20章 熾天使との取引
午前三時過ぎ、響たちの夜襲から一時間程が経過した頃。
熾天使は二人を抱えて、廃ビルにまで来ていた。
昏く沈んだ夜景の中に追っての姿は確認できない、恐らく響たちは追跡していないのだろう。
『いや~~~、間一髪だったね~~~。平気かいお二人とも~~~~?』
熾天使の放つそれは言葉ではない。
音であり振動であり意思の送出、言うなれば啓示だ。
しかし天使としての体を授かったときに比べて、その言葉は軽い。
軽薄とも言えるだろう。
「……貴方が敵か味方かは分かりませんが、助けていただきありがとうございます」
『お礼なんかいいよ~~。空蝉響がね、粛清されるべき存在だと思ってるのはね、君たちだけじゃないからさ。仲間だよ仲間、利害の一致だよ~~~』
そう口にしながら、熾天使が六枚の翼を折り畳んでいく。
顔と体を隠していた翼さえも収納し、彼は己の姿を曝け出し始めた。
そこにあったのは、二十代後半に思える男の姿。
真っ黒な髪と黄色い瞳を持ち、宗一に負けず劣らずおっとり系の顔をした存在。
黄金の翼を広げていなければ、普通の天使と何ら変わりのない普通の姿をしていた。
しかしそれも当然だろう。
元々熾天使は千年の寿命を得た天使が成る存在、原材料は宗一たちと同じ天使なのだ。
「まずはその利害ってところを説明するのが先決じゃないですかね」
そう言ったのは詞音だった。
宗一の服の裾を握り締めながら、羽を広げて最大限警戒しつつそう言っている。
「あたしたち、騙されたばっかりなんで。今仲間ヅラされても信じられないますけど」
『え~~~、空蝉響の策略から助けたことは友好の証にならないかなぁ~~』
「その空蝉響の策略で、丹念に騙されかけたばっかなんで」
『ん~~~~~、道理極まりない』
思い返せば、最初から何もかもが響の計画だった。
飛行機を落として二人を天使にしたところから、自殺グループの掲示板に有用な情報を載せて二人を釣り出すところまで。
そして操った人間で軽度な事件を起こし、二人に解決させて寿命を与えさせた。
それだけでなく、備蓄倉庫のガス漏れ事件を自分で引き起こし、危険を冒しながらも協力して人々の命を守ったことで、強固な信頼関係を築いていった。
そう、あれもこれもマッチポンプ。
備蓄倉庫に仕掛けられた爆弾に操作の羽を埋め込めば、カウントダウンのタイミングも好きなように決められる。
本来は自分で爆弾を発見し、爆発寸前で処理する予定だったのだ。
難攻不落だった扉の南京錠は、傍の机に鍵を仕込んでおき、あたかも偶然見つけたように装えばいいと考えていたのだろう。
宗一が扉と体当たりしたとき、詞音がその光る何か――鍵を見つけていたのだからそれは間違いない。
だから、宗一が強行突破で扉をブチ破ったり、詞音が偶然爆弾を見つけたときは大いに焦ったことだろう。
いや、響のことだから焦るどころかおもしろがったに違いない。
宗一はそう思って呆れる他無かった。
『じゃ、こうしよう。私は君たちに情報を与える。君たちはそれを信じても信じなくてもいい。己の意思で選ぶ余地があるならば、君たちに不利益など無いと思うけど、どう思う~~?』
「話を聞いた上で無碍にする可能性もあるけど、それでも良いと?」
『無論だよ~~。いくら熾天使といえど、無理矢理命じるなんてできないし。そもそも僕は永き寿命を持つだけの天使、君たちと変わらぬ存在だもんね~~~』
そして熾天使は一度咳払いをし、澱みのない動作で一礼する。
顔を上げたとき、そこにはもう軽薄な表情など存在していなかった。
神に相応しき凛とした面貌と、下々の存在を圧倒するような威圧感を湛えている。
『ここまでは天使個人としての言葉、ここからは熾天使としての意思を通読致します』
「……ええ」
ただならぬ雰囲気が漂い、先ほどまで文句を言っていた詞音までもが固唾を呑んでいる。
それはかつて天使としての肉体を得たときと同様。
熾天使の姿から目が離せず、その言葉から意識を背けることができない。
『私は現熾天使。かつて千年の寿命を得て、この地球を支える大役を担った存在。熾天使としての役割を与えられる前は、空蝉交という名で生を営んでおりました』
「空蝉……!?」
宗一たちに接触してきた者たちの苗字が、偶然被っていたなんてことあるはずがない。
交の顔は、響よりも少しだけ大人びて見える。
だとすると、すなわち――。
『生き別れし我が妹が、世界を混乱に陥らせんとしている。我が使命は空蝉響の暴走を止めること。本来天使の前に姿を現さぬ私が、二度も貴方がたの前に姿を現したのは、ひとえに妹を止めるという心残りを完遂するために他なりません』
そのとき、宗一の脳裏にかつての記憶が蘇る。
炎と肉片が世界を彩る、あの墜落現場での情景だった。
――然し願わくば、其方達が良き神霊となることを望む。
……不甲斐無き我が心残りを断ち切ることを、私は……。
不甲斐無き我が心残り。
あのとき熾天使が言っていた言葉の意図を、ようやく彼は理解する。
そして同時に、熾天使の話をしたときに響が『普通出会えない』と言っていたことも思い出す。
本来出会うはずのない邂逅、そしてあのとき熾天使が本懐を語っていたこと。
普通ならありえないと一笑に付すような推論だが、宗一にはそれが妄言だとは思えなかった。
「まさか……俺たちが天使に成ったのは、貴方がそう望んだから……?」
『貴方がたが死して天使と化したのは私の計略に含まれておりません。それは空蝉響の望んだ策謀。私はただ、貴方がたこそが空蝉響を止めるに相応しい存在だと思い、姿を現しただけのこと』
光の消えた瞳で、熾天使は兄妹を見つめ続ける。
それはまるで彼の人格が消えて、神託を告げるための肉細工になったかのよう。
生命としての気配を完全に殺した状態で、彼は天啓を口にし続ける。
『琴浦清正の実子である貴方がたであれば、空蝉響と接触する機会も多かろう。……そのような打算もあれば、もう一つ。貴方がた二人が、私と空蝉響の関係性によく似ていたこと。それも私が貴方がたを選んだ理由です』
「……あの悪魔に、『どこか昔の自分に似ている』と言われたことがあるます。そのときは何かの冗談だと思ってましたけど、ほんとは、冗談なんかじゃないってことですか」
『ええ……貴方がたが生き続ければ、やがて私たちの生き写しになると断言できるほどまでに』
そう語る交の口調には、郷愁と後悔の感情が綯い交ぜになっていた。
その閉じた瞳の裏に、かつての情景を思い描いているかのよう。
今の彼には、あのときの一瞬がありありと想起できていた。
この世に地獄があるならば、きっとその日々が呼ぶに相応しい。
『想像したこと、ありますか? 千年前にも兄妹愛はあったのですよ』




