21章 在りし日の悪魔
千年前――平安時代、寛仁。
現代よりも透き通った夜空に映える、焔の赤。
天に浮かぶ星々を焼き尽くさんと腹積るかのように、猛き獄炎はどこまでも高く燃ゆり続ける。
それは歴史書に残されることのなかった、平安時代最大の大火事。
口伝も文献も無きことは至極当然のこと、それは天使によって起こされた出来事なのだから。
京一つを丸呑みにするほどの炎は、人類の歴史を人々の躰ごと覆い尽くしていく。
世界を破滅へ導いているのは炎だけではない。
空を覆い隠すような津波が人々の営みを流し崩し、神の怒りを思わせるような落雷がありとあらゆる建造物を打ち倒し、人類の想像の範疇に収まりきらない地震が大陸ごと全てを揺れ動かしていた。
雪や雹、豪雨に熱波と寒波。
氷河と灼熱の世界が両立し得る唯一の終末。
ここは世界の終わり、ここが世界の終わり。
地球を維持するための熾天使が寿命を失い、星のコントロールすらままならなくなった終焉の星。
地球は死を目指して変化を続け、時の流れと共に全てが滅びゆく一幕。
しかしそんな終焉こそが、天使の使命を果たす刻だ。
災害も終末も争いも、何もかもが天使を熾天使へと昇華させるための舞台装置に過ぎない。
空蝉交と空蝉響も例外ではなかった。
熾天使が消えて星が苛烈な状況になった現状、今まででは想像もし得なかったほどの寿命を得ることができたのだ。
それは入れ食いと呼ぶに相応しい。
七百年分の寿命しか持っていなかった交が、数日のうちにミレニアムウイングに成ることができたと言えば、その地獄の状況は窺い知れる。
しかし、滅びゆく星で寿命を集めることに意味など無い。
彼らが必死に集めた寿命は、その身を犠牲にして熾天使になることでしか意味をなさない脆弱なもの。
二人生きていくためではなく、その身を別つため人を助けたに過ぎないのだ。
だから、大災害を見下ろすことのできる天空で、交は己の決意を響に語る。
その身を熾天使と化し、この世界の存続を誓うと。
『……分かってくれるか、響。我々の何れが犠牲にならぬ極み、この星に行く末など無きなり』
――お兄様、響は別れたくのう御座います。
共に天使と成りて永遠を得た身、千年の暇を得ることなどこの身に耐え得るものではないと存じます……。
『然し、我が身を捧げねば千年後の未来もない。我々は千年の別れを契らず、千年後の再会を確約するなり』
――響の愛しき兄様、貴方無き千年を生きよと云うのですか。
怨嗟の地獄をさはに受けた響に、重ね重ねの泥黎を課そうと云うのですか。
『問ふな響よ、酷薄なる兄と思はでくれ。お前を守りたいのだ、お前と生きる世界を守りたいのだ。お前がいるからこそ、この世界を守りたいと願っているのだ』
世界が揺れる、地球が崩れていく。
交と響が言葉を交わしている間にも、この星の終わりは近づいてきていた。
響にとって、兄との別れは是が非でも受け入れられない現実だ。
親に育児を放棄され、屠畜場へと捨てられて。
物心つく前に首を絞められ、処分されかけた。
ただ、逆子というだけで。
ただ、足の多指を患っていただけで。
ただ、嫡男を望まれた家系で産まれた女というだけで、不必要な粗悪品として殺されかけた。
当時の文化背景では、それらの事象が不吉の証とされたが故の迫害であったが、今となれば何と無意味で残酷なものか。
確証も根拠もない冷遇によって命を脅かされることは、どれだけの理不尽を感じることになるのか。
しかし響は寸でのところで生を得て、兄に育てられ、兄に生を認められ。
会う人間全てに忌み子だと迫害を受けながらも、兄の背に隠れて生き続けて。
他の全てを犠牲にしながら、兄妹だけで生き続けてきた。
それは奇しくも、詞音の辿った人生と似た軌跡。
親に追い詰められ、兄に助けられ、それからは依存し切って生きてきた。
響にとって、詞音にとって、兄は世界そのもの。
兄との別れは、世界に別れを告げるようなもの。
だから世界が終りかけたこの状況であっても、響は現実を受け入れることができなかった。
しかし、本当は分かっている。
自分が駄々を捏ねても好転することはない。
今受け入れるか、喰い下がってから受け入れるかの違いなのだと。
――響は迎ひます、迎えてみせます。
兄様との別れを再会の兆しと見做します、故、立ちまたむはや帰りませ。
だから響は、止め処なく涙を流しながらも、千年間の別離を受け入れた。
遥かなる時を経た後で、兄と再会することを願いながら。
『かたじけなし。……逢ふ時かたまつと、久方の地核にて千代に願い乞ふ』
――我も同じなる情なり。
兄様、良き旅を。
『良き旅を、響』
