39章 思い出の羽
「………………これ、交と同じ……」
自分の背中に生える翼が仄かな黄金色に輝いていることを知った詞音は、目を丸くして驚愕を露わにする。
そして手の甲に浮かんだ数字を見て、その日数が何年分であるかを計算して――ようやく、全てに合点がいく。
清正の死因はミサイルとの接触による頸椎損傷。
彼女の爆発によって死んだわけではない。
そして彼女の爆発は、関東に住む大勢の人々を救った。
それを全て寿命として得たならば、千年分は優に越えるだろう。
彼女は成ったのだ。
熾天使を継ぐ者、ミレニアムウイングに。
「……そうだね」
彼女の目の前にいる宗一は、詞音を守っただけで、直接的に人々を守ったわけではない。
だから彼の持つ寿命は依然としてミレニアムウイングに達さないままだ。……どちらにせよ、殺人の処女性を失った彼には、熾天使を継ぐことなどできはしないのだが。
だから今、この世界に、ミレニアムウイングはたった一人だけ。
熾天使を継ぐことができるのは、詞音しかいないのだ。
「……………………」
二人の間に、居心地の悪い静寂が流れる。
何かを言わなくてはいけないが、何かを言ってしまえば別れが訪れてしまうような――そんな予感を孕んだ、歪な閑靜だった。
時が止まったような静けさの中、静かに言葉を零したのは宗一だ。
「……見つけてみせるよ」
詞音の手を握って、励ますような口調でそう言う。
「熾天使の持つ寿命が、あとどれくらいで尽きるかは分からないけど……どうにか頑張って、詞音ちゃん以外の天使を見つけてみせる。それで、どうにかしてミレニアムウイングにして、それで……」
それで、どうするというのか。
そんなことをしても誰かが犠牲になる末路は変わらないのに。
詞音がミレニアムウイングにならないというならば、誰かが千年間も縛られ続けなければならないのに。
誰が犠牲になっても、誰かが苦しむだろう。
本人か、縁者か、友か。
きっと涙を流す者がいるはずだ。
だから宗一は、そこまで口にしたにも関わらず、その先を言うことができなかった。
……こんなこと、宗一は想定していなかったのだ。
ただ、世界を守らなくてはならないと、そして妹に殺人なんてさせられないと――そう思って、殺人に手を染めて――いつか熾天使の寿命が切れたときは、流れに身を任せて――最後まで妹の傍に居ようと思っていたのに。
詞音がミレニアムウイングになったから、ここまで千々に乱れるのだ。
そこまで計算して、響はミサイルを撃ち放ったのだろうか。
本当は人々と共に死ぬことではなくて、詞音をミレニアムウイングにすることで、離別の苦しみを――自分が味わったのと同じ辛さを、この二人に味わわせようとしていたのだろうか。
もし、そうなったのならば、千年前の再現でしかない。
互いを必要とする兄妹が生き別れて、相手の幻影を求めて、やがて時の流れと共に記憶を忘れて……空蝉響と同じ存在になる。
自分たちが守った世界を、千年後、自分たちが脅かすことになるだろう。
「……分かってるよ、宗一」
そう言って、詞音は兄の頬に手を添える。
妹を犠牲にすることができず、さりとて他の誰かを犠牲にする選択肢も選べず――情けない表情で悔しさに耐える兄の頬を撫でて、詞音は静かに微笑んだ。
「まだ、あたしたちはこの地球を救ってなんかいない。空蝉響を倒しても、兵器を破壊しても、あたしたちにはやらなくちゃいけないことがあるもんね」
千年間の犠牲。
それによって、この地球は千年間の安息を得る。
そこまで果たしてこそ、本当に地球を救ったと言えるのだ。
「……あたしが犠牲にならないと、なにも終わらないんだよね」
そう呟く詞音の顔は、失意に打ちひしがれてなんかいない。
先ほど死を覚悟したときよりも強くて落ち着いた表情をしていた。
それでも彼女の中で、『かつての詞音』が騒ぎ立てる。
あたしを大事にしてくれなかった世界を救う必要なんてない、こんな世界に生きる人々なんてみんな死んでしまえ。
宗一と一緒に消えるなら本望、それだけでいい。
この世界は、あたしに優しくない世界じゃないか。
救う必要なんて、どこにもない。
――本当?
