16章 いつか述懐する日常
そこから一週間くらいは、特筆すべきことのない穏やかな日々だった。
寿命に余裕ができた兄妹は以前ほど焦ることもなく、のんびりと寿命を稼いでいる。
時には何事もない平和な夜はあるけれど、大体は一日一件のペースで命を救い続けていた。
片翼が不自由になった宗一は飛ぶこと自体に大層苦労していたようだったが、今や彼の翼も全快して以前のような姿に戻っている。
翼が治ったとき、まるで天使に成った初日の詞音のようにはしゃいでいたのが印象的だ。
源治は相変わらずのマイペースだが、響は出会ったときよりどこかご機嫌な様子だった。
神の代替わりが来たことを知ったからだろう、彼女はミレニアムウイングになることを目指して今日も精進を重ねている。
とはいえ大量の寿命を稼ぐためには日々の積み重ねより大物案件をいくら獲得できるかなので、実際は大事件を探して電波を拾いまくっているというのに、傍から見ればただ漫然と飛び回っているようにしか見えないのが悲しいところだ。
今日も大空で新聞を読みながら「来週近畿地方で暴風警報出そうだから、狙い目はそこかな」などと呟いている。
何百年間もの経験がモノを言うのか、そんじょそこらの気象予報士より天気を的中させているから宗一もたまげる一方だ。
「むっ、ミレニアムウイングになってどうするか、だって?」
一度、宗一がそう問いかけたことがあった。
中々事件に遭遇せず、時間潰しに人助けをしている宗一を、おもしろそうだと言って響が手伝っていたときのことである。
「そうですー。本当に熾天使がいるのか確かめたかった、って言ってましたけど、確かめてその後どうするつもりなのかな~って」
「え、うぅん、そう改めて聞かれると……まいったな……」
珍しく、響は心から困惑したような表情を浮かべていた。
虚を突かれた、と言っても過言ではないような顔だ。
「目的もなく長生きし過ぎて、丁度生きることに嫌気がさしてた頃の話なんだけどね、天使の間でミレニアムウイングの噂が流行ったのだ。寿命も潤沢にあって暇だったし、噂の真偽を確かめることを生きる目的にしてみようっていうのが始まりだったな。……だから会うことが目的なもんで、出会った後のことをあんまり深く考えていなかったなぁ……」
「宇宙人と会うのが目標で、その後どう交流していくかは考えないタイプのSFマニアみたいですね」
「そもそも、熾天使に言葉が通じるかすら不明瞭で不明確! コミュニケーションが図れるかも分からぬ存在に何の期待を寄せようか。ああ皆目分からぬが、知的好奇心は疼く一方だ!」
「あ~、そーいや人語喋ってましたよ。こまっしゃくれて煙に撒く言い方でしたけど」
「そういうのだよ! そういう情報をもっと教えてほしいわけだよ私はっ!」
インディアンポーカーなら百戦錬磨だと言い切れるくらい不動心を保ちがちの響だが、熾天使の話になると決まって子供みたいな表情と態度をお出ししてくれる。
常日頃からこんな顔なら、詞音があれほど警戒することもなかっただろうなと宗一は思う。
……いや、するか。
妹の対人拒否力を甘くみていたことを兄は反省する。
「しかし少年の言うことは尤もだ、ぐうの音も出ぬ! 熾天使のご尊顔を見て満足して、そのまま地球のバッテリーになるだけでは無常! というか褒美の一つでもねだらねばなんか理不尽でむかつく」
「千年も幽閉されるわけですもんねー」
「よし決めた、ああ決めた! 神の代替わりを引き受ける代わりに、もう少し天使が生きやすいようにルールを変えてもらえないか嘆願しよう。それぐらいの役得がなければ我が魂も浮かばれまい、熾天使に成ってもすぐ飽きて辞めてしまいそうだ!」
どういうルールがいいかな……と、響が唸りながら考え込む。
「少年、君ならどんなルールが欲しい? 公序良俗に反しない程度でな」
「え、そうですね……個人的には、殺人で手軽に寿命を稼げる部分を改定してほしいですかね。誰も傷つけなくても天使が生き続けられたら最高かな~って」
「忌憚なき意見を有難う! ああ然り、確かに殺人が最適解になっているのは悪魔の誘惑でしかない。曲がりなりにも天使なんだし、悪行を犯さないようにするルールがいいね。……うーん、しばらくその方向で考えてみようではないか。最適なルールを思いついたら教えるよ!」
