24章 ミレニアムウイングへの招請
こんな状況で眠れるわけなど無いと思っていたが、目を瞑ってじっとしていれば、人間いつかは眠りに落ちているものだ。
天使になってもそれは変わらないらしい。
「……ぅ」
寝たふりをしながら警戒し続けていた詞音は、数秒間の呆けの末、自分が眠りこけていたことを自覚する。
しかし開いた眼で見たのは漆黒、空は未だ小夜に包まれていた。
体感で計るなら、今は恐らく四時前ってところだろう。
三時頃までの記憶はあるので、大体一時間くらい寝ていた計算になる。
あたしはバカか、と体を起こしながら詞音は自戒する。
もし寝ている間に交が裏切ったらどうする、あの響の兄と自称しているんだぞ、迂闊にも程がある――と。
宗一の安否を確かめるため、詞音の目線が横に移動する。
「……え……?」
隣に敷かれている布団には、誰の姿もなかった。
詞音の顔色が一瞬で青ざめる。
這い出た痕跡の残った布団には、僅かな温もりが残っていた。
ここから消え失せてからまだそんなに経っていないのだろう。
半ば夢うつつ状態だった詞音の脳が一瞬にして覚醒し、氷水をブチ込まれたかのように脳内が冷たくなっていく。
彼女は音もなく立ち上がり、足音を殺しながら扉を開ける。
埃が綿雪のように舞う廊下を歩いて階段に向かい、猫の如き身軽さで階段を駆け下りていった。
詞音が寝ていた部屋は静寂に包まれていたが、一階下のフロアには物音が響いている。
それは物体が立てた音というより、人間が発した音。
もっと具体的に言うならば、二種類の声だ。
その声は一番端の部屋から聞こえていた。
詞音はその部屋の前に駆け寄り、小さく開いた扉の隙間から中を窺う。
その部屋のド真ん中に置かれたソファーに、宗一と交が腰掛けていた。
寝込みを拉致したというよりは、夜中に目覚めてトイレに向かったら偶々出くわして、なんとなく話をしているような軽い印象。
少なくとも二人の間には、張り詰めた緊迫感など微塵も存在していなかった。
『まさか君が寝酒に付き合えるとはね、ワルいことしないイメージなのに意外だったよ~~~』
「生前、祖父が酒を薬だと思っていたもので、数杯くらいなら飲めるんですよ~。そちらこそ意外でした、そんなにガバガバ呑むとは」
『未成年者飲酒禁止法ができたのは近年だからね~~~、僕が生きた時代は未成年が酒を飲むことくらい当たり前だったんだよ~~~。御井酒とか三種糟とか美味しかったな~~』
窓から差し込む月灯りを浴びながら、男二人はのんびりと夜酒を味わっていた。
雰囲気はどこまでも柔和。
元々語尾が緩めな二人だが、酒によって更に間の抜けた声色になっている。
今日出会ったばかりの二人である上に、天使と熾天使という間柄ではあるが、その距離はまるで親友のよう。
妹と違って対人性能が高い二人だからこその空気感なのだろう。
とはいえ、宿敵の兄なんだから警戒しろよと詞音が言いたくなるのもさもありなんだ。
しかしすぐ懐きすぐ信じる宗一に、そんな気持ちを理解しろというのがハナから無理な話だろう。
しばらく、二人は酒の談議に花を咲かせていた。
やがて話題は変移して、現代と過去の話になり、天使の話になり、妹の話になり――。
息を殺して聞き耳を立てていた詞音が、少しずつウトウトとし始めた頃、交は唐突にこう切り出した。
『……本当はね、君に熾天使を継いでもらいたいと思っているんだよ』
その言葉を聞いて、閉じかけていた詞音の目がかっ開く。
「千年間、生贄になってほしいということですか」
『ネガティブな言い方をすればそうなるね~~。でも、ポジティブな言い方をするならば、君にこの地球を守ってもらいたいんだよ~~~』
なみなみと注がれたジム・ビームに満月を透かしながら、交は言葉を続ける。
『熾天使が世の中に愛を注ぐほど、地球は良き星となる。半面失意を覚えるほど、地球には動乱が起こる。……実はね? 人間が戦争を起こしたり感染症や災害が起こったり、悪質な犯罪が起こったりした原因は僕なんだ。僕が熾天使の視点で壊れていく響を見て、失意を覚えるたびに、世界に悪影響が広がっていったんだよ~~。誠に申し訳ないよね~~~』
「……熾天使の座は、ただのバッテリーではないんですねー」