……『今の詞音』が問いかける。
この世界はあたしに優しくないかもしれない。
だって、この世界は地獄なんだから。
でも、そんな世界でも、あたしを守ってくれる人がいた。
人としては最低だけど、命を賭けてあたしたちを守ってくれた父親がいた。
そして、あたしの心を支え続けてくれた宗一がいた。
今ここで逃げるならば、父親の死は無駄になる。
決死の想いで戦い、殺人をしてまで響を止めようとした宗一の覚悟も無駄になる。
そして、大好きな宗一と過ごした家も、初めて愛を知った神社も、心を震わせた花火も、全部全部消えてしまうのだ。
せっかく生まれてきてよかったと思えたのに、その痕跡を全て消してしまうの?
そんなの、生まれてこなければよかったと思っていたあの頃に、逆戻りするだけなのに。
「あたし、熾天使に成るよ」
生まれてきたことを誇りたいならば、生まれた世界を守るしかない。
例えそれが、千年間続く孤独の日々であっても。
「……嫌なら、やめてもいいんだよ?」
「いやじゃない――っていえばうそになる。ほんとは宗一の傍にいたいし、もしこの世界が滅びるとしても宗一と一緒ならしあわせだと思うから」
でもね。……そう言って詞音は言葉を切って、数秒間口を閉ざした。
どんな表情で伝えたら、宗一は安心して送り出してくれるだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は続きを紡ぐ。
「あたしね、この世界じゃなくて――宗一たちを守りたいの。全てが無くなっちゃったら、今までがんばって生きてきたことも、ぜんぶ無駄になっちゃうから。生きた証が残らないと、今まで生きてきたのが嘘になっちゃうから」
言いたいことはたくさんあった。
説得も激励も、ありとあらゆる言葉が口から出かけていた。
それでも、宗一は決意に満ちたその顔を見て――、
「……ん。…………分かった」
受け入れる覚悟をする。
千年間の別れ、そして、千年前の再現。
この先に待ち受ける忘却の日々を、彼は、受け入れる。
「……でもね、宗一。おねがい、聞いて」
「聞くよ、なんでも。詞音ちゃんの頼みだもの」
「あたしのこと、忘れないで。空蝉響と同じ、哀しい存在なんかにならないで。……千年後、あたしがこの世界に戻ってきたときに、いつもの笑顔で迎えてほしいの」
「…………」
一瞬、宗一は言葉に詰まる。
千年間を生きること、そしてその渦中で記憶を保ち続けること。
きっとそれは不可能に近いことだ。
写真も記録も、数百年程度で消えてしまうだろう。
詞音がここにいた痕跡は消え果てて、やがて顔も声も温もりも思い出せなくなって、存在自体を疑うことになるだろう。
もしも、詞音がここにいた痕跡が、永遠に残り続けたなら――きっと気が触れることはない。
痕跡を見るたびに詞音のことを思い出して、きっと記憶を永遠に抱き続けることができるだろう。
でも、そんな痕跡、あるはずが――。
「……あ」
そのとき、詞音が手に握っていたものを見て、宗一は気づく。
そうか。
もう、俺たちは持っているんだ。
永遠に消えることのない、お互いの痕跡を。
「…………うん。忘れないよ、絶対」
そう言いながら、宗一は懐から一枚の羽を取り出す。
桜の形を模った、桃色の羽。
目の前にいる大切な妹の羽だった。
あの日あのとき、祭の提灯が輝く中に、互いが渡し合った羽。
響を倒すきっかけとなった、相手の存在そのものでもある大切な宝物。
それは相手が生きている限り、消えることのない物。
時間の経過でも朽ち果てない、天使だけが持つ永遠の痕跡だった。
「やくそくだよ」
詞音は、片手に握り締めた宗一の羽を前に突き出す。
それに重ねるようにして、宗一も詞音の羽を突き出した。
