26章 最後の一日
死の臭いと共に、宗一は目を覚ました。
それは死が訪れるときに発せられる臭い。
人はその臭いを臓器の腐敗臭と呼び、硫黄臭と呼び、大海の臭いと呼び、アンモニア臭と呼び、ケトン臭と呼ぶが――宗一が感じているのは、そんな病人が死ぬ直前に放つ臭いとは異なるものだ。
一言で表すならば、予感の香気化だろう。
死を体感したことによる弊害だろうか、彼は、今日多くの死人が出ることを悟っていた。
その死の頭数に、自分たちは入っているのだろうか?
そんな考えを払拭するように、彼は頭を振って思考をリセットし、窓から差し込む朝日に目を細める。
最後の一日が始まろうとしていた。
目を覚ました宗一と詞音は、寝具を畳み、小さな欠伸を零しながら階下へと向かう。
なんやかんや昨晩、寝酒だの隠し事の暴露だの色々なことがあったので、彼らの思考はどこか寝不足気味に鈍っていた。
階段を下りていく最中に聞こえてくるのは、何者かの声。
少しくぐもった音質からして、テレビかネットの映像が流れているのだろう。
確か階下のフロアには古ぼけたテレビが置かれていたので、恐らく交がそれを見ているのだと思われる。
熾天使ともあろう者が朝からテレビを見るとは、なんとも庶民的な神だ。……なんてことを思いながら、宗一たちは音の流れゆく部屋の扉を開ける。
「おはようございま~す……」
『ああ、おはよう』
扉を開けて、すぐに気づく。
予想通り交はテレビを見ていた。
しかしその表情は新しい情報を得ようとしているわけではなく、既知の情報を確認するかのようなもの。
きっと彼は既にこの事態を把握していて、起きてきた二人に映像を見せるためにテレビを点けていたのだろう。
テレビから響いてくるアナウンサーの声は、切羽詰まったかのようにどこか慌てふためいている。
普通有り得べからざることだが、他の報道スタッフたちがざわめく声や走り回る姿も放送に乗っていて、異常事態が発生したことを如実に表していた。
昔、大規模な災害が起こって現場が混乱しているときも、こんな放送が流れていたのを思い出す。
まさか再び大きな災害が起こったのでは――と短絡的な憶測をするほど、宗一たちは耄碌しているわけではない。
誰が何のために大事を起こしたのか。
それくらいのことは、もう、察していた。
「空蝉響が動き出したんですね」
彼女が一体何をしでかしたのか、それを知るために、宗一たちはテレビを注視する。
その瞬間、アナウンサーの姿を映していたテレビが不意に消灯する。
……違う、電源が切れたわけではない。
テレビ放送が真っ暗な画面を放送し始めたのだ。
時折流れる波状のノイズと、通常の放送ではありえない画面のちらつき。
それは、この映像がテレビ局側の流したものではなく、電波ジャックにて流された映像であることを物語る。
数秒のときを置いて、漆黒の映像は、色鮮やかな映像へと切り替わる。
そこに映るのは懐かしの渋谷。
高層ビルが立ち並び、人々が行き交う都会の姿だ。
天使に成る前も、天使に成った翌日も、彼らはその地を訪れていた。
でも、渋谷は、これほどまでに赤く染まっていただろうか……?
「……っ」
あの詞音が、言葉を失って息を呑む。
兄の服をぎゅっと掴んで、その指先を戦慄かせていた。
精神的な地獄なら何度も見てきた、物理的な地獄なら飛行機が墜落したあの日に見てきた。
だがそれは喩え話としての地獄であって、地獄のような何かでしかなくて。
これほどまでに地獄そのものを見たのは、初めてだった。
渋谷は、死の街と化していた。
人々の脳に埋め込まれた源治の羽が、その意識に死への衝動を与えていく。
抗いようのない希死念慮に苛まれ、人々の自意識が罅割れる。
我先にと争うように、渋谷の人々は飛び降り自殺をしていく。
ありとあらゆる建物から人が飛び降りて、地面に赤い飛沫が広がって、溢れた血が地面を染め上げていって――一面が赤く染まっていった。
見上げる空には、投身自殺していく人々の姿が映り。
見下ろした地には、死体から溢れ出た血が流れていく。
まるでそれは肉の雨、まるでそれは血の海。
天地の半ばに人が舞い、地には真紅の波紋が広がっていく。
翼を持たぬ彼らが空を飛べるはずもない、それでも彼らは飛べることを信じて疑わないような表情を浮かべていた。
車が、銅像が、線路が、オブジェが、看板が、ポストが。
面並ぶありとあらゆるものが、流れゆく血の海に呑み込まれて赤く染まりゆく。
まるで赤き海が津波を起こして、街を埋め尽くしていくよう。
