34章 磔
「正直なところね、君のことは最初からあまり快く思っていなかったんだよ。ほら、昔の自分に似ているって言ったじゃないか。……幼子の頃の、愚かな自分に似てる気がするんだ。だから、君の青い言動に腹が立つときもあったんだよ」
杉並区第七災害備蓄倉庫、上空。
磔にされた詞音の真正面で、響はそう告げる。
……その距離は詞音が手を伸ばしても届かないほどで、どう足掻いても響に危害は加えられない。
羽は動かず、武器もない。
手は届かないし、助けも望めない。
今の詞音は足掻くことすら封じられ、ただ響の言葉を聞くことしかできなかった。
「大人になろうよ、幼子ちゃん。誰かに依存なんてしたらね、いつか心が壊れちゃうんだよ。君は永遠に兄と一緒だと思ってるかもしれない。だけどね、その考え自体が浅はかなんだよ。いつか死に別れる日が来たとき、君はちゃんとさよならを告げられるのかい?」
「……自分が空蝉交に会えなかったからって、上から語んな」
「交……」
その名前を聞いて、響が一瞬考え込む。
忘却の彼方に追いやられた兄との記憶が僅かでも残っているならば、何かの動揺が見えるかもしれない。
だが、彼女の表情は僅か程も崩れなかった。
「そんな人、いた気がするなぁ……」
今の彼女が憶えているのは、かつて誰かに依存したせいで自我を失ったことだけ。
その相手が誰で、どんな関係性で、どれだけ愛していたのかは思い出せない。
兄の名を語られたところで、千年前の出来事を教えられたところで、彼女にとっては知らない記憶。
相手が攪乱のために、過去を捏造したとしか思えないのだ。
熾天使と出会うことを目的として生きて、その熾天使こそが心から愛した待ち人だというのに、今の彼女はその姿を見ても兄だとは判別できない。
自覚のないまま目的をやり終え、自分でも分からない満足感を得て、世界を望むものに書き換えた後、死に至るだろう。
兄と共に寄り添い続けるという千年前の望みは、もう、絶対に叶わない。
「……ん」
そのとき、源治と響のリンクが解除される。
どれだけ源治を操ろうとしても操作が届かず、彼女の脳内には不愉快なノイズが流れ続けた。
同時刻、宗一との戦いが終わり、源治は清正という存在へと戻ったのだ。
源治を介して操っていた人々も操作できず、彼女の持ち駒は半減、飛車角落ちの状態になっていた。
(清正君は少年に殺されちゃったのかな? ……目標が叶う目前だったのに、また一から出直しかぁ)
億劫そうにため息をつく響だが、その表情に落胆の色は浮かんでいない。
むしろ、新しい玩具を見つけて嬉々としているようだった。
(まあいいや、少年で遊ぶほうがおもしろそうだもんねー。あれだけの殺意を見せたんだ、これからも私の退屈を紛らわせてくれるに違いない)
己の羽を手に持ち、ダーツを構えるような体勢で、響は切っ先を詞音に向ける。
「向こうで不測の事態が起こったようでね、あと五分もすれば主賓が到着しちゃうんだ。その前に君は操らせてもらうよ。軽く頭に刺して、しばらくの間意識を奪わせてもらうね」
「く……この……!」
「そう嫌がらなくても大丈夫! 私優しいから、君を大事に使うよ。約束する」
どれだけ身を捩っても、叫んでも、暴れても、抜け出せない。
抗う手段など無く、彼女にできるのは迫り来る羽を見つめることだけ。
一度洗脳されてしまえば、後はもう抜け出せないだろう。
体の自由を全て封じられ、実の兄を洗脳するための道具として扱われるはずだ。
そんな未来、受け入れられない。
しかし抗う手段も無い。
だから彼女は祈るのだ。
宗一が助けに来てくれることを。
……どれだけ祈っても、助けになんか来れないと知っていながら。
「くッ!」
迫り来る羽を振り払うため、詞音が左手を薙ぐ。
風を切る音を立てながら、彼女の手が響の羽に近付いていき――。
「……あうッ!」
手の甲に、思いっきり響の羽を突き立てられた。
その瞬間、彼女の左腕が全く動かせなくなる。
どれだけ動かそうと念じても、既に詞音の左腕は響のものだ。
「……無駄だよ、幼子ちゃん。君はもうどうしようもないの」
再び響が羽を手にし、詞音へと近づけていく。
「宗一……!」
「お兄ちゃんは助けに来れないよ」
「……来るよ……」
だって、あの日からずっと宗一は見守り続けてくれたのだから。
いまもずっと、傍にいるのだから。
「では、是にて」
響の羽が、詞音に突き立てられる――。
「宗一は、ここにいるよ」
――寸前。
鮮血が闇夜を赤く染め、空へと昇った血が雨のように降り注ぐ。
響の右腕は、肘から先が無くなっていた。
見上げれば、月を背景にして腕が血を撒き散らしながら舞っている。
「――――」
詞音の手には、一枚の黒い羽が握られている。
それはかつて清廉な純白に染まっていた兄の羽、夏祭りの会場で受け取った彼からの贈り物。
今の彼女が持つ、唯一の武器だった。
羽を磔にされた瞬間から、彼女はそのチャンスをずっと窺っていた。
爆破の翼という圧倒的な武器を持つ者が、わざわざ他の武器を隠しているとは思いもしないだろう。
硬化の力を持つ一枚の羽が、彼女に残されたラストチャンスだった。
右手に忍ばせていた兄の羽で、彼女は響の手を叩き斬ったのだ。
「え……」
失われた腕を見て、響は目を丸くする。
呆けたのは一瞬、事態を把握したのは二瞬、追撃を回避するために後ろへ下がろうとしたのが三瞬。
しかし、二瞬が訪れた頃にはもう、詞音は行動を終えていた。
その場から動けない彼女は、持っていた硬化の羽を投擲したのだ。
羽の射線はブレることなく響の胸部へと向かい――深く、突き刺さる。
「ぁ……」
致命的な一撃を喰らい、響の動きが止まる。
世界が静寂に包まれ、時が止まったかのような感覚が二人を襲う。
唯一動き続けているのは、彼女の傷口から溢れ出る鮮血だけだ。
響は、詞音の姿を真っ直ぐに見た。
「………………」
そして、狂気的に、淡々と、あるいは祝福するように、あるいは憎悪するように、笑った。
……美しき血の花びらを舞い散らせながら、ゆっくりと、彼女の体が墜落していく。
彼女は翼をはためかせることもなく、……静かに静かに、神昭山へと落ちていった。