「ええ、楽しみにしてます!」
なんだかんだ波長が合うのか、二人は楽しそうに会話をしながら善行を続けていた。
……そんな光景を、信号機に座って不機嫌そうに眺めている女がいる。
当然、詞音である。
「…………不機嫌そうデスね」
そんな彼女の隣に飛び降りたったのは源治だった。
今まで買い物に出ていた彼は両手に袋を持っている。
その中身はいずれも食料品だ。
天使とて生命維持のため食事による栄養補給を必要とする。
だが金稼ぎも買い物もできない彼らは、普通の人間と同じように食料を得ることができない。
大体は助けた者の財布から少しだけお金を貰い、適当な店で金を置いて品物を持って帰るのが普通だ。
「不機嫌そうに見えるですか」
「ええ。……というより、常に不機嫌なように思いマス」
「死んだのにご機嫌なヤツなんていないますよ」
「おや、天使になった直後の詞音サンは大層はしゃいでいたト、宗一サンが言っていたような気がしますガ」
あのおしゃべりめ余計なことを……と、妙な気恥ずかしさを隠すように詞音は表情を険しくさせた。
感情を誤魔化す手段は数あれど、彼女はまだ威嚇の表情で隠すことしか学んでいない。
あれはただ、天使と化したときに不自由だった腕と目が復元したからはしゃいでいただけで……という言葉は、どう表現を変えても言い訳染みてしまいそうだったので、彼女はただ閉口するしかなかった。
源治は袋の中から缶ジュースを取り出し、詞音に差し出しながら言う。
「誰しもが幸運であるガ、己が幸運であると気づけた者だけが幸運に成れる……と言いマス」
「……今のあたしが、幸福とでも?」
「貴女の人格を形成した過去がどうあれ、今が不幸だとは思えないデスね」
詞音がどんな過去を辿ってきたか、その全貌を知らない源治でも薄々理解はできていた。
そしてその過去があったからこそ、今、兄に依存していることも悟っていた。
それでも源治には、今の詞音が幸せに見えて仕方がないのだ。
「禍福は糾える縄の如し、とも言いマス。不幸と幸福は表裏一体、周期性を持って成立するものデス。過去の貴女がどれだけ不幸であったとしても、今の幸福を過去によって侵害される謂れは無いと思いマス」
「……今、幸せだという証拠もないだろですが」
「死んでも尚、大事な人と共に居られル。これを幸福と呼ばずして何と呼称するデショウ」
「…………何も知らないくせに…………」
何かいいことを言おうとしていることは分かる、慰めのような言葉をかけていることも分かる。
それでも、詞音の心には苛立ちが募るばかりだ。
何も過去を知らない他人に、教えを説かれたくもないのだから。
「……空蝉サンもワタシも、大切な人と離れ離れになりまシタ。人は誰しもが天使に成れるわけではなイ。愛する誰かはそのまま死を迎えて、自分だけが天使になることなどザラにありマス。……昔のワタシは、自分が世界で一番不幸だと思っていまシタ」
「……」
仏頂面を隠すこともないまま、詞音は差し出された缶ジュースを受け取り、子供みたいな手付きでプルタブを開ける。
受け取った缶一本分なら話を聞いてやる、とでも言いたげな表情だ。
「自分はこんなにも不幸なのだから、他人が不幸になろうが関係ナイ。自分が味わった苦しみを知らずに生きる他人が許せナイ。どれだけ他人が傷つこうト、自分も被害者なのだから糾弾される筋合いはナイ。……その果てにあるのは、甲斐のない殺人だけデス」
背に生えた黒翼を身に纏いながら、源治は後悔を含んだ声色でそう言った。
殺人によって黒く染まった彼の翼は、罪の証。
何人、いや、何百人もの命を啜って生きていた咎と業の顕れ。
その翼に触れるたびにフラッシュバックする、愛する人の歪んだ顔。
永劫に終わらない、禊の日々そのものだった。
「貴女が得たこの日々は、世界の誰かが死ぬほど欲した日々でショウ。どんな大金を払っても、どんな徳を積んでも、得られはしない珠玉の日々なのデス。……大切な人といつまでも生きられることがどれだけ幸運なことカ、どうしても貴女に伝えたいのデス」
「……年長者からの進言、というやつですか」
「ええ、古老の含蓄とも言いマス」
詞音と同じように缶ジュースを一本開けて、空に浮かぶ高積雲を眺めながら、源治は言う。
