1章 一万五千フィートの天上で
ボーイング七六九の航行灯が、漆黒の闇夜に翠色と緋色を描いていた。
夜道を行く自動車がテールランプと轍を残すように、天空の光も途切れ途切れの軌跡を焼き付けているのだ。
摩天楼よりも、富士の山よりも高い一万五千フィートを往く鉄の燕。
その腹中には百五十名を超える乗客が犇めき、やがて夜が明けて北海道へ着くのを待ち望んでいる。
夜間飛行ということもあり、機内の照明は暗く落とされ、誰一人言葉を発することもなく静まり返っていた。
ほとんどの乗客は寝静まり、誰もが幸せな夢を見て夜を明かしている。
そんな中、まんじりともせず、窓から眼下の闇を眺め続ける者がいた。
彼の名は琴浦宗一、齢十八の若き男。
その瞳に生気はなく、生死の境にいるような危うさと儚さが共存していた。
そうなるのも当然だろう。
彼の母が、祖父母が、親戚が死体で見つかった。
彼の親族は、両親の離婚によって離れて暮らしていた妹を除いて全員死体で見つかったのだ。
自然死ではなく殺人だった。
犯人も動機も未だ不明、しかし琴浦家の面々が一人ずつ消されていることだけは断じることができる状況だ。
だから彼は、生存している唯一の肉親である妹を連れて遠方へと逃亡している。
縁もゆかりも推し量れぬ殺人鬼から逃げおおせて、妹だけでも幸せな人生を送ってもらうために。
思いつめる彼の隣で、妹である闇倉詞音が瞳を閉じて眠っている。
……いや、それは寝たふりだ。
彼女は兄にばれぬよう、静かに目を開けて兄の横顔を眺めていた。
深い藍色の瞳に映るのは、これからの生活に不安を隠せない兄の姿。
けれど彼女は気の利いた言葉一つ欠けることすらできない。
彼女には、他人を慮る気持ちが理解できないのだから。
「…………」
そのとき、兄妹は確かに見た。
窓の外に舞う、燐光のような何かを。
人工的とも自然的とも呼べないくらいの神々しさと、この世のものならざる存在感を放つ灼たかな極光を。
天使の羽が、舞い散った。
「――――!?」
瞬間、世界が揺れる。
鼓膜を破壊しかねない程の轟音が響き渡り、人や座席を巻き込みながら襲い来る獄炎が機内の半分を紅緋色に染め上げる。
夜間照明が熱で炸裂して光源が一切無くなったにも関わらず、突如発生した火炎が機内を煌々と照らしていた。
爆発は一度だけでは終わらなかった。
何度も何度も緋色の灼熱が機内を蹂躙し、その度に旅客機は揺れ人々は焼け朽ちていく。
ものの数秒もすれば辺りは地獄絵図、焼死体と阿鼻叫喚が彩るディストピア。
耳を劈く警報が辺り一面に響き渡る。
黒煙は旅客機内を満たし、這いつくばっていなければ煙で意識が持っていかれてしまう状態だ。
喉は上昇した室温によってカラカラに乾ききり、煙を避けて呼吸をすれば肺が焼け落ちかねない程の熱い酸素が臓器に渦巻く。
迫る火炎、迫る死。
何人もの人間が逃げ果せず、業火に呑まれて灰燼に帰す。
飛行機内に爆弾が設置されていたなんて誰が予想できただろうか、今日が人生の終焉だと誰が予見できていただろうか。
逃げ場のない虚空の密室内で、一人、また一人と焼死体が生まれていく。
タンパク質の焼き焦げる異臭が立ち込めて、悲鳴の中に嘔吐音が混じり合っていた。
「詞音ちゃん……!」
宗一が妹の腕を掴み、その胸に抱え込む。
旅客機の前方に座していた彼らは運よく炎に全身を喰いちぎられずに済んでいたが、今やもう、焼死を免れれば良いなどという楽観的な思想は愚の骨頂極まりない。
既に飛行機は獄炎に包まれながら空中崩壊し、生きた人々が、あるいは燃え尽きた焼死体が空に放たれている。
それは彼ら兄妹も例外ではなく――彼らは吸い込まれるように空に放り出され、依るものの何もない大空へと投げ出された。
切り裂く風は鎌鼬のようで、落下の圧迫感は臓器を押し潰すかのように。
宗一は、更に強く妹を抱きしめる。
もはや命を繋ぐ可能性などありはしない。
……しかし万が一の奇跡が起こって、妹だけでも生き延びることができるならば。
