22章 露と消えた思慕
「……………………………………」
夢から醒めた瞬間、平安よりも圧倒的に穢れた令和の空気を吸い込んで、響は僅かに顔を顰める。
乗用車が撒き散らす排気ガス、工場が我が物顔で垂れ流す光化学スモッグ、どれもこれもが彼女にとっては馴染みのない空気であった。
覚醒と共に彼女が感じたのは、仄かな郷愁。
夢の内容は思い出せないが、懐かしき往時を垣間見ていたことだけは理解していた。
もしもあの夢を思い出すことができたならば、彼女は馬鹿げた計画を止めて、かつてのような無垢さを取り戻せるだろう。
しかし何百年も思い出せないからこそ今があり、思い出せないことが兄の存在を信じ切れなかった彼女への罰であった。
「……ふふ、ふっくくくひひひひいひひひひひひ……」
くぐもった笑いを零しながら、響は音もなく起き上がる。
その顔に憂いはなく、惧れもなければ歎きもない。
あるのはただ、純粋な幸福。
永く待ち望んだ熾天使の存在を確信し、千年越しの夢が叶うのだから当然だ。
後はそう、ミレニアムウイングになるだけ。
そうすれば、幸せになれるはず。
幸せ、に、なれるの……?
どうやって……?
「……………………」
ええと、熾天使に会いたいからミレニアムウイングになるんだっけ……なんで熾天使に会いたいんだっけ……?
何か、もっと、大事な使命があったような……。
えっと、ああ、天使が寿命に憂うことのない世界を作るんだ……あれ、でも、なんでそんな世界作ろうと思ったんだっけ……?
誰のために……誰と一生寄り添うためにそんな世界を作りたいんだっけ……?
熾天使って私にとって何だっけ、なんでこんなに拘るんだっけ……?
退屈で死にかけたから正体を暴きたいんだっけ、違う違う、それは他の天使に語るときの建前で……本当はもっと、熾天使とは特別な関係性があったような……。
ああ、嫌だ、考え込むのは嫌だ。
退屈で死んでしまう。
そうだ、私は退屈で死にたくないから新たな世界を作りたいんだ。
退屈の紛らわしとして熾天使に会いたいんだ。
そうに違いない。
そうじゃなくちゃ説明がつかないじゃないか。
そして、全てを終えたら死にたいんだ。
ようやく私は死ねるんだ。
……長寿という拷問によって混濁した意識の中で、響は自分の目的を再認識する。
その目的が既に当初のものとは異なっていることは、彼女自身認識できないままに。
彼女は大儀そうに歩き、塒である大仏殿から一歩を踏み出す。
――大仏殿の外では、一万もの人間が面並び、彼女に向かってひれ伏していた。
その目は虚ろで、自我を感じさせないほど昏く澱んでいる。
彼らの脳には源治の羽が埋め込まれていて、体の自由は完全に奪われた状態だ。
つまるところ、間接的に彼女が持つ兵子そのものと言えよう。
彼らは各々が両手に黒き羽を握っている。
それは一人が二人分の洗脳を担うということ。
一人が二人を洗脳し、洗脳された者は源治から羽を得てまた二人を洗脳する。
洗脳の連鎖はネズミ算、人類全てを洗脳し尽くすまで続く阿鼻叫喚の地獄絵図。
そして響の手には、兵器の仕様書が握られている。
空から飛来し、着弾地点を焦土にする悪魔の機械について、事細かに綴られし書物がある。
武器は揃った、後は盛大な宴を催すだけ。
「兵よ、我が兵よ! 傾注せよ、其方らを束ねる長の神託である!」
舞台役者と呼ぶべきか、部隊役者と呼ぶべきか。
響は両手を広げて大仰に、声を張り上げ兵士に伝える。
「決行は明日だ、明日こそが我らの関ヶ原だ! 既に我らが久しく待ちにし主は来ませり、この世の闇路を照らしたもう妙なる光の主は来ませり! 平和の君なる御子を迎え、救いの主とぞ褒め称えよ! 諸人挙りて民皆喜べ、我らが宿願の叶う刻である!」
響の演説に呼応するように、洗脳された人々が拳を振り上げる。
彼らの口から猛々しく発せられる鬨の声は、地を揺らし木々をはためかせ、天に昇って虚空へと消えていく。
「さあッ、悪魔の一夜を実現せよ! 全ては明日なり、明日は全てなり! この平等なき世界に終点を打ち込むのだッ!」
――嗚呼、**、**。
響は此処におります、此処にて**を片待ち続けたり。
――故、どうか、どうか、お聞かせください。
貴方の名辞を、貴方の姓名を。
――もう、**の記憶すら思ひ出すらあらねば……。