「ワタシは、……もうそろそろ、貴女も幸せになって良いと思ってマス」
「……………………」
家族以外から、そんなことを言われたのは初めてだった。
まるで、初めて生きることを肯定されたかのようで。
口の中に広がるジュースの味が分からなくなって、少しだけ指先が震えて、視線が落ち着かなくなって。
兄への依存と他人への敵愾心、それ以外を知らなかった詞音が少しだけ動揺する。
「……でも、あたしの幸せが……宗一の幸せを邪魔するです」
彼女の幸せは兄と共にいること。
でも、彼女は自分の存在が兄の負担だと思っている。
誰かの負担となる幸せが、本当の幸いと呼べるのか。
彼女は、ずっと悩み続けていた。
「そんな幸せ、いらない。どちらかしか幸せになれないなら、宗一が幸せになってくれたほうがいいです」
「その話、面と向かって琴浦君と話し合ったことありますカ」
詞音は首を横に振る。
きっとその話をしたら、宗一はそんなことないと言うだろう。
それは分かってる、誰よりも優しい人だってことは世界で一番理解している。
でも、もしも、もしも……幸せの邪魔になっていると明言されたら。
ありえないことだと分かっていても、そう告げられるのが怖くて、口にすることなんかできやしない。
「人の世は、話し合わねば解決しないことばかりデス。悟ることや察することを願うのは、すれ違いを産むだけの悪手でショウ。……心の準備ができたら、悩みを打ち明けてみるとよいデス。大丈夫、家族は共に苦難を分かち合うために居るのですカラ」
いつもの詞音ならきっと、適当言うなと半分キレかかっていただろう。
しかし以前助けてもらったことを思い出し、その言葉は喉の奥に引っ込んでいく。
兄以外の人間は全員敵だと思っていた、みんな母親のように自分を苦しめる存在だと決めつけていた。
しかし、兄でなくとも命を助けてくれる存在がいる。
そんな人を無碍にすることに、罪悪感を覚える自分も確かにいる。
「………………」
恋の話は、きっと兄には語れない。
それでも、自分の存在が兄の負担になっているかどうかは、語れるのかもしれない。
語って何が変わるかは分からない。
でも、今の自分を変えたいなら勇気を出さねばならないだろう。
大丈夫、世界で一番信用している兄なんだから、酷いことなんか言わないよ。
詞音はそう自分に言い聞かせる。
少しだけ、一歩だけ、詞音が成長していた。
「……心の準備ができるまでは、何をしたらいいんですかね」
「琴浦君の喜ぶことをしてあげたらどうでショウ。例えばホラ、今彼らがしているように、困っている人を助けるトカ」
「以前それやろうとして、大失態犯したますけど」
数日前に、詞音は宗一を真似て人助けをしようとしたことがある。
そうすれば人助けに陶酔する兄の気持ちが少しは理解できるかもしれないし、普通の人間に近づけるかもしれないと。
だが、ただの弄りをしている学生集団をいじめの現場だと思って荒らしたり、重い荷物を運んでいる老人を楽にするため持っている荷物を全部捨てたり、急いでいる人が信号に引っかかっているのを見て信号機を爆破したり、あまりにもやらかしすぎてしまった。
人の気持ちが分からない彼女は、そのとき人助けを諦めたのだ。
「初めて動物に触れる幼子は、力加減を間違えるものデス。親の注意や相手の反応を受けて、正しい加減を理解していくのデスよ」
「それ、ゴミババアもしてたです。一度あたしを殴り殺しかけたから、こっちの反応を見て殴る強さ調整してたです」
「……重い過去は触れづらいのでさて置き、まずは琴浦さんの言うようにやってみてくだサイ。そうして少しずつ人を尊重する気持ちを理解していくのデス。貴女はまだ成長途中なのですカラ、間違いを重ねて学んでいくことが大事だと思いマス」
「…………」
詞音が立ち上がり、大きく翼を広げる。
そして風を起こしながら飛び上がり、宗一と響の姿を見据えた。
二人がどんな気持ちで人助けをしているのかは分からない。
だが、寄り添わなければ気持ちなど分かるはずもないのだ。
「……少しだけ、行ってくるです」
「ええ、頑張ってくだサイ」
飛行機雲のような燐光の軌跡を残しつつ、詞音が二人の元へと飛んでいく。
残された源治はジュースの残りを飲み干しながら、まだ幼い少女が成長していく様を眺めていた――。