自分の撃ち出した羽は、どこにあるのかを知覚することができる。
だから、相手がその羽を持つ限り、そこに相手がいることを感じ続けられるのだ。
そして相手の羽は、相手が生きている限り存在する。
だから、相手が今も生きていることを知り続けることができる。
千年間ずっと、相手の存在を感じ続けていくのだ。
それが無かったから、空蝉響は空しき存在と成り果てた。
それがあるからこそ、空蝉響とは違う未来へと繋がっていく。
もう、誰も、虚しき存在になることはないだろう。
「……じゃあ、宗一。そろそろ行くよ」
詞音がそう口にした瞬間、彼女の羽が脈動する。
熾天使の卵たるミレニアムウイングを、真の熾天使とするための儀式が始まるのだ。
仄かな黄金光を纏う詞音の桃色の羽が、一枚一枚抜け落ちていく。
その代わり彼女の背には、熾天使だけが持つ六枚の翼が生えていった。
どこまでも眩い黄金色に染まった、この世界唯一無二の翼だった。
そして、詞音の背から放たれた桃色の羽は、風に乗って流されていく。
始まりを告げる春のように、桜の羽が空を舞って、桃色の軌跡が空に残って――。
役目を終えた羽が、空で爆発する。
宗一と詞音とは遠く離れた空に、七色の閃光を放つ爆発が広がっていく。
どこを向いても色とりどりの光が瞬き、消えて、再び爆発して――夜空が光に包まれて――。
光と共に音を発し、まるで花火のよう。
兄に愛を抱いた、あの祭の夜のようだった。
「……あぁ、そっか……」
ようやく、詞音は理解する。
彼女の力は、他人を拒絶する深層心理から生まれた爆破の力ではない。
初恋の日に宗一と見た花火をもう一度見たいという、深層で胎動する恋心から生まれた花火の力なのだ。
誰かを殺す力ではなくて、誰かに寄り添いながら眺める力なのだ。
だからこんなにも綺麗で、眩くて、心を震わせる。
「………………」
幾澗色もの閃光が、二人を染め上げていた。
その横顔も、いつの間にか繋いでいた手も、なにもかもが花火の色に染まる。
世界の全てを染め上げて、花火はいつまでもいつまでも瞬き続ける。
永遠に続けばいいと思っていた初恋の瞬間が、今もまだ続いているかのように。
「……ねえ、宗一」
花火が全てを染め上げる。
だから宗一は、詞音の頬が赤く染まっているのにも、気づかない。
その顔を至近距離で見ても、彼女が耳朶まで恋色になっていることが分からなくて。
「……っ」
唇を重ねられて、ようやく、その顔が好きな人に向けるものだと気づく。
そのまま数秒、動くことすらできなくて――詞音が名残惜しそうに体を離していくのを、驚愕の表情を浮かべたまま見ることしかできなくて。
イタズラに成功した子供のような表情で、詞音は笑った。
誰よりも真っ赤になった顔は、花火の力を以てしても隠せないほどで。
どれだけ深い愛を抱いているのか、その顔を見て、宗一は知る。
「千年間、見てるからね。他の天使とあんまり親密になるんじゃないよ。あたし熾天使になるんだからね、心が乱れたら世界荒れるからね!」
「……………………お、う」
未だ動揺から冷めやらぬも、宗一は頷いた。
実の妹から愛されていたなんて、僅かばかりも気づいていなくて……でも、思い返せば気づく機会はいくらでもあって、それに気づいていない自分が愚鈍だっただけで……。
「ねえ宗一、告白の答え、……千年経ったら教えてね」
詞音が、大好きな宗一の体を抱きしめる。
「…………うん」
一瞬遅れて、宗一も彼女を抱きしめた。
もう、彼女の翼は限界まで輝いている。
世界全てを包むような燐光が広がり、新たなる熾天使の誕生を祝していた。
それは、熾天使となる準備が終わったということ。
それは、二人の別れが訪れたということ。
