36章 闇倉家の決断
「そ、……そう、いち……」
「言ったよね。助けを求めてくれれば、いつでも駆けつけるって」
兄の声を聞いた詞音は振り返ろうとするが、物凄い力で首を固定されていて、振り向くことができなかった。
それは己の姿を見られることを恐れているかのように、宗一は詞音の体を抱きしめながら、その視線が自分に向かないよう必死に力を込めていた。
殺人を犯した証拠である黒翼を、見られたくないのだ。
……そんなの、とっくに分かってるのにね。
握り締めた硬化の羽を見ながら、詞音が力なく笑った。
響に一撃をくらわせるために硬化の羽を手にした瞬間、もう、兄が苦渋の決断を下したことは知っていた。
悪魔の羽と化したそれが、罪の顕れであることは分かっていたのだ。
……兄がその決断を下したからこそ、詞音も自分の命を犠牲に人々を助ける決断をしたのだ。
分かっているけど、振り向かないよ。
だって見られたくないんだよね。
宗一がどんな姿になっても、こうして一緒に居られるだけで私は幸せだよ。
「……宗一、響が……ミサイルが……」
「大丈夫、分かってる。ここに来るまでに全部聞いたもの」
誰に?
という詞音に問いかけに、宗一は答えなかった。
その姿を見せることによって伝えようと思ったが、周囲を見回しても清正の姿は無い。
全速力でここに向かってきたので、引き離してしまったのか。
それとも決意を反故にしてどこかへ逃げたのか……。
どちらにしても、探している時間はなかった。
空に瞬くフレアは随分と大きくなり、銀河に存在する暗黒星雲のように黒々とした円を描いているのだから。
「……ねぇ、宗一……あたしね、がんばったよ……」
「うん。よく頑張ったね、詞音ちゃん。響を倒して、しかも俺との約束を守って殺さずに事を終えたんだよね。……すごいよ、本当に。…………俺とは大違い」
「でもね、あたしね、……まだ、がんばらなくちゃいけなくてね……あたしがしねば、みんなをまもれるから……でも、でもね……」
「……うん」
「こわいよ……そういち……」
「……そうだね」
天使として死を迎えれば、もう後は無いだろう。
どれだけ利他を想って死んでも、もうチャンスなどないのだ。
死んで、天国に行くか地獄に行くか、それとも煉獄へ落ちるか。
もしかしたら新たな命として輪廻転生するかもしれない。
それとも死んだら無になって、永遠に虚無の空間を彷徨い続けるのか。
どの文献に書かれた死後の世界に辿り着くにせよ、もう、兄とは会えないのだ。
「……ねえ、詞音ちゃん。一つだけ、お願いがあるんだけどさ」
「………………」
「最期まで一緒にいてもいいかな。……詞音ちゃんが消えるなら、俺も一緒に消えたいんだ。一人ぼっちで死なせることなんてできないよ」
もしも振り返ることが叶うならば、きっと詞音は兄の顔を見ていただろう。
共に死んでもいい。……その言葉は、愛の告白にも似ているのだから。
祭壇の前で捧げる誓いの言葉が、その後の人生を全て捧げることを認める言葉ならば……この場で共に人生を終わらせてもいいという言葉も、誓いの言葉と言えるだろう。
今ここにある命を相手に全て捧げる言葉で、相手の命全てを捧げてほしいという乞いなのだから。
乞いの言葉。
それはまるで、恋の言葉。
詞音の胸中に渦巻いていた恐れの感情が、嘘のように静まっていく。
死を目前に控えているというのに、今の彼女は安堵感を覚えていた。
例えこの先に待ち受ける末路が塵と消え果てる未来であっても、迎える結末はハッピーエンドなのだから。
この背に伝わる温もりが、脈打つように伝わる鼓動が、鼓膜を揺らす言葉が、彼女を幸せに彩るのだ。
幸せなまま死ねるなんて、ハッピーエンド以外にありえない。
幸せな死を、彼女は受け入れる――。
「……早まるな、詞音。今死んでも無為な死を迎えるだけだ」
そう言いながら詞音の前に降り立ったのは、琴浦清正だった。
黒羽が舞い散る世界の中、親子が十六年ぶりに再会する。
……いや、再会というにも値しないだろう。
詞音が生まれた直後に離婚したので、彼は一度も詞音を抱いたことすらないのだ。
だから、それは再会というよりも邂逅。
家族として視線を通わせるのも、言葉を交わすのも、全てが初めてなのだから。
「窓塚源治……ッ!」
敵襲かと思い、詞音が両翼を勢い良く広げる。
しかしそこで動きが止まったのは、清正の顔を見て、彼が源治ではないと悟ったからだ。
イントネーションのはっきりとした口調、澱んでいない瞳、そして半壊した頭部。
それを縒り合わせて考えれば、正気に戻ったことは容易に想像できる。
だから詞音は翼を広げたまま、言葉を失うことしかできない。
初めて出会った父親に、なんて言葉をかければいいかなんて分からないのだから。
数秒の沈黙を挟んでから、清正が懐より一枚の書類を取り出す。
「大仏殿に保管していたものなのだが、これは諸外国の基地から盗んできたミサイルの仕様書だ。装甲板強度と機体構造を見る限り、お前が真正面からぶつかって爆発したとしても、ミサイルを破壊することは不可能に近いだろう」
「…………」
詞音は憮然とした表情をする他ない。
家族を見捨てて、詞音に地獄の運命を背負わせ、響に洗脳され計画の中枢を担った男。……彼が初めて家族に語る言葉が、贖罪の言葉ではないことに、怒りを覚えざるを得ないのだ。
お前のせいであたしは、あんな地獄を生きることになったのに。
そう叫びたくなるのを堪え、彼女は黙りこくって言葉を待つ。
「必要なのは機体の一部を破壊し、内側へ潜り込むこと。そこで爆発すれば内部の爆発物に誘爆して、ミサイルを確実に破壊することができる。……分かるか詞音、今のままでは誰も救えない」
「……それが、あたしに言いたいこと? ……あたしを地獄に落としておいて、よくそんなことが言える……」
「…………お前に言いたいことは、別にあるさ」
清正は、一瞬だけ臆し、それでも覚悟を決めたような表情を浮かべる。
「お前を死なせはしない。……これが、父親として最初で最後の役目だ」




