17章 純黒の決別
蒸し暑くて寝苦しい夜だと、眠りにつきながらもはっきりと分かっていた。
光の一筋すら差さない瞼の裏を眺めながら、宗一は夢と現の境目を彷徨っている。
今感じているクオリアは現実のものか、それとも自分の脳が生み出した夢という幻覚か。
それすら判断できないほど、脳の回転は鈍い状態だ。
ゆっくりと、彼の目が開いていく。
それは無意識的な行動、ごく僅かな物音に反応して瞼が動く反射でしかない。
真夜中の戒壇堂は真っ暗で、目を閉じているのとそう変わらない光景が広がっていた。
……しかし暗闇の中で、何かが動いている。
床が軋む音、衣擦れ、極僅かな息遣い。
生命の存在を感じさせる物音は、宗一の耳を素通りしていく。
半分しか開いていない目で、彼は小さな燐光を見た。
黒色の世界で輝く黒色の光は、背景と同化して視認し辛いことこの上ないが、それは確かに光り輝いていて――。
――黒い燐光が、彼の脳天に落ちていく――。
「誰だッ!!!」
鋭い怒声と共に、爆発音が響き渡る。
戒壇堂の中が爆炎の灯光によって照らされ、闇に紛れた犯行が眩く照らし出された。
羽を爆破させて、周囲に獄炎を放ったのは詞音。
彼女に庇われているのは、未だ現実を把握できていない宗一。
そして、黒い羽根を撒き散らしながら戒壇堂の隅に吹っ飛ばされたのは、源治だった。
「……窓塚さん、なんでこんなところに……」
宗一が呆けたのは一瞬だった。
すぐに直前の光景がフラッシュバックして、自分がどんな窮地に陥っていたかを理解する。
(今……俺の脳に、羽を……!?)
そう。
源治は、彼の脳に羽を突き刺そうとしていた。
そのまま羽の力で洗脳されるところだったが、源治の行動に気づいた詞音に救われたのだ。
だが、現実が理解できたとしても、何故という疑問符は消えてくれない。
仲間だと思っていた相手から、この一週間絆を深めてきた同志から、どうしてこんなことをされなければならないのか……。
「……手荒いデスね、闇倉サン……」
吹っ飛んだ拍子に打ち付けた後頭部を抑えながら、源治が静かに立ち上がる。
その手には黒い羽が二本握られていた。
一本は先ほど宗一を洗脳しようとしていた羽、そしてもう一本は、詞音を洗脳するための羽。
詞音が彼の犯行に気づいていなければ、二人とも、彼の傀儡と化していた。
「……あんたさ……今、宗一に何をしようとした……?」
詞音の瞳孔が開き、それに呼応するかのように翼が広がっていく。
羽は逆立ち、全ての切っ先が源治のほうに向けられていた。
源治が少しでも不審な動きを見せれば、一斉発射によってその身を粉々に爆散させられるだろう。
……詞音は、躊躇なくやりかねない形相を浮かべていた。
詞音は宗一の腕を引っ張り、二人揃って立ち上がる。
そして源治に羽の先を向けたまま、静かに数歩距離を取った。
「すこしだけ、信じてみてもいいかなって思ってたのに……!」
「ああ、違いマスよ闇倉サン……それは誤解というものデス……」
「何が誤解――あッ!」
そのとき、操り人形の糸が切れたかのように、詞音と宗一の体が崩れ落ちる。
同時に、ふくらはぎへの激痛。
彼らの足にはそれぞれ一本ずつ、緑色に光る羽が深々と突き刺さっていた。
「なんッ……」
「……!」
驚愕する宗一と、瞬時に状況を理解して羽の発射準備を終える詞音。
しかし彼女が羽を撃ち出すより早く、黒色の羽が彼女の翼へと突き刺さっていた。
それは紛れもなく源治の羽だ。
彼の羽によって詞音は翼の指揮権を失い、羽を撃ち出すどころか羽ばたき一つすら叶わなくなる。
……翼を奪われ、足を奪われ、抵抗と逃走を封じられた二人の前に、ルミネセンスの羽を纏う女が表れる。
「やあ、やあ、やあ! 輝かしき玉兎だね少年、幼子ちゃん。大人しく寝ていてくれれば、仲良しこよしの幻想を見たまま仲間になれたのに残念! ああ、本当に残念さ!」
空蝉響。
彼女もまた、共に死線を潜り抜けてきたはずの仲間だった。
しかし今の彼女が兄妹に向けている視線は、仲間に向けるはずのものではない。
自分の庇護がなければ生きていけないペットを眺めるような、下等生物を見据えるときの目であった。
「……やっぱりあんた、あたし達を謀ってたな……!」
詞音は憎々しげに恨み言を飛ばす。
一方の響は涼し気に冷笑し、何の感情も含まない無表情で詞音の顔を見下ろした。
「おや、おや。私の腹積もりを悟っていたかのような口調で話すじゃないか。……私の嘘に、最初から気づいていたのかな?」
「あッたりまえだッ。……数百年間生きてるヤツが『電波の傍受』なんて近代でしか役に立たない力を持つわけがあるかッ。数百年前にそんな力を持っていても実質無能力! 本当にそんな力なら、長く生き残れるはずもない……!」
「あぁ! だからずっと警戒し続けていたのか。迂闊迂闊、深く恥じ入る他ないね。はっは! ありがとう、勉強になったよ。これは勉強代だ」
響が己の羽を二本毟り――一切躊躇することなく、詞音の両手に突き刺した。
「いッ……!」
激痛に苦悶の声を漏らす詞音の握り拳から、桜の羽が舞い落ちる。