そして交は熾天使と成ることを受け入れた。
その背に生えた銀翼は舞い散って、代わりに黄金の六枚翼が煌々と瞬く。
そして彼の体はゆっくりと地球に向かって呼び込まれ、地面をすり抜け、地層を通過し、地核へと至る。
暖かなマグマの揺り篭で、彼はそっと、瞳を閉じた。
千年後、妹と再会できるときを待ち望みながら――。
響は、赤い空を飛ぶ。
愛があるなら千年など、師走の如き刻だろうと思いながら。
――嗚呼、兄様、兄様。
響は兄様を片待てり。
千代の曙を見しも忍び、再び会わんと望み続きます。
眼下では、あれだけ盛んに猛っていた災害が弱まり、世界はあるべき正常な形へと戻っていた。
人類の何割かは失われただろう、しかし生物はつがいがある限り繁殖していく生き物だ。
これだけ人類が残っていれば、千年間を生き延びることなど苦でもない。
響の背には、災害の渦中で得た何百年分もの寿命がある。
求められるのは忍耐だけ、千年間を待ち続ける根気だけが彼女にとって課せられた使命。
まだ、彼女はその恐ろしさを知らない。
――嗚呼、兄様、兄様。
響は此処におります、此処にて兄様を片待ち続けたり。
一年経てば人類は災害から立ち直り、十年経てば災害の痛みすら忘れていく。
五十年経てば災害を示すものは石碑のみとなり、百年経てばその石碑すらも波濤に呑まれて形を失う。
百年間、響は生き続けた。
兄との再会を待ちわびて。
その懐に潜めるのは、兄との日々を綴った手記。
輝かしき記憶を和歌に乗せて、滔々と綴られし文字を見てはにかむ天の国。
――嗚呼、兄様、兄様。
響は未だ生きたり、此処にて兄様を片待ち続けたり。
二百年もすれば、世界はすっかり様変わりする。
平安は鎌倉と変移し、人々の生活は雅さから実を取り始めていった。
……二百年、生きること。
それは精々百年程度の寿命を想定された人間にとって、生が苦痛となり始める変貌の刻。
ただ生きることが当たり前だと思っていた日々が、終わりを告げる。
響の懐に収められた手記は、もうボロボロになって形もない。
しかしそれでも彼女の脳裏には兄との思い出がある、飽きるほど見返した手記の中身だって頭の中に存在する。
変わり始めた世界の中で、響はまだ生きている。
――嗚呼、兄様、兄様。
響は未だ正常なり、人の心を失ひたらず。
五百年もすれば、室町時代も終わりに近づく頃。
人々は動乱の予兆を肌に感じ、やがて訪れる戦国の神風を予期し始める時代。
……五百年経てば、生きた証も残るまい。
今や交が生きていた証拠は何もなく、響の記憶だけが頼りだった。
しかし、響は、虚ろだった。
五百年を生きることは、世の中のありとあらゆるものに飽きを知ること。
真新しいことを欲し、処女性に神秘を覚え、退屈を紛らわす事象を求めて徘徊するだけ。
緩慢な生が、彼女の自我を殺していく。
退屈の毒が彼女を蝕み、意識を奪い去ろうと目論む鎌となる。
今やもう、兄の顔すら思い出せない。
その声も、温もりも、交わした言葉も。
全ては風化し、兄という存在だけが記憶で蠢く。
――嗚呼、兄様、兄様。
響はあやしくなりゆきき。
兄様、君は我を待てるぞかし。
八百年経てば、江戸の終わりと近代の開花が重なる。
人が劇的な進化を遂げる頃。
――嗚呼、兄様、*様、兄*。
願ひたてまつる、帰りきたまへ。
空蝉響という自我が、無くなる。
兄という存在の確証は、ない。
本当にそんな存在がいたのか、分からない。
千年間続く地獄に耐えきれず、自分が生み出した妄想なのではないか。
兄とは、どんな存在なのか。
千年経てば、本当に逢えるのか。
熾天使になれば逢えるのか、逢いたい、本当に存在するかも分からない存在を一目見たい。
熾天使に、逢いたい。
それだけが、生きる理由。
そして、死にたい。
もう、死んでしまいたい。
でも、死ねない。
誰かを待っていた気がするから。
天使のための世界を作って、死にたい。
この兄という妄想上の人物が本当にいるならば、彼が幸せになれる世界を作って消えたい。
消えたい、消えたい、消えたい。
――嗚呼、誰か、我が脳裏に巣食う誰か。
お前は、本当に存在するのか。
……もう、響には約束すら思い出せない。
兄という存在を信じることもできず、千年間を待つという目的のためだけに生きる亡霊。
熾天使と会えば、目的が叶う気がする。
熾天使と会えば、解放される気がする。
熾天使と会えば、ああ、熾天使と会えば、どうなるのだろう、熾天使と会えば、救われるのだろうか。
熾天使、熾天使よ、我が心の安息よ。
導き給え、我が身を我が魂を我が操を我が刻を我が肉を我が骨を我が愛を……。
――嗚呼、**、**、愛しき**……。