自らの身を緩衝材代わりにして、須臾にも満たないほどの可能性でも与えることができるならば。
彼は、奇跡を望んでその身を捧げる。
そんな彼を、……気づかれないように小さな力で、妹も抱きしめ返した。
奇跡など起こるはずもない。
だから、二人を待つのは絶対の死。
既に地表は迫り来て、死は彼らを受け入れる。
死の刹那、二人は再び天使の羽を視た。
曙に降臨する清澄な閃耀のような、幾澗色もの閃光が彼らの網膜に焼き付いて――。
天使に見下ろされながら、彼らは肉となった。
山中に墜落したボーイング七六九は、もはや原型を留めてはいなかった。
そしてそれは、飛行機と共に空から降り注いだ人間たちも同様だ。
まるでそれは、バーベキュー会場に嵐が巻き起こったかのよう。
縦横無尽に散らばる鉄屑と、泡紅色、もしくは朱色、あるいは涅色の肉が地面にへばりつく現世の地獄だった。
墜落の拍子に火炎が舞い散ったのだろう、鬱蒼とした木々が粛々と燃え盛る。
小さな種火はやがて周囲を飲み込むように燃え広がり、放っておけば全焼は免れないほどの大規模な山火事へと推移していた。
獄炎によって煌々と照らされる夜空、炎上のさなかに飲み込まれていく肉片。
それは宗一が視ている光景の、ほんの一部分でしかなかった。
彼の目の前には、遺体と呼ぶにも相応しくない残骸が広がっている。
既に人物を特定できるほどの部位が残っているわけではないが、僅かに残った衣服の切れ端と髪色は、それが確かに宗一の死体であることを示していた。
それに混ざり合うようにして、詞音の一部が散らばっている。
それらの骸は、彼ら兄妹が避けられぬ死を迎えたことを物語っていた。
それも、宗一が視ている光景のほんの一部。
滅びた肉体から抜け出した、宗一の魂が視た景色……。
「…………………………」
そして彼らの残骸の上に……熾天使としか呼称できない存在が浮遊していた。
灼たかなる神のように赫々たる光輝に包まれ、周囲の空間を自己相似に足るフラクタル図形のように捻じ曲げ、炎すらも寄せ付けぬように気を周囲に廻らせる者。
背に冠した六枚翼の内、二つの翼は顔を覆い隠し、二つの翼はその身に纏いて、残り二つの翼は空間を掴んで天を掌握している。
『…………人は、死滅を目前に利己を取り戻す』
熾天使の放つそれは言葉ではない。
音であり振動であり意思の送出、言うなれば啓示だ。
その意思疎通にも近しい概念を、宗一は受け取ることができていた。
熾天使から視線を逸らすことができない宗一の後方で、詞音が意識を取り戻す。
無論、肉片と化した彼女に肉体など無い。
宗一と同じく、魂の概念のみが覚醒し、神との謁見を許されただけのこと。
二人は、神々しくも皓々たる熾天使を見上げ、ただ呆然とすることしかできなかった。
『然し、其方達は死の汀に、他者を慮る理知を持つ。畜生道に堕ちることなく、万物の霊長たる矜持と自尊を持つ見上げるべき個だ。……私は、その利他を尊重する』
その存在が何を言っているのか、二人には分からない。
煙に撒くようなその言葉など、何一つ分かるはずもない。
彼らに分かることと言えば、熾天使の体から流れ出た乳白色の粒が、彼らの魂に纏わりついて模っていくことだけ。
それは彼らに肉を与え、臓器を与え、脳を与え、血流を与え――。
そして、その背に翼を与える。
『人としての生を終えた其方達に、天使としての猶予を授けよう。生を渇望するならば往くも良し、死を歓待するなら止むも無し』
宗一の背中には白銀の翼が、そして詞音の背には桜の花びらを形どった桃色の翼が生まれていく。
その姿は熾天使の言う通り、天使そのものだった。
『然し願わくば、其方達が良き神霊となることを望む。……不甲斐無き我が心残りを断ち切ることを、私は……』
神託を告げ終わらぬ内に、熾天使の姿は掻き消えた。
太陽が地上に爆誕したかのような閃光と共に、世界は再び静寂を取り戻す。
「………………」
全ては死の間際に見た、白日の夢なのだと宗一は錯覚しそうになった。