『そうなんだよ~~~。だから君みたいに人を想い、世界を愛せるような存在に成ってもらいたい者なんだ。むしろそんな人間を熾天使にするために、天使という制度があるくらいだからね~~~。もし悪人が熾天使に成ったら、すぐに地球は滅んで全てが終わりだよ~~~』
死ぬその瞬間まで、他人を案ずることのできる者が天使に成る。
そして、あの厳しい条件下で誰も殺すことなく大量の人間を助けられた者だけが熾天使に成る。
それは選抜試験のようなもの。
良き熾天使となり得る者を探すために課せられたルールだ。
これまで地球が存在し続けられたのは、そうして選ばれてきた心清き者が熾天使を継いだから。
そう思えば、熾天使という座に圧し掛かる重圧のなんと凄まじきことか。
今まで何十万人もの熾天使が守り続けてきた地球を、一手に引き受けるということなのだ。
並々ならぬ胆力でなければ務まらない責務だろう。
誰がそれに相応しいと問われたら、宗一の名は挙がって当然なものではあるが――。
「………………すいません、俺は……継げません」
当の本人は目を伏せ、どこか罪悪感を覚えたような声で、小さく呟いた。
『……そうだねえ、君が熾天使を継げればいいんだけど、そう上手くはいかないよね~~……』
酒で熱く火照った息を吐いて、交はそう呟き落とす。
宗一だって詞音だって、その言葉の真意は理解していた。
もし宗一が熾天使を継げば、取り残された詞音は響と同じ末路を辿るだろう。
兄の帰りを信じて待ち、やがて人格と記憶が擦り切れて、狂人と化しながらも己の目的を果たすために生きる狂人となるだろう。
千年間の平和と引き換えに、地球を脅かす爆弾を育て上げるのだ。
なんと意味もなく甲斐もないことだろう、しかしそれはほぼ確定した未来であった。
『僕の寿命が尽きるまで、あとわずかしかない。君が継げないというならば新たな適任者を探す必要があるけど、間に合う気は全くしないね~~。大災害で地球が滅びゆくさなか、偶然そんな存在が出てくるのを願うしかないのかな~……』
「……いくら酒が入っていても、そこまで楽観的にはなれないですねー」
『全くだ。突如ヒーローが表れてくれる可能性に地球の命運を賭けるなんて、ギャンブルにもなっちゃいないよ~~』
ああ、そうか。
またか。
そう思って、詞音が自嘲する。
またあたしが宗一の邪魔になっているのか。
生前と何も変わらない、死んだら自分の役割が変わるなんてことはあり得ないのか。
あたしがいなければ、宗一は憚られることなく熾天使になれた。
あたしがいるからこの話が拗れてる、どう取り繕っても邪魔者は邪魔者のままなんだ。
「……昔、誰かにこんなことを言われたことがあるんですよ」
整理整頓されていない玩具箱から目当ての物を探すように、宗一は雑多な記憶の中から求めるワンシーンを探し始める。
二の句を継ぐまでに時間がかかったのは、その記憶がよほど過去のものなのか、それとも思い出したくなくて記憶の深淵に仕舞い込んでいたからなのか。
「『妹がいなければよかった、って思ったことある?』……って」
その肉体全てが心臓になったように、詞音の体が小さく跳ねた。
もしも自分がいなければ、宗一はもっと幸せになれたのに。
そんなことを考えた夜は何度だってあった。
きっと宗一は優しい人だから笑って否定するだろう、そう思いつつも真意は聞けず仕舞いだった。
きっと、今から、その解答が暴かれる。
目の前に本人がいないから、きっと遠慮や手心なんてものは介入しないだろう。
宗一の口から出される言葉は、彼の本心そのものに違いない。
「そのこと、何度か考えたことがあるんですよ。もし、詞音ちゃんがいなければ、今頃俺はどうなっていただろうって。……これは絶対に、詞音ちゃんには言えない話ですけど――」
詞音は両耳を塞ごうとするが、全身が強張って動かなくて、逃げ出すことすら叶わない。
だから彼女は、心の準備もできないまま、ここで兄の本心を聞くことしかできなかった。
やめて、言わないで。
聞きたくないの、知りたくないの。
もしも存在を否定されたら、あたしは、これから、どうやって――。
「……詞音ちゃんがいなかったら、俺は、きっと酷い人間になっていたと思います」
呼吸さえも忘れて、詞音は、目を見開いてその場に蹲り続けていた。
今の彼女には、宗一の放った言葉を咀嚼して、辛うじて理解することしかできなかった。
「うちの父親がどんな人生を歩んできたか、ご存じですか?」
