25章 焦がれし終夜
只管、階段を上っていく。
彼らの寝具が並んだ階を越えて、古ぼけたサーバールームを越えて、空きフロアを、機械室を、オフィスフロアを越えて――。
辿り着いたのは、逃げ場のない屋上のヘリポートだった。
……いや、逃げ場が無いというのは偽りだ。
翼を持つ彼らは、空さえ続く限りどこにだって飛んでいけるのだから。
だから、彼女がそこにいるのは、逃げ場を失ったからではない。
宗一と腹を割って話すために、心の準備をする時間が欲しかっただけ。
そしてもう、その覚悟はできているのだ。
嫌味なくらい円らかな満月に見下ろされて、二人は仄かな月明かりに照らされている。
出入口に背を向けている詞音の顔は見えないが、彼女がどんな顔をしているかは、ずっと共に居続けた宗一には分かっていた。
しかし、表情は分かれども、どんな言葉をかけたらいいかは分からずに。
だだっ広いヘリポートで、二人の距離は三メートルほど開いている。
だが言葉を探している内に、体感上での距離はどんどんと広がっていた。
何か言わなければと思えば思うほど、言葉は糾う糸のようにもつれて、喉の奥に引っ込んで。
詞音に言いたいことは、たった一つ。
だけど、その一言が言い辛くて、言葉が澱む。
だって、絶対に詞音には言えないと、彼は語っていたのだから。
本人に隠していた本心だからこそ、面と向かって言うのが憚られ――。
「……どうして、あたしに言えないって、おもってたの」
そんな彼の心を読んだかのように、詞音が小さく呟いた。
誤魔化すことはいくらでもできるだろう、嘘をつくことだって、冗談めかすことだって、きっと簡単だ。
だがこの言葉は、いつか本人に直接言おうと思っていた言葉。
今誤魔化せば、もう二度と語れない。
分かってくれるだろうか?
宗一はそう思いながらも、静かに息を吸い込む。
「……詞音ちゃんに言っても、多分、本気で信じてくれないって思ってたんだ。『あたしを気遣って言っているんだろう』って思われて、むしろ余計に落ち込みかねないって思ってたから……」
「………………」
それは、事実だった。
『もしも自分がいなければ、宗一はもっと幸せになれたのに。そんなことを考えた夜は何度だってあった。きっと宗一は優しい人だから笑って否定するだろう、そう思いつつも真意は聞けず仕舞いだった』
詞音には、宗一の本心を率直に受け入れられるだけの自己肯定感が無かった。
先ほどの本心を真正面から聞いたところで、宗一は優しい人だから気遣ってこんなことを言っているんだろう――と思って、むしろ気を遣わせたことに自己嫌悪してより深く悩んでいただろう。
優しさを受け入れる土壌のない人には、優しさが棘になる。
優しくされればされるほど、自分はそれに応えられていない存在だと思い、負の連鎖に落ちていくのだ。
否定され続けて育った彼女は、未だその状態から脱せずにいた。
常に自分を邪魔者だと思い、価値のない存在だと思い、死ぬべきだと思い。
どれだけ笑顔を向けられても、愛情を注がれても、それを肴に自己嫌悪を重ねるばかり。
「……そうだね……そう、かもね……」
だから宗一は、いつか彼女が大人になって、優しさを受け入れてくれる日が来るまで、本心を言えずに傍に居続けることしかできなかった。
きっとそれは互いに口惜しくて、すれ違いの多い日々だっただろう。
その傍にいることで、家族を一番に思う心を養っていた宗一。
ただ傍にいるだけでも、実の兄に迷惑をかけていると己を否定する詞音。
共依存のようで自己否定のようで、慰撫のようで欺瞞のようで、兄妹愛のようで、あるいは、恋愛のようで。
黙する二人が抜け出せなくなった、小さなすれ違いだった。
『人の世は、話し合わねば解決しないことばかりデス。悟ることや察することを願うのは、すれ違いを産むだけの悪手でショウ』
そのとき、詞音の脳裏に、源治の――いや、父親の言葉が想起される。
全ての元凶はあの男、父親が家族を優先させられなかったから起こった悲劇。
それでも命を助けられて、一度は信じてみようと思った相手だ。
行いや立場は間違いであったとしても、その言葉自体が全て間違いであると断ずるのは、浅慮甚だしいだろう。
そう、そうだ。
思えば、そうなのだ。
『ねええぇえ! なんでっ、どうしていきなり殴ってんの!? あんたさ、マジで何考えてんのバッカじゃないの、ねえ!!』
相手に察することを押し付けて、数々のトラブルを引き起こしたのではないか。
『どうしてあたしが宗一って呼び続けているのか、分かってよ。お兄ちゃんって思いたくないの。兄妹だって、口にしたくないの』
相手に悟ることを望んで、ここまで愛情が拗れたのではないか。
