2章 大空を舞う使徒
地を這う陸上生物として産まれたからには、一度くらい鳥のように空を飛ぶことを夢想するものだろう。
「あはっ、あははははッ! この全能感、自由感! これがッ、天使の世界!」
遥かなる青空の下、車行き交う高速道路の上を滑空するのは、一人の天使だった。
赤褐色の長髪をたなびかせ、藍色に輝く瞳は尊厳を意味する瑠璃のよう。
齢十六には到底見えないほどの幼き顔は、何年振りかも分からないほど久しい笑顔をいっぱいに浮かべていた。
少女の名前は闇倉詞音、天使に成りたての元人間。
人としての生と引き換えに翼を手に入れた彼女は、自由を謳歌するかのように朝空を飛び回っている。
太陽を目指しているかのような急上昇をし、体を翻して地面に向かって急降下。
地球の体表へと直撃しかけた瞬間に身を捩り、ほぼ直角に近い方向転換をしてから地を這うように猛スピードで飛び去って行く。
上昇も降下も旋回も、全てが彼女の思うが儘。
時折街道に出ては車と並走して、高速道路のド真ん中を飛び抜ける。
鳥を見つければその周囲に纏わりつき、飽きれば速度を争った。
そんな天使の姿を、誰も気に留めようとはしていない。
天使規則には『天使が起こした動作は、他の種族に知覚されない』と明記されていた。
即ち同族以外の誰もが天使の姿を網膜に捉えられないのだ。
鳥になったような爽快感と、透明人間になったような解放感。
元々死に対して抵抗感のない少女にとって、それは夢のような時間であった。
「しっ、しおっ、詞音ちゃーんっ! はや……早いよ……! 早すぎる……!」
そんな彼女を追いかけて飛ぶ、もう一人の天使。
詞音とは対照的な群青の短髪と、燃えるような緋色に染まった両の瞳。
齢十八とは思えないほど疲れ切ったその顔は、本来柔和で人畜無害そうな顔のはずなのだが、自由気ままに飛行する妹を見失わぬよう必死な形相になっていた。
少年の名前は琴浦宗一、天使に成りたての元人間。
詞音と違って死を歓待できない彼は、未だ非常で異常な現実に順応しきれていないようだった。
息を切らしながら全速力で飛び、宗一はようやく詞音に並走することができた。
ここに至るまでに何度か妹を見失いかけ、その度に大声で呼びかけたが声が届かず、半ばヤケクソ気味になりながら死ぬ気で詞音まで追いついたのだ。
自動車よりも、悪しき思い出蘇る飛行機よりも速く、彼らは高速道路の上を飛んでいた。
「はー……はぁ……ねぇ、詞音ちゃんさ……も少し落ち着いて飛ぼうよ、頼むよ~……」
「え、どんな飛び方しようがあたしの勝手でしょ」
「いやさ、鳥とかと正面衝突したらとかさ、お兄ちゃん心配で心配で……」
ぷい、と詞音はそっぽを向いた。
年齢に見合った反抗期的な態度である。
素直じゃないのは平常運転、いつも通りの日常だった。
年頃だからというわけでもなく、兄妹仲が微妙ということでもない。
ただ、彼女がそういう存在であるとしか言えないのだ。
生まれてから一度も人を信じたことのない少女は、唯一兄にだけ僅かに心を開いていた。
しかしさりとて他者と比べれば比較的ということでしかなく、傍から見ればただただつっけんどんで不躾で面倒臭い少女にしか見えない。
だが、彼女の生い立ちを知る宗一は、そんな態度も信頼の証であると解釈していた。
死すら歓待できるほどの地獄を生きてきた詞音は、かつて虐待された動物の如き警戒心を誰にでも振りまいていたのだから。
「それよりこれからどーするの。生前は北海道の田舎に向かって、死んだら東京の都会に戻ろうなんて。行き当たりばったりじゃないの」
「お兄ちゃんだってしっかり考えてます。あの天使規則とやらを信じるなら、俺たちは人を救わなきゃ生きてけないんだよ? それなら人口密度の高い都心のほうが機会は多いでしょう」
二人の手の甲には、『二』という文字が仄かに刻まれていた。
昨日、天使に成った瞬間には『三』で、日付が変わった瞬間に一つ減少したのだ。
言うまでもなく、これは二人の寿命を示す値。
これが尽きた瞬間、天使としてのロスタイムも終わって本当の死を迎える。
だから、二人は早急に寿命を稼ぐ必要があった。
しかしそれは茨の道、人間の命を救うか奪うかしなければ生き永らえない修羅の日だ。
「……べつに、田舎でもいいのに。いざとなれば田舎でも生き延びることくらいできるでしょ」
風にたなびく枝毛を弄りながら、詞音がつまらなさそうにそう呟いた。
「ダメだ」
しかし宗一の返答は、いつものように緩い調子ではなかった。
子を叱る親のような厳格さを湛えた一言は、詞音を少しだけ驚かせる。
「いざとなるような状況がもうダメなんだ。人殺しなんか許さない。詞音にだけはそんなことさせられるもんか」
「……あたしはかまわないのに」
「俺が嫌なんだ。……他人を犠牲にして生き永らえるくらいなら、死んだほうがマシだよ」
そう言って、宗一は真面目な表情で歯噛みをした。
他人を殺すなんて発想が止むを得なくなってしまうこの境遇を、他人の命でしか生き繋げないこの運命を、そしてそれを妹に強いてしまった不運を呪うかのように。
「………………」
詞音は、それでもいいのにと思った。
人が生き永らえるために家畜を喰らうのと同じだと、人が他人を蹴落として成り上がるのと同じだと、彼女は思っていた。
生きるには、別の何かを犠牲にする必要がある。
人はそうして生きて、繁栄してきた。
自分より弱き者を喰らい、犠牲を増やしながら生き続けてきている。
それと何が違うの?
……彼女には、兄の考えていることが分からなかった。
「……それは俺の、エゴでしかないけどね」
そう言って、少しだけ重くなった雰囲気を変えるかのように宗一は笑った。
幼き頃から詞音に向けてきた、相手を思いやるためのいつもの笑顔だ。
詞音が昏く沈んだときは、何度だってその笑顔が助けになってきた――。
いつもの笑顔が、いつだって、詞音に少しだけ人としての心を取り戻させる。
「それでも俺は、詞音ちゃんには真っ当に生きてもらいたいんだよ……」
「…………」
真っ当に生きる。
……よく考えれば既に死んでいるはずなのに、おかしな言葉だった。
詞音は押し黙って、ただ翼をはためかせて空を飛ぶ。
彼女が考え込んでいることに気づいた宗一も、言葉を発すことなくただ飛び続けた。
東京はもう、すぐそこだった。