彼女は響の話に応じるふりをしながら、爆撃をくらわせる隙を窺っていたのだ。
しかしそれも看過され、既になせることなど何もない。
今の彼女は、羽によって地面に縛り付けられた標本風情でしかなかった。
「やめろッ! ……何が目的なんだ……俺たちを洗脳して、なにをしようってんだよ!」
「……君たちを洗脳して、やることか……」
響は薄く笑って、宗一の頬に手を添える。
そこに優しさなど欠片もない、視線を逸らさせないために顔の向きを固定しただけに過ぎなかった。
「別に、特にないかな……」
「……は……?」
「私にとっては君たちなんて何の価値もないし、心底どうでもいいからね」
宗一は、響の言うことが心の底から理解できなかった。
洗脳する理由なんてない、そもそも兄妹に関心を寄せてさえいない。
しかし彼女は源治を携えて宗一たちを襲い、その脳に羽を突き刺そうと企んだ。
彼女の気持ちが、行動原理が、理念が、何もかもが靄に覆われて掴みきれない。
本当に今、同類の生命体と話しているのかすら疑いたくなるくらいだった。
「ええと、何から話そう。ああ、いつだって腹積もりを語るのは面倒臭い! うーん……まず、私の力が『電波の傍受』でないことは幼子ちゃんの言う通りさ。では、本当は何の力だと思う?」
突然問いを繰り出されたとしても、宗一には答えを考える余裕などない。
そんな質問に回答している暇があるならば、どうやってこの状況を切り抜けるか考えたほうが百倍マシだ。
羽は操作されて動かせない。
足は激痛によって羽同様に動かせない。
しかし天使には寿命に基づいた治癒力がある、これくらいの傷なら癒え始めてもいい頃……。
(…………!)
そのとき、宗一は気づく。
痛みで足が動かないのではない。
……自分の意思で動かすことができないのだ。
それは源治によって掌握された翼と同じ感覚。
つまり、それの意味するものは――。
「あんたの力は、窓塚と同じか……!」
「名答名答、操作の力さ! でも同じというのは心外ここに極まれり、力は唯一無二のものなのだから」
響が源治に近づき、彼の黒い翼を引っ掴む。
そして力任せに引っ張り、翼の隙間を無理矢理こじ開けて宗一たちに見せつけた。
……源治の翼には、響の羽が何本も編み込まれていた。
それは宿主に寄生虫が集っているように、黒い翼の中で緑色の光が脈動を続けている。
「彼の力は模倣。他の天使の羽を結わくことで、その力を使うことができるものだよ。……さあもう分かるだろう? 彼の力があったからこそ、私は大幅な寿命を得ることができたんだ!」
「……。…………!」
一瞬宗一は考え込み――真実に思い至る。
「模倣の力を持った窓塚を洗脳して……自分の能力を間接的に使わせたな……!」
「大正解! 操作の能力者が二人になれば全てはイージーさ。源治の操る人間に大事件を起こさせて、私がそれを解決する! 最初は賭けだったけどうまくいったよ。源治の洗脳する人間が起こした殺人は源治だけの罪になり、源治を媒介して起こした犯罪を私が解決したら私の寿命となった! これで永久機関だ。私は自作自演の善行によって翼を汚すことなく無限の寿命を得た! 寿命の多寡に苦しめられる日々は終わりを迎えたのさ!」
その分別があるからこそ、響の翼は嫌味なくらい綺麗で、源治の翼は目も当てられないほどドス黒い。
二人の翼は真逆の性質を持つが、その根源は同じ。
響の考案したマッチポンプによって生まれた、偽りの救出劇。
きっと熾天使さえも想定していなかったであろう、不公平な裏技だ。
しかし余計に分からなくなる。
二人の力だけで永久機関は完結しているのだから、兄妹を洗脳する意味がないのだ。
兄妹の力を使って大規模な犯罪を起こすことを考えている可能性もあるが、それなら『何の価値もない』なんて言い草はありえないだろう。
考えれば考えるほど、響が何を言おうとしているのか理解できなくなる。
そんな宗一の混乱を理解しているのか、響は不慣れな笑顔を作りながら続ける。
「……いや、ほらね。私って基本優しいじゃないか。だからさ、源治に褒美をあげたかったんだよ。なんせ大量の寿命を稼がせてくれた立役者だろう、彼の望むものはなにかなーって考えたんだ! 一晩くらい夜なべしてね!」
……不気味なくらい、ばかに明るい口調。
その場の雰囲気を明るくさせようなんて腹積もりは一切ない。
彼女にとっては、これから話すことが朗報であるからこその声色だ。
その喜ばしい事実を分かち合いたく、彼女は気持ち悪くなるほどの明るい口調で、告げる。
「そしたらさ、思いついたんだよ。そうだ、大切な人と永遠に過ごす幸福をあげようって」
「……なに、を……ッ」
唸りながらそう言ったのは詞音だった。
その言葉は、今日の日中に源治と交わした言葉。
兄と居られる現状を大切にせよという、詞音にとっては人生の指標となった珠玉の理念――。
響の口から出てきたのは、その時間を打ち砕くような言葉だった。
「琴浦清正君の親類を全員殺して、天使にしてあげよう! そうしたらきっと清正君も喜ぶぞ! ……ってさ」
「その、名前は……」