『あたしがいるから、宗一に苦労ばかりかけているんだよね。あたしがいなければ、宗一はもっと自由に生きられたよね』
相手の想いを、自分勝手に悟ったから――、
『ねえ、宗一。生まれてきて、ごめんなさい』
こんなにも、生きるのが辛いのではないか。
一度だって本心を話したことがないくせに、みんなに自分のことが分かってもらえて当たり前だと思っていて。
一度だって本心を話されたことがないくせに、自分はみんなの考えていることが分かっていると思い込んで。
自分が今まで生きていたのは、この世界なんかじゃなくて。
自分の中で作り上げた、誰もが自分に厳しい世界なのかもしれない。
『……心の準備ができたら、悩みを打ち明けてみるとよいデス。大丈夫、家族は共に苦難を分かち合うために居るのですカラ』
うん。
詞音は心の中で、そう返事をして――ようやく、兄の方へと振り替える。
泣いているのも、戸惑いを隠せていないのも、宗一の予想通りだった。
だけど、その目に事実を受け入れる決心が宿っていたのは、宗一にとって予想外で。
彼が想像するより一歩だけ、詞音は成長していた。
いや、父によって成長させてもらったというべきか――。
「ねえ、宗一」
いつもより少しだけ凛とした声で、彼女は問いかける。
「あたし、……生まれて、よかったのかな」
ずっと心の底で渦巻いていた疑問を、生まれてから悩み続けていた存在意義を。
その問いをぶつけられたのは初めてだったが、宗一は、悩む素振りもなく一瞬で――。
「生まれてきてよかったんだよ」
そう言って、一歩を踏み出した。
踏み出してしまえばもう、あとは憚られることなんか一つもない。
彼は一歩ずつ踏みしめながら、詞音の前へとやってくる。
「詞音ちゃんがいなかったら、俺は父さんと同じ道を歩んでいた。それに詞音ちゃんが助けてくれたから、俺は響と父さんに洗脳されずに済んだし――なにより、これが一番の証拠でしょう?」
詞音の手首を掴んで、彼女自身の手の甲を見せつける。
そこに仄かに光る数字は、今まで彼女が命を助けてきた回数。
そのほとんどはあの備蓄倉庫でのガス漏れ事件で得た寿命で、あの事件は響によるマッチポンプではあったが――詞音が命を賭けて人々を守ろうとした事実は、誰にも仕組まれていない彼女の本心だ。
「だからね、悔いる必要なんてないんだよ」
詞音の体を抱きしめて、宗一はそう囁く。
生まれたことを後悔するのも、生きていくことに抵抗を感じるのも、何もかもが無益だ。
生まれたのだから、生きているのだから、死が行く手を遮るまでは胸を張って生きていけばいい。
道を間違えたのならば、諭してくれる存在がいる。
生きることに疲れたのなら、その手を引いてくれる人がいる。
それが幸せだと、気づけないのが不幸なのかもしれない。
誰しもが幸運であるが、己が幸運であると気づけた者だけが幸運に成れるのだから。
「……うん……」
宗一の肩に顔をうずめながら、詞音は涙声でそう返した。
ずっと、死にたいと思っていた。
まともに育てられなかった自分は、この世界の邪魔者だと思っていた。
幸せになる道を自分で閉ざして、それを咎への罰だと思い込んで生きて――。
でも、もう、……幸せになってもいいのかな。
あたしみたいな存在が、幸せなんてものを感じても、許されるのかな……。
分からないけど、幸せを感じて生きてみたい。
恋の話は、きっとまだ語れない。
だから、今だけは、妹としての幸せを感じさせて。
あれほど唾棄していた妹という身分だけど、……今は、心地がいいから。
ああ、生まれて初めて感じる気持ち。
これが、きっと、これこそが――。
「……生まれてきて、よかった」
生誕への、祝福。
そんな彼女を見て、宗一は静かに微笑んだ。
まだ早いと思っていた話を、既に妹は受け入れられるようになっていたのだと。
その成長を喜び、兄として誇らしく思うと――。
ようやく、今こそ、彼は伝えられなかった本心を口にする。
ずっと妹へ伝えたかった、たった一言の言葉を。
「詞音ちゃん。……生まれてきてくれてありがとう」
忘れてはならない、努々忘れてはならない。
これは、死して共に在る二人が、離れ離れになるまでの物語。
だからこれは、寄り添うことのできる最後の夜。
二人が共に在る、終わりの夜。
明日が終わるとき、この兄妹の日々は、終わりを迎えるのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
後編は本日18時頃に投稿いたします(最終話まで更新予定です)、もし宜しければブックマークをしてお待ちいただければ幸いです。