一体何人の人間が犠牲になればここまでの海ができるのか、一体どれほどの人間を殺し尽くせばここまでの惨劇が作り上げられるのか。
誰もが絶句する中、渋谷の赤い海の上で羽ばたく天使の姿が写り込む。
清々しい笑顔を浮かべたその女は、どこかこの惨状とは不釣り合いで、映像に合成された存在であるかのよう。
だが彼女の本性を知るものは、彼女が地獄でこそ本当の笑顔を浮かべる存在だと知っていた。
女が、空蝉響が、カメラに向かって歩くように飛んでくる。
赤く染まったその道は、まるで愛を祝すバージンロード。
永遠の愛を誓う道、糾う恋の終着点のよう。
『やあ少年、幼子ちゃん! 熾天使さんも一緒に居るのかな? いい朝だね、気持ちのいい快晴だ! 我々が雌雄を決すには相応しい日だと思わないかい?』
彼女は天使であるため、人間に姿を捉えられることはない。
だからそれは天使にのみ向けられたメッセージ、それも、特定の天使にのみ向けられた言葉なのだ。
『端的に言おう、かつ劇的に言おう! 君たちにもう一度会いたいんだ! 私たちの仲間になってほしいからね、今度こそ仲良くしようよ! 君たちも私に会いたいだろう? 会いたいに決まっているともさ! 我々は意見が合おうが合うまいが、再び相見えることを運命付けられた存在なのだからね! はっは!』
渋谷は既に血に呑まれ、飛び降り自殺をしても着水するだけとなっていた。
だから人々は、各々好きな得物を手に取り、己の肚を掻っ捌きながら落ちていく。
血の海に浮かぶ、無数の臓器。
それはさながらコーンスープに浮かぶコーンのよう。
人食を好む生き物がこの世にいるならば、きっと舌なめずりをして悦ぶに違いない。
『あぁ、誠に残念で遺憾だが、拒否権は無いと思ってくれていいよ! 君たちが再会を拒否するならば、この惨劇が世界各国で始まるだろうね! 人々は我々の資源だから殺すのは大変大変大変大変大変勿体ないけど、まあ、君たちがワガママを言うならある程度の犠牲はやむを得まい。……幼子ちゃんならお好きにどうぞと言うだろうけど、少年なら見過ごせないよね? 自分たちのせいで犠牲者が増えるなんて、耐えられない性格だもんね~?』
「………………」
再び、詞音が怯える。
それはあまりにも残酷な映像を見たからではない。
今、自分がしがみついている兄から、言葉では言い表せない感情を受け取ったのだ。
それはあの日、父親の体を操作して家族全員を殺したのだと響が告げたときと同じ怒気。
目の前にいるいかれを、……何があろうと止めてやろうという、純粋な感情。
『今日の夜二十二時! 少年は我々が寝食を共にした寺院へ、幼子ちゃんはあの懐かしき杉並区第七災害備蓄倉庫のある山へ! それぞれ私と源治がお待ちしているよ。たっぷりとお話ししようね、私たちの将来に関わる大事な話を!』
その誘いに拒否権など無い、そして宗一たちにも拒否する気持ちなど無い。
二人が良く知るその場所で、この世界の未来は決定するのだ。
『大丈夫、私優しいから君たちを幸せにしてみせるよ。だから君たちも私に優しくしてね。お互いが歩み寄れば、迎える結末はハッピーエンド! 世界中のみんなと一緒に幸せになれるよ! だから幸せになろうね、一緒に幸せになろうね! 待ってるからね~!』
ブツ、と映像は突然途切れた。
そして再び映し出されるのは、半ばパニック状態にあるテレビ局。
響による電波ジャックが終わり、本来映し出される映像が戻ってきたのだ。
彼らが慌てているのは、無論電波ジャックされたこともあるだろうが、それ以前にもっと酷い惨劇が起こっていたからに他ならない。
アナウンサーの後ろに立っているフリップには、被害報告をまとめた文章が綴られている。
それによれば、異常事態の発生現場は渋谷だけではない。
京都、奈良、函館、那覇、大阪、名古屋、池袋、岡山――日本の多くの場所で、同じような惨劇が起こっているようだった。
「……………………止めなくちゃね」
半ば呆れの籠った口調で、宗一はそう言った。
もう感情を荒げることも、語気を強める必要もない。
今日の夜、再び宿敵と出会い、どちらの主張が通るかを決めるだけ。
あと十数時間もすれば、全てが決まる。
怒りを露にする必要など、どこにもないのだ。
「詞音ちゃん、覚悟はできてる?」
「誰に聞いてんの。……あの女をボコる覚悟なら、宗一よりもずーっと前から、それこそ出会ったときからできてるし」
「そうだね。俺の覚悟が遅いくらいだね」
二人、言葉も交わさず手を握り合って。
やがて来るであろう決戦への覚悟を、示し合わせる。
「もうすぐ、全部終わるね」