しかし彼は己の頬に触れ、肩に触れ、腕に触れ――そして、その背に称えた翼に触れる。
足元に転がる自分の死体を見下ろしながら、彼は今持ちえた肉体に触れ続けることしかできなかった。
琴浦宗一は、ここで死んでいる。
しかし琴浦宗一は、ここに生きている。
「ねえ……宗一……」
戸惑いの色を隠すこともなく、詞音が兄に言葉をかけた。
「あたしたち……死んだの? それとも、生きてるの……?」
答えなど分かるはずもない。
宗一だって現状が理解できないのだ。
それでも現状と矛盾のない答えを示すとするならば、こう答えるしかないだろう。
「死んで、生き返った……ということなのかな……」
二人は顔を見合わせて、数秒の沈黙を挟んで――目の前にいる家族が生きているのかを確かめるために、お互いの頬に手を添える。
そんな二人の目の前に、文字が顕現する。
それは空中に直接書き込まれたとしか表現できない事象。
しかし神を視た今、その程度に驚く二人でもない。
その文字は、天使規則という文言から書き綴られていた。
『天使規則
一条ミレニアムの使徒(以下、天使)は死者の魂を以て、構成される存在である
二条 天使は任命時、神より三日間の寿命を授与される。
三条 天使は、人の命を一つ救うか一つ奪うことで、三日分の寿命を得る
四条 天使は各々、翼に応じた力を賜る
五条 天使が起こした動作は、他の種族に知覚されない。
代替の記憶で置き換えられる
此れを以て、千の刻を担う翼への契約とする』
「……」
その文面の全てを、今すぐに理解することなどできなかった。
ただ分かることは、二人の寿命が残り三日であること。
そして人の命を救うか、もしくは奪うことで寿命が三日分加算されること。
つまりそれは、人の生死に関わらなければ、生きていけない存在となったことを示していた。
「天使って、そんなの……わけわかんない……。信じられるわけないじゃん、ばかなの……?」
どこか夢心地のような口調で、詞音はそう呟いた。
宗一も口には出さなかったが同じ気持ちで、ただ、砂となって消えていく空中の天使規則を眺めることしかできない。
何もかもが突然で、何もかもが非現実。
しかし歴然たる事実が一つだけある。
彼らは、天使として生きていかねば、本当の死を迎えるのだ。
「俺たちは……人間じゃ、ない……」
そのとき、彼らの感情に呼応するように、背に生えた翼がはためいた。
それは一薙ぎで彼らの体を宙に浮かせ、二薙ぎでその身を樹木よりも高く羽ばたかせ――。
「あ……」
気づけば彼らは、己の意思とは関係なく天空へと飛び立っていた。
見下ろす景色は夜景の海。
まるで宝石のように煌めく燈火は、人間が生きている証の生活街灯。
高速道路を行き交う尾灯の群れ、環状線を彩るヘッドライト、山の稜線で燃え盛る飛行機の落下跡。
そしてその現場に駆けつけてきた航空救難団のヘリの群れ……。
ここは、生身の人間では至れない階上の層。
天使にしか佇めない、天地を断絶する境目。
天と地の狭間には、人の哲学では思い及ばないことが幾らでもある。
それが、きっと、これなのだ。
「嘘だろう……」
宗一は、その光景を見て絶望を覚えた。
己が人ではない存在に成ったことの証左として、この景色はあまりにも説得力がありすぎたからだ。
そんな彼の肩を握って、詞音も同じようなことを呟いた。
「嘘みたい……」
詞音は、その光景を見て絶望以外の感情を覚えた。
己が人ではない存在に成ったことの証左として、この景色はあまりにも説得力がありすぎたからだ。
彼女は、……普段見せない歓喜の表情を見せていた。
人ならざる存在に昇華した事実を、祝福だと受け止めたかのように……。
これは、天使に成った兄妹の物語。
人を殺すか、人を救うことでしか生きていけない脆弱な二人の世界。
そして、死して共に在る二人が、離れ離れになるまでの物語。
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