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35章 再会

 虚空へと磔にされた詞音には、彼女を追うことができない。

 だから落ちていく響の体が見えないほどの小ささになって、山の林へ消えていくのを見届けることしかできなかった。


「……っ」


 だがその瞬間、詞音の目の前に、先ほど叩き斬られて空へと吹っ飛んだ響の腕が落ちてくる。

 彼女はそれを辛うじて掴み、力なく揺れるその指先を使って、己の羽に刺さった響の羽を抜き飛ばした。


 彼女は腕を投げ捨て、響の墜落場所へと急降下していく。


 彼女が落ちていった場所は、杉並区第七災害備蓄倉庫の目の前だった。


 もし彼女がそのまま墜落していたならば、地面と激突して即座に命を失っていただろう。

 あの高さから激突すれば一溜りもない。


 だが、彼女が生き延びていたのは――地上で誰かに抱き留められたからだった。


「……お前は……」


 その姿を目撃した詞音が、目を見開く。


 備蓄倉庫の前で、交が響を抱きかかえて立っていたのだ。


 それは赤子をあやすように慈愛に満ちて、けれども敵兵の死体を扱うような粗雑さにも満ちていた。

……妹へ向ける愛情と、宿敵に対する敵意が混ざり合って、彼の表情も仕草も混沌と化している。

 愛憎混じり合うその心境は、きっと、本人以外には語り得ぬものだろう。


「……兄との約束を忘れたのですか、闇倉詞音」


 熾天使としての凛とした口調で、交はそう告げる。

 そして地面に響を横たわらせ、その姿を見下ろした。


「この女を殺すことは、兄の本懐ではなかったはず。……努々気を付けることです、兄との約束が果たせなくなるのは貴方も望まないことでしょう」


 そして、この私も。

 熾天使はそう言いたげな目をしていた。


 彼の足元に横たわる響は、もう兄との約束を果たせない。

 約束自体を忘れてしまった人間に果たせるものなど何もない。

 だからその代わりに、交は宗一と詞音の交わした約束が成就されることを願っていた。


「あなたの一撃は心臓から僅かに逸れた位置へ突き刺さっていました。即死は免れたとはいえ重症です、簡易的であっても何らかの処置をしなければいずれ絶命するでしょう」


「……分かってる」


 詞音が二人に歩み寄り、響の横にしゃがみ込む。


 彼女は響の胸に突き立った硬化の羽を抜き取り、その代わりに爆破の羽を胸と右手の上に置いた。


 そして、殺傷能力を極めて落としながら爆破する。


「が……ぁ……ッ!!!」


 熱爆破によって傷跡が潰れ、出血は一時的に止まった。


……人間なら死んでいただろう、生命力が高い天使だからこそできる荒業だ。

 尤も天使であっても重症なので、数日は動けないはずだ。


 爆発を受けた響の瞳は混濁している。

 しかし、なんとか意識を保っているようだった。


「…………ねえ、熾天使さん…………」


 掠れてしわがれた声で、響が呼びかける。

 多くの血を失ったことで彼女の瞳は澱み、正気なのかすら判別することができなかった。


「私、さ……あなたに、会えば……幸せになれるって思ってたの……。げほッ、げほッ!! ……ねえ、私……幸せになれるのかな……幸せに、なれたのかな……」


「なれるわけがないだろう」


 あまりにも冷淡な目を向けて、交はそう告げる。

 容赦も情けも一切ない、兄としてではなく熾天使としての神託だった。


 しかしその目は僅かに潤んでいる。

 彼の中にある兄としての心が、響の傷ついた姿を見て悲鳴を上げているのだ。


「お前は私利私欲のために人を殺し過ぎた。幸せになる権利などありはしない。……生きている限り永遠に苦しみ続けて、死んでも行く末は地獄だ」


「……そっかぁ……」


 咳き込み、吐血を繰り返しながら、響が胡乱な声でそう言う。


 彼女の瞳は何を見ているのだろうか。

 きっと現実でもなく、夢でもなく、白昼夢でもない何かを見ているのだろう。


「……ねえ、幼子ちゃん。私、みんなを幸せにしようと思ってたんだけど……無理みたい」


「そんな世界、誰も望んでない。あんたが勝手に一人で舞い上がってただけ。もうあきらめて」


「……寂しいね……みんな幸せで……一緒になれると思ったのに……一人で死ぬのは、少しだけ寂しいなぁ……」


 彼女の浮かべた笑みが、次第に狂気を帯びていく。


 その目に力が宿っていき、純黒の眼を見開いた。


「だからね、みんなで死ぬのがいいと思うんだよ」


「……え……?」


「私優しいからさ……みんなで幸せになれないなら、みんなで死ぬのが一番いい終わり方だと思うの……一緒が一番だからね、そうでしょう……?」


「なにを……なにを言ってる……?」


 震える左手をゆっくりと上げて、響は遥かなる空を指さした。


 空に浮かぶ満月と、都会の街灯りによって霞んだ星々、時折空を横切る飛行機――。


 その中に、一つだけ、異様に明るい星があった。

 赤褐色のフレアを纏いながら、闇夜の中で徐々に大きくなる異様な星だ。


「東京のみんなでさ……心中しようよ。幼子ちゃんも、私も……君のお兄ちゃんも……熾天使も……人々も、みんな、みんなでさ……」


「あれはなんだ……なんなんだッ!」


