はトラブルが多くていいね、お兄ちゃんいよいよテンション上がってきちゃったよ」
「上がんなあほっ。……このド変態性癖は死ななきゃ治らないと思ってたけど、まさか死んでも治んないなんてホントおどろき」
誰かを助けることを本当の幸いとし、自分のことよりも他人を慮る性格。
身銭を切ってでも他者を助けんとする『利他性』は、宗一を表す最も適当な言葉だった。
その損な性格によって、今まで何度不利益を被ってきたり騙されたりしたことか。
詞音だって何度もそんな生き方は止めろと言ってきた。
でも、宗一はいつも満足気な顔をしていたのだ。
他人の助けとなることが、自分の産まれた意味なのだと、彼は心の底から思ってきた。
「……」
しばらくその光景をつまらなさそうな表情で眺めていた詞音だが、暇が限界に達したのか、やがて地上へと舞い降りていく。
彼女は信号待ちをしている人間に近寄り、その身を抱えて横断歩道の上を飛んでいく。
そして横断歩道の向こう岸まで運んだ人間を、そこらへんにぽいっと投げ捨てた。
なんとなく投げるときの力加減を間違えたせいで届けられた人間が腰を痛めているみたいだが、まあいいかと彼女はすぐにそっぽを向く。
その表情には、人助けに感銘を受けたような色は一切ない。
むしろどこか冷めていて、自分のやっていることのバカバカしさに心底呆れている風にも見えた。
こんなことをしても何も得られないし、幸せを感じることもない。
他人を助けたとしても、自分が得を得られるわけではないのだ。
どうしてこんなバカげたことを彼は一生懸命やっているのだろう。
天然記念物でも見るような目つきで、詞音は実の兄を見据える。
他人なんて、自分を傷つけるための存在なのに、何故優しくできるのか。
それが詞音には分からなくて、ただ困惑することしかできなかった。
呑気に歩く通行人を見下ろしてから、彼女は自分の掌を見つめる。
(こんなに簡単に殺せそうなのになぁ……わざわざ助ける必要なんてないのに……)
この掌で首を思いっきり絞めれば、それで終わり。
人に知覚されない存在なのだから、誰にも邪魔立てされることはない。
それだけで簡単に寿命が手に入る。
もしも兄がいなければ、きっと彼女はそうしていただろう。
臆することも悩むこともなく、淡々と誰かの命を奪い続けていたはずだ。
(簡単に殺せるってことは……簡単に命の危機を作り出せるってことだよね?)
そんな思考に思い至る詞音の顔には、昏い笑みが表れていた。
宗一と一緒にいないときの彼女が浮かべる、利己的で独善的な笑みだ。
「……あたしさ、簡単に生き延びる方法、思いついたよ」
宗一の頭上にやってきて、詞音がそう告げた。
汚れた地面の掃除をしていた宗一が驚愕の表情を浮かべながら振り返る。
「えっ。どうするの?」
「こうすればいいじゃん」
絵画に描かれた天使のように、詞音は通行人の合間にふわりと舞い降りた。
そして母親と手を繋いで歩く幼い少女を抱えて、翼を広げて空を舞う。
詞音に抱き上げられた子供は、一切の感情を失って人形と化していた。
天使に関わる記憶は不自然さを潰すかのように補完される。
だから少女は今、記憶を改竄されている真っ最中。
そんな少女を抱えて、詞音は摩天楼よりも高い高度へと向かう。
人が落ちれば確実に死ぬ、そんな高さへ。
「ちゃんと受け止めてね、宗一」
「ばッ……」
そして詞音は、地上五十メートルもの遥かなる虚空で、少女を抱えた両手を――。
「馬鹿……ッ!」
――両手を放す直前、弾丸のような速度で突っ込んできた宗一に、少女を奪われる。
詞音は兄の顔を見て、小首を傾げる。
何故邪魔をされたのか分からないという顔だった。
しかし一方の宗一は、怒りの形相を浮かべていた。
その背に生えた翼は逆立ち、獲物に襲い掛かる直前の猛禽類のようにも見える。
だが、それも一瞬だった。
すぐに宗一は表情を変え、深呼吸で落ち着きを取り戻す。
「……詞音ちゃん、こんなこと二度としないで。次同じことをしたら本気で怒るから」
「どうして」
「どうして、って……」
説明するだけなら簡単だろう。
だが、それを理解してもらうことは至難を極める。
十六年間、実の親から殺されかけ続けた少女に、どうやって命の大切さを教えればいい?
産まれたときからずっと人は憎しみ合うものだと、その身を以て学んできた彼女に、何を説けばこの気持ちは伝えられるのだろう?
宗一にできることは、過ちを犯したとき、もう二度とするなと釘を刺すことだけ。
詞音は言葉の意味を理解しないまま、ただ兄が怒るからという理由で同じことを繰り返さないようにする。
今までもずっとその繰り返しだった。
「……お前がそういうことをすると、俺が悲しい」
「…………そっか。じゃ、やめとく」
どこかうなだれながら、宗一が少女を抱えて地上へ降りていく。
少女を母親の元へ安全に返すために、ゆっくりと慎重に……。
詞音はそんな兄を見つめてから、空に視線を送った。
(あんなに殺されかけたのに、どうして他の人を殺しちゃいけないの。わかんないよ、宗一)
彼女は静かに息を吐いて、口をへの字に歪めた。
何故親に怒られたのか分からずにいじける子供のように。
(人を殺す決断さえすれば……ずっと、一緒にいられるのになー……)
宗一は誰よりも他人を慮る男。
人の助けとなるために産まれてきたような男だ。
だから人の命を犠牲にするくらいなら自分の死を選ぶし、妹に人殺しをさせることに嫌悪感を抱いている。
一方の詞音は、殺人くらい構わないという思考。
……宗一と一緒にいられるなら、それくらいの犠牲は当然だと思っていた。
何よりも怖いのは、兄と一緒に居られないこと。
それは依存とも呼べるほどの執着。
けれど、それも当然のことだろう。
一人ぼっちだった彼女に手を差し伸べたのは宗一、六階建てのマンションから落ちた彼女を助けたのも宗一、辛いときに傍にいてくれたのも宗一。
……彼が死ぬくらいなら、誰がどうなろうと、どうでもいい。
(あたしにとっての世界は、あのバカ兄なんだから)
そう思う彼女の顔は、全てを敵に回す決意に満ちていた。