詞音の体は見えない力に引っ張られて、少しずつ地に落ちていく。
熾天使が眠る場所は地核の中。
だから、彼女はそこへ行かねばならないのだ。
二人の体がゆっくりと離れていって、とうとう引きはがされる。
だけれども、宗一は詞音を追おうとはしなかった。
ただその場に留まって、地球の中心へと落ちていく詞音を見据える。
詞音も、ただ宗一の姿を見つめ続けていた。
宗一も共に地に降りて、地表が二人を分かつ最後の最後まで共にいることはできるだろう。
だけど、二人は強くならなければならない。
今まで一緒に居続けた二人は、これから千年間別れなければならないのだ。
一人でも大丈夫、頑張って生きていくから。
それを証明するように、ただただ二人は見つめ合ったまま離れていく。
そして、相手の姿がどんどんと小さくなり――見えなくなっていく。
詞音は地表をすり抜けて、地層を越えていき、地核へと向かう。
不思議な安堵感と温もりに包まれて、どこまでもどこまでも落ちていく……。
(……やっぱり、宗一にとってあたしは妹なんだよね)
唇を重ねた後の顔を見ていれば分かる。
宗一は詞音を妹だと思い続けて、恋心を向けられていたなんて僅か程も思っていなかっただろう。
そんなの分かっていた。
だから、悲しむことなんてない。
楔は撃ち込んだのだ。
……あたしのことを愛してくれるかどうかは、千年間考えてくれればいい。
いつかその答えが聞ける日を、地球の中心で、ずっと待ってるから。
地を落ち続けていた彼女は、やがてマグマの揺り篭に辿り着く。
そこは熾天使が眠る場所、この世界を動かすための心臓部。
ここで彼女は、永い時を過ごしていくだろう。
(……………………)
全ての中心となるその場所で、詞音は静かに瞳を閉じる。
これから世界がどうなっていくのか、それを眺めていくのは後の話だ。
今はただ、眠りにつこう。
永い戦いを終えて、疲れ切っているのだから。
少しずつ少しずつ、夢と現実の境目が虚ろになっていって――意識が闇の中に溶けていって――。
おやすみ、宗一。
おやすみ、あたしの世界。
また、いつか。
月夜を飛ぶ、一人の天使。
妹を見送った宗一は、後ろ髪を引かれることもなく、ただ空へと飛んで行く。
これからどこに行こうか、そんなことを考えながら。
時間なら永遠と呼べるほどあるのだ。
まずは世界を巡って、色々なことを知ろう。
そして考えよう、実の妹から与えられた、愛という命題を。
(全く、詞音ちゃんは……)
こんなことされたら、忘れたくても忘れられるわけないだろう。
忘れないでと言っておきながら、忘れさせるつもりなんて全然ないじゃないか。
……そう思い、宗一は小さく笑う。
その胸に抱くのは、桜の羽。
先ほど唯一爆発しなかった、詞音の持つ最後の羽だ。
これがある限り、彼は強く生きていくだろう。
千年間を正しく生き続け、自分を見失わずに済むだろう。
(そうだ。……まずはやらなくちゃいけないことがあったな)
宗一は遠い空へと飛んでいく。
自分が死なせてしまった分だけ、誰かの命を救う。
殺人に対する贖罪として、やろうと決めていたのだ。
まずはそう、それをやり遂げよう。
何年かかるかは分からないけど、たくさんの命を救ってみせよう。
そうしたら、千年後――胸を張って、詞音ちゃんに会えるだろうから。
宗一は、どこまでもどこまでも飛んでいく。
月に向かうかのように急上昇して、そして果てを目指すように水平飛行をして。
段々とその姿が小さくなっていって、見えなくなっていって。
……やがて、彼の姿が消える。
世界のどこかに旅立って、もう、姿さえ見えなくなる。
ここに戻ってくるのは、千年後。
だから、それまではお別れだ。
さよなら、世界。
また、いつか。




