14章 咲かない祭囃子【色を知った日】
神社は祭の雰囲気に満ちている――。
先ほどまで命の危機に晒されていたことなど露知らず、祭を楽しむ賑々しい声が飛び交っていた。
その合間を縫うように重厚な、しかし軽快な太鼓の音が、人々の喧騒と争うようにして響き渡っている。
唐紅色、泡紅色、紺青色、檸檬色――屋台の光が赫灼と輝き、まるで宝珠のよう。
そんな光を浴びて、より一層美味しそうに面並ぶ屋台の食べ物。
祭の雰囲気と笑い声。
ラムネがはじける音と、篠笛の軽快な音。
今日の神社はいつになく賑やかで、そして笑顔が溢れていた。
屋台が両側に面並び、人々はその間を歩いていく。
浴衣を着た者や家族連れ、友達同士で遊びに来たのかはしゃぐ小学生と、はぐれないよう手を繋いで寄り添いつつ歩く恋仲。
祭を楽しむ者がひしめき合い、前に進むだけでも一苦労だった。
「……」
そんな中を、兄妹は歩いていた。
二人は誰にも知覚されることはないが、翼を小さく折りたたんで、普通の人間と同じように人混みの中を行く。
「祭、来たかったの?」
「……うん」
宗一の問いかけに、隣を歩く詞音が首肯する。
彼女がどこかへ行きたいとねだるのは珍しいことだった。
宗一以外の人間を忌避し続けていた彼女は、外へ出歩くよりも家で宗一と共にいることを望んでいたのだ。
実際、二人でどこかへ遊びに出かけたことなどほとんどない。
どういう心境の変化だろうか。
そんなことを思いながら、宗一は空を見上げる。
祭の極彩色に負けたのか、星がいつもよりくすんで見えた。
「翼、痛々しいね」
詞音が宗一の翼に触れる。
彼の片翼は何回か蛇腹折を試みたような折り目が着き、数ヵ所ほど骨のようなものが突き出ていた。
もし鳥がこれほどまでに翼を傷めたならば、もう二度と飛べなくなると誰もが判断するだろう。
「結構無残にひしゃげたからねぇ。四日間で治るとは言ってたけど、それまでどうやって飛んだもんか……」
「片翼でも飛べるように特訓するしかないんじゃないの。折れた翼をむりやり動かしたら、治るものも治らなさそう」
「そうするしかないかぁ……もし墜落しそうになってたらお兄ちゃんを助けてね」
「えー、やだ」
嫌がらないでよー、と言いながら宗一が軽く笑う。
違うの、そう詞音は思った。
ほんとはいいよって言いたかった。
だけど、心と言葉がうまく噛み合わない。
優しい言葉を言おうとしても、つい反抗的な言葉が出てしまう。
「……でもほんと、詞音ちゃんが無事でよかったよ。爆発までの時間ギリギリだったからすっごく心配した」
「したんだ、心配」
「するでしょう、そりゃ」
「ふーん……」
胸中に広がっていく、暖かな心緒。
それを隠し切るために、詞音は視線を逸らして、地面を見つめる。
「また、心配してくれたんだ……」
人混みの道すがらを歩きながら、詞音がそう囁いた。
喧噪の中での小声はともすれば掻き消されないくらいだが、それでも宗一は彼女の言葉を聞き逃さなかった。
きっと、この場所でなければその言葉の意味は把握しかねただろう。
そして、その言葉を聞いたからこそ、宗一は詞音がここへ来たがった理由を理解する。
『この子は勉強で疲れているから、関わらないで』
忌まわしき母親の声が、詞音の脳内に反響する。
母親から地獄の限りを尽くされてきた詞音は、離婚時の契約に基づいて琴浦家と引き合わされたときも、ずっと疲れ切った眼をしていた。
毎日が反吐の出るような日々で心は壊れ切っていたのだ、元気を出せるはずもない。
琴浦家の面々と出会っても、挨拶すらままならない詞音。
そんな彼女の様子を誤魔化すために、母親は琴浦家にそう告げていたのだ。
日々の勉強で疲れているから元気がないと、中学受験を控えているから今は勉強以外に気を回している余裕はないと――。