「諸外国から撃ったミサイルだよ……核は搭載できなかったけど、あらん限りの爆薬を詰め込んだ新型だ……。東京都心に撃ったから、きっと……被害は、すごいよ……」


「……………………ッッッ!」


 瞬間、詞音が血相を変えて空へと急上昇する。


 木々を越え、摩天楼を越え、山を越え――天地の半ばに至りて、詞音は遥かな空で瞬くフレアを見据えた。


 響がミサイルと呼んだそれは、今こそ小さな星屑にしか見えないが、その体躯は時間と共に大きさを増していく。


 着弾地点は東京都心、迫り来る影の拡大速度を見る限り避難は間に合わない。

 恐らく十五分もしないうちにここへ着弾し、東京を火の海へと変えていくだろう。


 そう、詞音が勝っても負けても、響が思い描いたシナリオが実現するのだ。

 響が勝てば詞音が操り人形となり、彼女の計画が続く。

 響が負けても、みんなで心中するというハッピーエンドを迎える。

 どちらにせよ、大量殺戮は為されるのだ。


 響の頬に、重くて鈍い汗が一筋垂れていく――。


(どうする!?)


 ミサイルを止めるとなれば対ミサイル兵器が挙げられるが、恐らくそちらも響に操られていて望めないだろう。

 今から響を殺しても発射は間に合わないはずだ。

 だとすれば、ミサイルを破壊するだけの別兵器が必要となる。


(どうする……!?)


 この背にある爆破の羽を使おうとも、当てることは不可能だろう。

 天使の飛行速度よりも圧倒的な高速で迫り来るミサイルに並走して、羽を当てることなどできるはずもない。

 それに当てることができたとしても、生半可な火力では破壊することなど叶わない。


(……どうする……!)


 対ミサイル兵器も駄目、天使の力も通じない。

 だとすればもう、詞音に残されたのは逃げることだけだ。


 東京に生きる人々を見捨てて、心の中で謝罪をしながら、被害の及ばない場所へと全力で逃げること。

 それが、今唯一できる手段なのだ。


(………………………………)


 本当は、分かってる。


 逃走は唯一の手段なんかじゃなくて、安全策だということは分かっている。


 一つだけ、あのミサイルを破壊する手段はあるのだ。

 詞音はもうそれに気づいている。


 ……気づいているが、気づかないふりをしているのだ。


 ミサイルを破壊する手段が、一つだけある。


 だってここにいるのだ、対ミサイル兵器にも匹敵する天使が。


「……………………」


 ミサイルに対して、真正面から突っ込む。

 その身を弾丸としてミサイルの先端に接触し、その翼全てを爆破させて破壊する。

 これなら何とか破壊できるかもしれない。


……しかし、それは即ち、特攻せよということ。

 その身と命を犠牲にして、人々を守るということだ。


 恐らく羽とミサイルの爆発に巻き込まれ、詞音の肉体は塵一つも残らないだろう。

 生き残る可能性など万に一つもない、正真正銘、命を賭して挑むしかないのだ。


(あたしが死ねば……人々を、救える……)


 当然、そんな自己犠牲を容認する詞音ではない。

 兄以外の存在など彼女にとっては虫けら、命を賭けてまで守る必要性など無いのだ。


 しかし、もしも宗一が同じ立場にいたならば、きっとその身を挺して人々を守っていただろう。

 きっと彼は、詞音にごめんと言って、その命を捧げていたはずだ。


 そんな優しい人だからこそ、好きになったのだから。


……人々を見捨てた詞音を、果たして宗一は受け入れてくれるのだろうか?

 利己的な意思で他人を犠牲にした妹を、再び抱き締めてくれるのだろうか……。


 命を失うことより、あなたに軽蔑されることのほうが怖いよ。

 宗一。


 そう思う詞音の瞳からは、一筋の涙が伝っていた。


(こわいよ)


 それでも、やるしかないのだ。


(逃げたいよ)


 それでも、救うしかないのだ。


(……もう一度だけ、会いたいよ)


 それでも、死ぬしかないのだ。


 だけど、頭では分かっていても、心が震えて立ち尽くす。


 きっと昨日までの詞音だったなら、どうにか自分を諫めて立ち向かえたのだ。

 自分の命に価値なんてないと思っていたときならば、その勇気は成就したのだ。


『詞音ちゃん。……生まれてきてくれてありがとう』


 でも、もう、知ってしまった。

 自分の命には価値があって、兄に望まれし生であったことを。


 死にたくない。

 でも、死ぬしかない。


 成長したからこそ、こんなにも怖いのだ。


(たすけて、たすけてよ、宗一……)


 一人ぼっちで死にたくなんかないよ。


 いつもの笑顔が見たいよ。


 例えこれが、死んでも寄り添い続けたあたしたちが、離れ離れになるまでの旅路だとしても。


 笑って送り出してほしいよ。

 ねえ、宗一。


「たすけてよ……宗一……!!」


 ……黒き羽を携えたそれは、一羽の鴉に見えた。


 翼が空を切り裂いて、舞い散る黒羽が軌跡のようで。


 虚空の中心で涙を流す少女の元へと、鴉は飛んで行く。


「……約束通り、来たよ」


 宗一は、妹の背を抱きしめて、その頭を撫でるのだった。

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