23章 熾天使の誘い
『……それが、彼女の辿った軌跡です。千年前、我らが犯した罪と咎なのです』
響が声明を上げたのと同時刻、交がかつての出来事を語り終えていた。
彼らの過去を聞いた宗一と詞音は、ただ息を呑んで絶句している。
愛した人と千年間の別離を耐え、日に日に薄くなっていく愛の記憶を手繰り寄せ、それでもやがて記憶は経年劣化し、目的だけが残り続ける。
誰かを幸せにしたくて、その誰かすら思い出せなくなって。
そして思い出せないこと自体が彼女の苦しみとなり、愛した人の顔すら想起できない事実がより一層その心を蝕んでいく。
忘れたくないのに、忘れていく。
ただ千年間生きるという目的だけがあるから、愛を忘れても生きねばならない。
ましてや彼女には兄以外の味方などいないのだ。
唯一心を許せる相手がいなくなった彼女が、どれだけの苦しみを味わったかは語れども語りつくせないだろう。
特に詞音は、その艱難を痛烈に理解していた。
もしも同じように兄がいなくなれば、きっと彼女も同じくらい苦しんで、その果てに心を壊してしまうだろうから。
『この過去を信じるも良し、拒絶するもまた良し。しかし一つ言えるのは、私を信じようが信じまいが、やがて空蝉響による終焉は訪れるということ。……何をしようが貴方がたは巻き込まれる運命にある、空蝉響に認識されたその日から永久に、永久に……』
どれだけ逃げようが許しを乞おうが、響は人間全員を洗脳し、彼女曰く幸せな世界を作り上げようとするだろう。
詞音一人だけなら、きっとどうでもいいと見過ごしていた。
しかし人の助けこそが生き甲斐である宗一は、そんな世界など受け入れられない。
受け入れられないというのならば、未然に止めるしか方法はない。
何れにせよ、衝突する宿命なのだ。
各々が信じる正義が背反する限り、避けては通れぬ未来でしかない。
「で、でも……空蝉響は、洗脳の力を使えばいくらでも戦力を用意できますよね?」
『ええ、見積もった限りでは一万を超える兵を有しているとのこと』
「だったらそんな集団を止めるすべなんて……」
止めるすべなんて存在しないのではないか。
そう言いかけて、宗一は口を噤む。
彼がそう思うのも無理はない。
敵二人は洗脳の力を有しているが故、全ての行動が一撃必殺。
しかもその上、一万もの戦力をつぎ込めるのだ。
対するこちらは、硬化の力と爆破の力しかない。
彼我戦力差は歴然だった。
『まともにぶつかれば勝ち目はないでしょう。まともにぶつかれば、ね』
含みのある言い方をし、交は窓から月を仰ぎ見る。
『違和感はあったでしょう、空蝉響が最善手を打たないことに。もしも彼女が考え打つ最良の策を行使していたならば、今頃貴方がたは彼女の操り人形だった。違いますか?』
「……」
確かに、それは宗一だって感じていた。
もし彼女が、天使になったばかりで混乱している二人に襲い掛かったならば。
もし彼女が、琴浦清正の顔面を壊さずに親子の再会を実現させて油断を誘っていたならば。
もし彼女が、最初から一万の兵士を二人に仕向けていたならば。
きっと、宗一たちは勝てなかった。
だが響はそうしなかった、それは何故か。
「そんなものは、退屈だから」
『そうです。あの愚妹は退屈を紛らわすために、わざとリスクを犯すのです。だからわざわざ一から友好関係を築いたり、琴浦清正という二人を油断させる格好の餌を無碍にしたり、自分の能力が電波の傍受だというあからさまな嘘をついて警戒を強めていた……』
「であれば、再び相まみえたときも、空蝉響はリスクを背負っていると?」
『そう考えるのが自然でしょう。もしそうでなければ、我々は唯一の勝機を失うことになる』
空蝉響の見せる隙、それが計画を止める最後のチャンス。
だがその隙を見つけ出し、一撃で仕留めるのはやはり至難の業。
一割にも満たない勝機を夢見て、蛮勇に身を委ねるしかないのだ。
しくじれば、人間の世は終わる。
空蝉響に支配され、天使に寿命を供給するだけの部品となるだろう。
「……だとしても、ですけど」
どこか納得のいかない口調で口を挟んだのは詞音だった。
「あんたの話が本当ならば、千年前の出来事を空蝉響に語ればいいじゃないですか。兄だと名乗って愛を囁いて、彼女に寄り添えば馬鹿げた蛮行もやめてくれるんじゃないですかね」
『いかれになってしまった妹に、私の言葉が届く可能性は低いでしょう。自分の記憶に存在しない過去を語られたとして、貴方だったら鵜呑みにしますか? ……それに思い出したにしても、千年の離別を得た彼女は、二度と私を離さぬよう執着の限りを尽くすでしょう。天使が生き続けられるように人類を植民支配し、永遠の世界を作ろうとするはずです』
「……」
『重ねて言えば、私が姿を現せば、彼女は是が非でも私を確保しようとするはず。そうなればリスクも犯さず隙も作らず、ただただ最善手を差すでしょう。その果てにあるのは必敗。故に、私は事が済むまで姿を現さないほうが良いと思っています』
「……ふん」
詞音は納得のいかない仏頂面を浮かべながらも、反論を思いつけずに黙り込む。
全てを語り終えた交は、再び瞳を閉じる。
そして再び瞳を開いたとき、そこには熾天使らしさの欠片もない、ただの人間としての色が浮かんでいた。
『てことで、地球の命運は君たちにかかってしまったのだよ~~~~~~~。困るね~~~~~~、兄として恥じ入るばかりだよ~~~~』
「あの、なんというか、過去に対して貴方たち空蝉兄妹の口調がラフ過ぎませんか」
『だって現代で古語使って喋ってたらコミュニケーション取れないからね~~~、熾天使として世界を眺めながら練習したんだよ~~~。どうどう? 意外と現代人っぽいでしょ~~~?』
褒めてもいいぞ~~~~とおどけてから、交が天を指さす。
空を指しているわけではなく、上の階を示しているようだ。
『まあ今すぐに信じろとは言わないから、今日の話をよ~~く思い出して考えてほしいな~~~。上階に寝具用意してあるからとりあえず今日は休みなよ~~~、響が動かないとこちらからは何もできないしね~~~~。僕が信用ならないなら一旦熾天使の住処である地核内に戻るよ~~~?』
「……そうですね、一度考えてみます」
交に一礼して、宗一と詞音は廃ビルの一室を出ていく。
古ぼけた廊下を歩き、上階へと続く階段を上っていった。
「……どうするの?」
詞音がぽつりと呟いたのは、階段を半分上った頃だった。
「どうするもこうするも、俺たちにできることなんて一つしかないよ」
そこで言葉を一度切ってから、宗一は覚悟の籠った口調で言葉を紡ぐ。
「空蝉響を止める。そうしなければ、未来なんてないよ」
人間が洗脳され尽くされれば、宗一に未来など無い。
でも、詞音にとってはそうじゃない。
例え人間が全員傀儡になろうが、兄と共にいられればいいのだ。
響を止めることは、危険こそあれど詞音にとって有益な結果を残したりしない。
「……そう、だね……」
だから詞音は、ただ俯く他なかった。
自分の幸せが兄の幸せと相反している、その事実を再び鮮明に感じながら――彼女は、静かに唇を噛んだ。
ねえ、二人で逃げようよ。
そんな言葉は発することもできずに、ただ臓腑の中で渦巻くばかり――。