小学三年生とは思えないほど腐りきった眼をしている詞音に、宗一の言葉は長らく届かなかった。
その当時、詞音にとって宗一は馴れ馴れしい親戚という認識でしかなく、実の兄という感覚すら持てていなかったのだ。
そんな彼女の様子を見かねた宗一が、そのとき行われていた夏祭りに詞音を連れ出そうと計画したのだ。
無論母親は全力で嫌がったし、まだ心を開いていない詞音も全然乗り気ではなかった。
でも、宗一は本能的に分かっていたのだ。
このまま詞音を放っておけば、きっとそのうち取り返しのつかないことになると。
だから、無理矢理にでも詞音を祭に誘ったのだ。
延々と駄々を捏ね続け――いよいよ母親も対応が億劫になったのか、一時間だけ祭に行く許可が下りた。
無論後方から母親の監視を受けつつも、二人は夏祭りに行くことになったのだ。
正直、詞音は『嫌だ』と思っていた。
彼女にとって他人は全員敵でしかない。
母親から受けた仕打ちによって人間不信に陥っていた彼女には、他人と居ることで心休まる瞬間などないのだ。
それでも……初めて訪れた夏祭りは、圧巻だった。
ずっと学校と家を往復し続ける人生で、友達と外で遊んだことすらない彼女にとっては、ただの町主催の夏祭りであっても桃源郷のような光景。
こんなにも人がいて、こんなにも飾りが輝いて、こんなにも美味しそうなものが面並ぶ屋台があって、こんなにも人々が笑っていて――。
『こんなところがあったんだ』
そう、無意識のうちに呟いていた。
くすんだ世界を生きる彼女にとっては、こんな鮮やかな世界など文献の中にしか存在しないものでしかなかった。
天国とか天使とか、別世界とか神とかそんなような、人々の空想上の中にしかないものだと思っていた。
きっと彼女は、不思議の世界に入り込んだアリスのような気持ちを味わっていただろう。
『夏祭り、来たことなかったの?』
幼き宗一の問いかけに、詞音は首を縦に振った。
夏祭りという名称こそ知っていても、実物は愚か、催されている写真すら見たことがなかったのだ。
『おいで。奢ってあげるよ、ばっちゃんからお小遣い貰ってきたからね!』
そして宗一は詞音の手を握り、どこまでも面並ぶ屋台へと連れ出す。
初めて食べるものばかりで、初めて遊ぶものばかりで――楽しいという感情を抱くことすら、初めてで。
生まれてきて初めて知った、生きる喜び。
誰かと何かを分かち合い、共に楽しむ時間。
『……あ』
そのとき、真っ黒なキャンパスに色彩を差し込むように、打ち上げ花火が空で咲き誇る。
体の奥底にまで伝わる振動、鼓膜を揺るがす開花の音、千紫万紅の色が天空を覆う。
これも、生まれて初めて見る光景。
宗一がいなければ、きっと見ることのなかった情景――。
詞音は、ただその雄大さに見惚れることしかできなかった。
宗一と繋いだ手をぎゅっと握り締めて、少しだけ溶けかけた林檎飴を片手に、再び色彩が空に咲き誇るのを待っている。
『……詞音ちゃん。たぶんね、辛いことはいっぱいあると思うよ』
後ろで見張っている母親に聞こえないよう、宗一が小さな声でそう囁く。
『でもどんなことがあっても、僕は詞音ちゃんの味方だから』
そこで初めて、詞音が花火から目線を逸らす。
そして隣にいる兄と視線が合わさって――。
『もし本当に辛くなったら、お兄ちゃんを頼ってね。たすけてって言ってくれれば、絶対僕が詞音ちゃんを助けるから』
詞音は、少しだけ泣きそうになった。
悲しみ以外に起因して涙を流しそうになるのは、初めてのことだった。
……そのときからだっただろう。
詞音が少しずつ宗一に心を開き始めて、年に一度会えるのを楽しみにしていたのは。
この瞬間、ようやく詞音は心を許せる相手を見つけたのだ。
何一つ救いのない人生に生まれた、唯一の安らぎだった――。