『我が愚妹の被害者だからね~~、一応、旧時は洗ったよ。君と同じで人を助けることに生き甲斐を感じるような人だったらしいね』
「……それが嵩じて、父は罪を犯しました」
家族よりも誰かを助けることを優先して、妻の心を追い詰めた張本人。
それが巡り巡って詞音への虐待に繋がり、彼女の人生をも不幸にした。
それでも琴浦清正本人は人助けを続け、宗一が二歳のときに事故死して――響の玩具となった。
宗一が死んだのも、詞音が死んだのも、本人の意思ではないが稀有な能力で響の計画を確立させたのも琴浦清正。
家族を軽んじたが故、この一家は悲劇的な末路を迎えることになった。
「きっと、俺も同じような人間になっていたと思います。誰かを助けることを生き甲斐として、家族の愛すら優先できない許されざる人間に」
『確かに――君も寿命が危ういのに人助けをしていたような人だからね~~。気を悪くしないでほしいけど、客観的に見て、父親の二の舞になる確率は低くなかったと思われるね』
「……でも、詞音ちゃんがいたから、同じにはならなかった。詞音ちゃんがいたからこそ、俺は家族が一番大事だと断言できるんです」
家族を一番に思えなかった琴浦清正なら、大多数の幸福を求めて、きっと詞音を切り捨てていただろう。
もしくは他人に不幸を与えないため、闇倉玲子と同じように常軌を逸した教育で矯正したかもしれない。
どちらにせよ、それは闇倉詞音という一個体のことを軽んじた行いだ。
過去によって生き方を捻じ曲げられた少女に、更なる苦痛を強いるだけの人心無き行為でしかない。
詞音には、家族以外に理解してくれる人なんか、いなかったというのに。
「あの子は境遇もあって、他の子より歩みが遅かった。それを案じたことはあれど疎ましいと思ったことは一度もありません。おこがましいことかもしれませんが、立派に成長させなければと思い、兄として彼女を一番に考えていました。……あの子が傍にいて、あの子のことを考え続けたからこそ、家族が一番であり続けたんです」
宗一には、詞音がすぐそこにいるなんて知る由もないだろう。
だがその言葉は、まるで詞音に語り掛けるように、彼女の心に響き渡って――。
「彼女がいたから、俺は父と同じ過ちを繰り返さなくて済みました。……きっと彼女は生まれてきたことを後悔しているでしょう。でも、彼女には面と向かって言えないですけど――生まれてきてくれたことに、感謝しているんですよ」
「…………………………」
涙なんて、堪えられるはずもない。
詞音の瞳からは大粒の涙が零れて、抱えた膝を斑に濡らしていく。
零れ落ちる涙は、いつしか流れ落ちると呼ぶほうが相応しくなり――小さな嗚咽は、やがてしゃくり上げるほど大きくなっていく。
それは感情を堪えられない子供の涙と同じ。
己の意識と反して落涙し、どれだけ強固な意志で止めようとしても止まらず、頬は滂沱と出た涙で濡れていく。
一度決壊してしまえば、もう誰にも止められないのだ。
だから、逃げるしかなくて。
「……えっ?」
ガタン、と不審な物音を聞きつけて、宗一が部屋の出入口に顔を向ける。
小さく開いた扉の向こうには、誰の姿も存在しない。
しかし小さく揺れるその扉は、誰かがそこにいたことを示していた。
響が隠れ家を見つけ出して攻めてきた可能性も否定できないし、廃ビルを住処とする浮浪者が来た可能性もあり得るだろう。
だが、宗一には聞き耳を立てていた者の正体が分かっていた。
だって、彼の羽が疼いているのだから。
寝るときでさえもずっと持っていたんだという微笑ましさと共に。
――自分が打ち出した羽の位置ってさ、なんとなく分かるんだよ。
詞音ちゃんもそうでしょう?
これを持っていれば、詞音ちゃんがどこにいてもすぐに駆け付けられる――。
かつて己が口にした言葉が、正体を物語っていた。
集中して居場所を探ってみれば、羽は逃げるように階上へと向かって移動している。
『行っておいで、お兄ちゃん。妹ちゃんは二人っきりがお望みのようだよ~~~』
交は宗一に追うよう促すと、ぬるくなった酒を一口煽る。
「……ありがとうございます。少し家族会議してきますね」
片手を振って、それを以て別れの挨拶として――交は、月の昇る空を見つめる。
宗一は彼を残して部屋を出ていく。
無論そこに詞音の姿は無いが、どこに行ったかは羽が教えてくれていた。




